1952グアム島沖砲撃戦18
艦隊上空の彼方には、南洋の陽光でもはっきりと見えるほど激しく閃光が走っていた。発艦していった友軍戦闘機隊による阻止戦闘はまだ続いているらしい。
中央指揮所に繋がる艦橋付の電話伝令の報告によれば、重巡洋艦八雲のマスト頂部に備えられている対空捜索電探でも苛烈な戦闘の勢いは観測されているようだ。
どちらが優勢かはまだ分からなかったが、防空戦闘に専念したとしてもこの艦隊に向けて侵入する敵機全てを戦闘機隊のみで阻止出来るとは、栗賀少佐には思えなかった。
八雲の航海長に過ぎない栗賀少佐は、航空隊を含む艦隊の全容を把握しているわけではないが、日本本土に侵入するB-36編隊を海空軍の全力を持って迎撃しても取りこぼしが出るというのに、空母機動部隊から出撃した戦闘機隊だけで対処出来るとすれば不自然だった。
それにマリアナ諸島との間合いからしてB-36編隊には米海軍の艦隊航空隊と米陸軍航空隊の戦闘機も随伴している筈だった。出撃した友軍戦闘機隊の中では長距離から必殺の誘導噴進弾を発射出来るのも四四式艦攻だけだったから、戦闘機隊も対戦闘機戦闘に巻き込まれているのではないか。
ただし、有利な点もあった。本土の防空陣地が各地に散在しているのに対して、艦隊が有する対空陣地、すなわち防空火力を備えた艦艇は自在に機動できるのだ。それに加えて米軍が優先的に狙うであろう目標もはっきりとしていた。
ユーラシア大陸東岸を囲うように弓状に広がる日本領に対する戦略爆撃は、実際に本土に接近するまでその目標を判別し難くさせていた。ルソン島攻略における拠点となっている南方の台湾島を含めると、日本領は四千キロを超える範囲に広がっているからだ。
しかもグアム島から見た場合、首都東京から九州までの距離はほぼ同等であり、なおかつ針路状の角度も僅かだった。それにB-36の長大な航続距離からすれば迂回機動で爆撃目標を欺瞞するのも容易だったのだ。
補給の困難などを承知の上で、戦略爆撃の拠点となっているグアム島に近い硫黄島や宇津帆島を日本軍が前哨陣地として維持し続けているのもそれが理由だった。
米軍の戦略爆撃は、開戦直後の鎌倉の様に首都やその近郊を狙うものが多かったが、彼らも度重なる損害に方針を幾度か変更しているのか、防備の充実した首都周辺を避けて地方の大都市や工業地帯を爆撃する事もあった。
だから早期発見と継続した追尾によってB-36編隊の最終目的地を判別できるかどうかが彼我の損害に大きく関わっていたのだ。
そいした戦略爆撃に対して対艦攻撃の場合は、艦隊航空の要である空母や決戦戦力である戦艦を狙ってくるのは必然だった。巨人機であるB-36は高価な機体の筈だったからだ。
戦略爆撃の間隔や、撃墜機の残骸調査などから従来の重爆と比べても整備の手間も膨大なものである事が分かっていた。そんな貴重で運用に手間の掛かるB-36を投入するとすれば、目標は艦隊の中核となるだろう。
それに出撃後の整備に要する時間を考慮すれば、大規模空襲の間隔は相当長いはずだ。艦隊外郭に位置する防空艦を削いでいく余裕は米軍には無いと考えて良さそうだった。
B-36編隊の爆撃に備える八雲は、利根、筑摩と共に第17戦隊を構成していたが、戦隊司令官が座乗する旗艦は、重巡洋艦である八雲ではなく軽巡洋艦利根が指定されていた。
元々八雲はドイツ海軍で建造されたプリンツ・オイゲンが原型だった。賠償艦として引き渡された同艦は、これまでは大型実験艦として各種試験が行われていた。
だから、日本海軍籍に正式に編入されて重巡洋艦八雲となっても、そんな胡乱げな艦に司令官旗を掲げる事は出来なかったのだろう。
それに、第17戦隊に配属された3隻の巡洋艦の主兵装は主砲ではなくなっていた。軍縮条約における重軽巡洋艦の区別はこの戦隊にとっては殆ど意味がなくなっていたともいえた。
新兵器の実験に使用されていた八雲だけではなく、最上型に続く大型軽巡洋艦だった利根型軽巡洋艦の2隻も就役時とは姿を変えていた。
利根型軽巡洋艦は、水雷戦隊の旗艦や駆逐艦の撃退などに使用されていた伝統的な軽巡洋艦ではなく、軍縮条約の規定一杯で建造された準主力艦とも言えるクラスだった。
このクラスの大型軽巡洋艦を建造したのは日本海軍だけではなかった。軍縮条約によって戦艦の保有数を制限された列強各国は1万トン級の軍縮型巡洋艦を競って建造していたからだ。
中には8インチ砲を装備した戦艦とも言えるような重装甲艦として建造された重巡洋艦もあったが、重巡洋艦の保有枠も埋まってしまった各国は6.1インチ砲を上限とする軽巡洋艦でも同様の制限一杯の大型軽巡洋艦を建造していたのだ。
備砲や装甲は6.1インチ砲相当であるものの、1万トン級大型軽巡洋艦の戦力は侮れなかった。
主砲の装備数が1万トン級の8インチ砲艦では難しい10門を越えるものもあったし、撃ち出す砲弾の1発あたりの重量は8インチ砲に劣っても、初速や発射速度で上回る事で、目標によっては6.1インチ砲の方が優秀と判断されることもあるようだ。
日本海軍の最上型軽巡洋艦も6.1インチ砲を15門も備える優秀な戦闘艦として建造されていた。実質的に最上型は、同様に艦橋構造物前後に主砲塔を配置した重巡洋艦の連装8インチ砲を、3連装の6.1インチ砲にすげ替えたものと考えて良さそうだった。
だが、各国で整備されていたこのクラスの大型巡洋艦が実戦で役に立つものかは、欧州大戦開戦前は判然とはしなかった。各国とも準主力艦として整備する為に急速に強化された主砲を使いあぐねていたとも言えただろう。
例えば、イタリア海軍では、高初速を目指した巡洋艦主砲の左右両砲で斉射を行った場合における散布界の拡大が問題視されていた。軽量化を考慮して連装砲塔の砲装備間隔を短くした結果、近接して飛翔する砲弾の影響を受けたためらしい。
結局、イタリア海軍の多くの巡洋艦は、連装砲塔でも2門を一斉に発射することを避けて、カタログスペック上の発射速度を無視して左右砲の交互射撃に務めていたと栗賀少佐は戦時中から聞いていた。
極端な高初速化と軽量化を目指していたイタリア海軍程ではなかったにしても、日本海軍でも巡洋艦主砲に関してはいくらかの問題も発生していたらしい。列強各国が巡洋艦を本当の意味で戦力化出来たのは、実際には第二次欧州大戦開戦直前のことだったのかもしれない。
条約型大型軽巡洋艦としては最終世代となった利根型は、こうした問題に対する日本海軍の回答であったとも言えるかもしれなかった。通常艦橋構造物前後に振り分けて配置される主砲塔が前方に集中配置されていたからだ。
ダンケルク級やネルソン級、ノースカロライナ級といった一部の戦艦で主砲を前方集中配置していたのは、防護区画を狭い範囲に固めて防御効率を向上させる為であったが、日本海軍は結局この配置の戦艦は建造しなかった。
利根型軽巡洋艦は、結果的に主砲塔が集中配置することで散布界は縮小されていたものの、日本海軍が同型を建造した本来の目的は、主砲塔を追い払った後部甲板に航空艤装を集中配置する事にあったようだ。
空母部隊に随伴させる事を前提として建造された利根型は、艦隊の目となる水上偵察機を集中運用する能力を求められたわけだが、皮肉なことにその目的は早々に消失していた。
第二次欧州大戦中には、航空技術の急速な発展が空気抵抗となるフロートを抱えた水上機という航空機の形態そのものを過去のものにしようとしていたからだ。
日本海軍でも、大戦中から既に電子兵装を満載したものに加えて、高速、高高度性能に特化した陸上機と同形態の艦上偵察機を実用化していた。陸軍の一〇〇式偵察機などと同様の観点で開発されていたものと言えるだろう。
早くも偵察機としての水上機の運用が段階的に縮小されていた大戦末期には、利根型の後部甲板は半ば遊んでいる状態だったらしい。
実は日本海軍の水上偵察機部隊には偵察任務の他に攻撃的な任務も考えられていた。巡洋艦部隊の水上機を集中運用して、艦上機部隊と共に敵空母を先制攻撃する水上爆撃機としての任務だった。
狭い欧州海域での戦闘しか考えていなかったドイツ海軍ではさほど真剣に洋上決戦など考えられてはいなかったが、日本海軍では前哨となる洋上航空戦で敵空母を撃滅して制空権を奪取した後は、巡洋艦部隊も敵艦隊との戦闘に突入する予定だったようだ。
そうなると水上戦闘に突入した巡洋艦に搭載されていた水上機部隊の帰還先がなくなるわけだが、この回収任務には艦隊随伴型の水上機母艦が投入される予定だった。
巡洋艦に類似した高速性能と自衛戦闘火力を与えられた日本海軍の水上機母艦群は、傍から見れば贅沢極まりないものに見えていたのだが、実際には艦隊型水上機母艦は、巡洋艦部隊と一体運用されて文字通り主力艦隊に随伴する任務を帯びていたようだ。
ところが、その水上機母艦は戦時中は高速性能と搭載量を活かした高速輸送艦として運用されていた。水上機を海面から吊り上げるために整備されていた大容量のデリックも迅速な荷役に活用されていたし、最前線でも運用可能な自衛火力も高速輸送艦としては魅力的な能力だった。
それどころか、大戦末期になると水上機母艦は射出機を降ろして空いた甲板をヘリコプターの発着艦用に転用されていた。
この時点では貧弱なヘリコプターの能力は短距離の偵察や連絡用途にしか使えないものだったが、艦砲射撃の着弾観測や着艦に失敗した艦上機搭乗員の救助といった補助的な任務には、垂直離着陸で狭い甲板でも運用できることから重宝がられていたされていたのだ。
日本海軍には利根型と共に航空巡洋艦扱いされる軽巡洋艦もあった。米海軍の飛行甲板を有する巡洋艦と軽空母の合の子である航空巡洋艦ではなく水上機用の航空艤装を重視したという程度の意味だったが、大淀型がそれだった。
ただし、潜水艦隊旗艦として運用されるはずだったという大淀型には、水上機を露天繋止する利根型と違って格納庫があった。この格納庫を艦隊司令部施設に転用して戦時中は大規模な艦隊の旗艦として運用されることもあったようだ。
ヘリコプター母艦となった高速水上機母艦や、艦隊旗艦として再整備された大淀型と比べると、水上機の運用が停止してもなお射出機を載せ続けていた2隻の利根型は中途半端な立ち位置にあったとも言えた。
ところが、現在の利根型は空母直掩艦と考えられていた建造当時から見ても、攻撃的ともいえる役割が与えられていた。
かつて水上偵察機を集中搭載されていた利根型の後部甲板は、誘導噴進弾の搭載スペースに割り当てられていた。搭載されている噴進弾は大柄なものであり、その発射には水上機用の射出機が転用されていたのだ。
同型の誘導噴進弾は八雲の射出機にも載せられていた。この性格も出自も異なる重巡洋艦が利根型と共に行動しているのは、新たな主兵装とも言えるこの噴進弾が共通しているからだった。
ただし、従来の水上機格納庫に予備弾を搭載するだけの八雲は、連続発射速度も整備性も悪かった。元々この噴進弾の実験を行うために別用途に使用されていた格納庫も急遽再整備されていたほどだった。
もしも開戦が数年後にずれて八雲におけるこの噴進弾の実験が完了していたとすれば、限定的な能力しか持たない射出機や格納庫から噴進弾は運用能力ごと撤去されていたのではないか。
それと比べると八雲における運用実績や開戦以後の戦訓を反映して、利根型の噴進弾運用能力は進化してものになっていた。
昨年初頭に行われたルソン島上陸作戦に付随して行われた海戦で、第17戦隊の3隻は初めて揃って実戦で噴進弾を発射する機会を得たのだが、利根型の噴進弾発射機能はそこから更に改良工事が行われていた。
というよりも、海戦時の装備は単に不要だった航空艤装を噴進弾用に転用した程度のものに過ぎなかった。今の利根型は、実戦で様々な問題を抱えながらも一定の実績を示した噴進弾の運用に適するように、予備弾の遮熱や再装填の高速化などが図られていたのだ。
尤も、誘導噴進弾と言っても八雲や利根型に搭載されているのは水上戦闘用に設計されたものだから、直近の戦闘で使用される機会はなく射出機上で固定された即応弾を除いて格納庫内で収められたままだった。
第11分艦隊に配属された艦艇の中には、対空戦闘で使用可能な対空誘導噴進弾を備えた艦は少なかったのだ。
八雲型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cayakumo.html
ノースカロライナ級戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/bbnorthcarolina.html
一〇〇式司令部偵察機の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100sr3.html