1952グアム島沖砲撃戦28
―――まさか、自分がこちら側に回るとは思わなかったな……
巨人機の動翼に繋がる操縦桿を軽く握りながら、石井少尉は脳裏の片隅でもう10年程前になるマルタ島沖合の夜空で自分が見た光景を思い浮かべていた。
石井少尉の記憶は地中海中央部の要衝である英領マルタ島で激しい争奪戦が行われている最中だった。侵攻するドイツ軍を撃退すべく日英混成艦隊と独伊仏連合艦隊がマルタ沖で夜戦に突入していたのだ。
まだ若い飛曹だった当時の石井少尉は、二式水上戦闘機を駆って飛来する英軍機を援護する為に危険な夜間飛行に挑んでいたのだが、一体何の為に自分達が出撃したのかは、その瞬間まで分からなかった。
石井少尉達の二式水上戦闘機の前に出現したのは英国空軍の爆撃機、に見えた。第二次欧州大戦の開戦前から売却されていた日本陸軍の九七式重爆撃機を英国仕様に改めたボストン爆撃機と思われたのだ。
だが、眼下の海面で敵味方の戦艦が戦闘を開始した時点で、その英軍機は正体を顕にしていた。単発単座の戦闘機を見慣れた石井少尉には間延びして見えた九七式重爆撃機胴体側面から、敵戦艦に向かって光芒が放たれていたのだ。
その後の英軍機は、イタリア戦艦の対空射撃で損傷するまで、一方的に敵戦艦を照らし出して艦隊戦の支援を行っていた。当時から大型艦では艦載電探を搭載していたから夜間でも主砲射撃そのものは可能だったが、電探の精度は粗く光学観測との併用は必須だった。その補助を英軍機は行おうとしていたのだ。
その探照灯を装備した機体が、本来は英空軍で夜間戦闘機の補助を行うタービンライトと呼ばれる機体であると知ったのはその時の事だった。
英本土に侵入する独重爆撃機を迎撃するために行われ始めていた英空軍における夜間戦闘は、当時はまだ手探りの状態だった。夜間戦闘機と言っても専用に開発された機体は開戦当時は誰も持っていなかった。
英空軍の夜間戦闘機も、単発複座の銃塔付戦闘機や、操縦が容易なハリケーンなどの一部単発単座機が単に夜間戦闘機部隊に割り当てられただけだったのだ。
実戦投入が始まったばかりの電探は、まだ手探りで開発を進めていた黎明期であったし、操作も複雑だから単発単座の戦闘機に搭載して機上で操作するのは困難だった。
夜間戦闘を主任務とする専用機が開発される以前、電探を装備して夜間防空任務にあたっていた本格的な夜間戦闘機に双発爆撃機を原型としたものが多かったのも、搭載量や搭乗員数に余裕があったからだ。
実は零式艦上戦闘機を原型として紆余曲折の末に開発されていた二式水上戦闘機も、夜間戦闘機としての機能を持たせるべく機上電探が備わっていたのだが、それは広範囲の捜索用ではなく、精度は高いが捜索範囲の狭い射撃管制用電探、しかも故障しやすい試作機に過ぎなかった。
二式水上戦闘機が片翼から数少ない銃兵装を取り払って射撃管制電探が設けられたのは、積極的な理由からではなかったのだ。
そもそもこの特異な水上戦闘機の開発経緯は複雑なものだった。計画当初は、太平洋において敵領域内にいち早く進出した航空隊において初期の防空任務を行うのが目的だった。
広大な太平洋における艦隊決戦計画では、侵攻する米艦隊を長距離哨戒機で捜索することになっていたが、未だ航空基地整備が追いつかない僻地に特設水上機母艦と共に水上戦闘機を進出させることで、設営隊が恒久的な陸上基地を建設するまでの防空任務を行うというとする目論見だったのだろう。
だが、その開発目的どおりに二式水上戦闘機が運用されたことなど一度もなかった。1940年代の太平洋では日米共に衝突を避けていたということもあるが、それ以前に当時から空気抵抗となる巨大な浮舟を吊り下げた水上機形態が急速な航空技術の発展に追いつけないという声が上がっていたのだ。
特殊な水上戦闘機どころか、巡洋艦などを母艦とする水上偵察機ですら運用範囲が狭まっていた。開発が進められていた高性能の水上機も陸上機形態機との性能が隔絶化したことで次々と開発中止に追いやられていたようだ。
どれだけエンジン出力を上げたところで、空気抵抗源である浮舟を捨て去らない限り速度面の不利を補うことが出来なかったのだ。
高い機体性能を追い求めるのではなく、飛行甲板を持たない戦艦や巡洋艦から運用出来る汎用性を重視することで生き残りをかけるという流れもあったようだが、実際にはそうした用途には急速に回転翼機が進出していた。
陸軍で砲兵部隊用の観測機としてオートジャイロに代わって採用された回転翼機は、使い勝手の良さから急速に配備が進められていた。回転翼機はエンジン出力の割には水上機にも速度性能や航続距離などの点では見劣りしていたが、垂直離着陸が可能という唯一無二の特性を持っていた。
海軍でも短距離連絡機や艦砲射撃時の観測機などとして運用が始められていた。第二次欧州大戦終結に前後して就役した信濃型戦艦は早くも水上機用の航空艤装を廃していた程だった。
それどころか、建造中の新型戦艦では当初から本格的な回転翼機の運用能力を持たされているという話だった。単に甲板を空けて発着艦をさせるのではなく、信濃型で廃止された航空機用格納庫を復活させて回転翼機専用とする計画らしい。
最近では、対潜用の回転翼機も前線に投入されていた。第二次欧州大戦中に就役した飛行甲板長の短い海防空母では新鋭のジェット機を運用することが不可能であったから、固定翼機ではなく新鋭の回転翼機に搭載機を改めてしまったようだ。
出力などの面から固定翼の対潜哨戒機と比べると回転翼哨戒機の能力が一段劣るのは否めなかった。回転翼機哨戒機部隊では敵艦を捜索する哨戒機と爆雷を抱えた対潜攻撃機を分けて運用しなくてはならなかったからだ。
その一方で空中で停止して聴音機を海面下に投入するといった固定翼機では不可能な戦法も可能だったから、将来的には固定翼機と回転翼機で棲み分けがされていくのではないかという声もあるようだ。
そして、二式水上戦闘機の開発時期は回転翼機の黎明期と重なっていた。当初から限定的な使い方しかできない補助戦闘機として考案されていた上に、実用化される頃には水上機という様式そのものが存在意義を問われるようになっていたのだ。
計画当初は純粋な水上戦闘機というものであったはずの同機に限定的な夜間戦闘能力が持たされたのはこの頃だった。
これは計画の迷走というしかなかった。日本海軍でも相当の技量優秀者でないと夜間の発着艦自体が難しかったから、艦上機と比べればまだ着水が容易な水上機で夜間の艦隊防空を行うという目論見だったようだ。
勿論、そのような胡乱げな機体が長続きするはずは無かった。
そもそも第二次欧州大戦ではドイツ占領地域に攻め込む立場だった日本軍では防空用の夜間戦闘機は補助的な扱いでしか無かったし、海軍の月光や陸軍の二式複座戦闘機といった第一世代の改造夜間戦闘機が早くも制式化されていたからだ。
結局、石井少尉達の航空隊もその後早々と通常の艦上機に装備を転換して水上機母艦である日進から改造空母飛鷹の航空隊に鞍替えとなっていたのだが、考えてみれば夜間戦闘における本来のタービンライトの使用法も、二式水上戦闘機と同じく時代の徒花であったのかもしれなかった。
本来地上に設置すべき大出力の探照灯を空中に持ち上げたものと言えるタービンライトの使用法は破天荒なものだった。タービンライトが装備する電探で捉えた敵機を機首に備えた探照灯で照射することで、同行する単座夜間戦闘機に目標を指示するというものだったからだ。
だが、正確に言えばタービンライトMk.1と呼ばれた初期のタービンライトを装備した夜間戦闘機隊ではこの戦法は上手くいかなかったらしい。空中で随伴するはずのハリケーン戦闘機と合流するのに失敗することも多かったというが、そもそも構想自体に問題があったのだろう。
完成した実物は奇妙なものだったが、タービンライトの発想自体は従来の爆撃機改造夜間戦闘機に対する不満からだったらしい。搭載能力の高い爆撃機は嵩張る当時の電探を機内に積み込む事が可能だったものの、機動性の低さから折角発見した敵機を取り逃す事も多かったらしい。
その一方で軽快な単座夜間戦闘機は離着陸ですら難しかったから、夜間の接敵は相当運が良いか、地上部隊の支援が優れていないと難しかった。
そこで英国空軍の誰かが思いついたのが、爆撃機と単座戦闘機という特性の異なる2機種の改造夜間戦闘機を組み合わせることだったらしい。
爆撃機の機動性では電探で敵機を発見しても銃撃位置につけるのが難しいと言うならば、捜索と目標指示に爆撃機改造夜間戦闘機を特化させて、単座機の支援に当たらせようというのだ。
結局はタービンライトMk.1は全くというほど活躍しなかったようだ。ハリケーンと共同で銃撃しようにも実際に敵機を照射すること自体が困難だったらしい。
考えてみればそれも当然だった。タービンライトMk.1は機首に探照灯を固定配置していた。そして遠距離まで照らし出す為に探照灯の照射角はさほど広くはなかった。
それが意味するのは明確だった。結局機動性の低い爆撃機改造のタービンライトでは、探照灯の照射範囲内に敵機を捉えるというこの構想の前提を満たすことが難しかったのだ。銃砲兵装が捉えられなかった標的は、探照灯にしても捉えられなかったのだ。
もしもタービンライトが採用されていたのが日本軍や米軍であれば、この時点でこの構想そのものが誤りであったとして放棄されていてもおかしくはなかった。
ところが、ここで英国人の妙に凝り性な、あるいは頑固な性質が鎌首をもたげていた。石井少尉がマルタ島沖で目撃したタービンライトは、正確に言えば失敗作だったMk.1を発展させたMk.2だったのだ。
タービンライトMk.2は原型となった機体自体が異なっていた。Mk.1が九七式重爆一型に相当するボストン1から改造されていたのに対して、より空気抵抗を削減して高速化を図った九七式重爆撃機三型の英国仕様であるボストン3とされていたのだ。
九七式重爆撃機三型は、あらゆる点で初期型から進化していた。自重は2トン近くも重くなっていたのだが、それ以上にエンジン出力の増大と洗練された機体形状による空気抵抗の削減によって、最高速度は開戦時の戦闘機並といえる毎時500キロを越えるところにまで達していた。
それなら素直に銃兵装を有する純粋な夜間戦闘機にすることも可能だったのだろうが、よせばいいのに英国空軍はタービンライト仕様機を繰り返して製造していた。
英国空軍は、タービンライト仕様機の特徴である探照灯をMk.2では横に向けていた。探照灯の仕様は、機首に固定されたMk.1仕様と比べると豪勢なものだった。胴体側面から横に向けられているとは言え、二軸式の可動軸で照射範囲を自在に動かせたからだ。
探照灯自体の機動性の低さが照射範囲に敵機を捉えられなかった原因であると考えた英国空軍の関係者は、鈍重な爆撃機が敵機に追随できないのであれば、機体そのものは固定されたものと考えて、電探と連動した探照灯の方を機動させればいいと考えたのだろう。
勿論だがその程度で敵機を追随できれば苦労はしなかった。改良されてもタービンライトで捉えられるのは相手も鈍重な爆撃機に限られていたのだが、その頃にはタービンライト仕様が考案された前提自体が崩れかけていたのだった。
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