1952グアム島沖砲撃戦14
―――最近は自分達が何の部隊なのか分からなくなってきた……
仏頂面をした垣花飛行兵曹長は、四四式艦上攻撃機、流星の爆装して重い機体を苦労して上昇させながらそう考えていた。
そして垣花飛曹長達艦攻隊の周りを、ジェットエンジンを搭載した四九式艦戦や四六式艦戦だけではなく、初期型からエンジン形式を換装した四四式艦戦二型までもが悠々と追い抜いていった。
第二次欧州大戦末期に採用された四四式艦攻は、艦上爆撃機と艦上攻撃機を統合する画期的な機種として誕生していた。
つまり魚雷や重量級の爆弾等を装備する艦上攻撃機が、急降下爆撃を行う艦上爆撃機並みの機体強度を有するようになったということなのだが、果たしてそれが当時の日本海軍が求めていた艦上攻撃機の任務に沿っていたかと言われると垣花飛曹長には疑わしくも思えていた。
第二次欧州大戦は、艦上攻撃機の任務が大きく変化していた。その変化は、対艦攻撃という本来の任務に加えて、攻撃前の偵察、索敵任務に関しても生じていたのだ。
急速に進化していた電子兵装は、既に戦闘に欠かせないものになっていた。魚雷状の機外装備電探を抱えた哨戒任務だけでは無かった。敵軍も当然の様に艦載、陸上配置を問わずに捜索電探を使用していたし、照準に電探を用いるのも次第に珍しくなくなっていた。
当初は、損害覚悟で我武者羅に電子兵装を装備した敵軍にかかっていくのが常道だったのだが、次第に電子兵装の裏をかくような戦術が増えていったし、打撃力の低下を承知で、攻撃隊に爆弾や魚雷ではなく電波妨害装置を懸架した艦上攻撃機を随伴させるのも珍しくなくなっていた。
変化は兵装にも生じていたが、積極的な理由ではなかった。従来の航空雷撃や急降下爆撃等の攻撃手段が対空火力の強化で次第に通用しなくなっていたのだ。
ただし、第二次欧州大戦中から噴進弾の多用も始まっていたが、将来対艦兵装の体系がどんなものになるかはその時点では伺うことは出来なかった。
噴進弾では水線下を攻撃する魚雷ほどの被害を与えることは出来なかったし、推進部分の分だけ同重量の爆弾よりも効率が悪いと考えられていたから、対艦攻撃の決定打となるかは未知数だったのだ。
四四式艦攻は、このような混沌とした状況への対処をある意味では諦める事で成立した機種とも言えた。その機体構造は従来の艦爆に近いものだったが、それ以前の二式艦上爆撃機彗星のようなスマートさは無かった。
その代わり、四四式艦攻の機首に据え付けられた定格二千五百馬力もの大出力エンジンと頑丈な機体構造は、各種電子兵装を含むあらゆる兵装の懸架を可能としていたのだ。
ただし、従来の艦攻や艦爆が装備していたような爆弾倉は設けられなかった。海軍側の将来兵装への定見の無さが、爆弾倉に収めるべき兵装の特定を不可能としてしまっていたからだ。
四四式艦攻は、その莫大な余剰出力を活かして、頑丈な胴体中央部だけではなく主翼各部に直接兵装を懸架する構造としていた。
結果的に従来は爆弾槽に使われていた胴体下部に大容量の燃料槽を押し込んだ四四式艦攻は、兵装を懸架していない状況では戦闘機並みの火力と機動性、航続距離を併せ持つ機体として誕生していた一方で、兵装懸架状態では空気抵抗の増大から速度の低下が著しいのも事実だった。
本来は、その卓越した搭載量で対艦兵装を満載して敵艦に打撃を与えるのが主任務である四四式艦攻だったが、同機の制式化直後から乗り込んでいるにも関わらず、垣花飛曹長は実際に愛機を駆って対艦攻撃を行う機会がこれまで無かった。
開戦以後は、日本本土に所属する航空隊が駐留する間に何度も実戦に出撃はしていたのだが、それは関東爆撃を試みるB-36超重爆撃機に対する迎撃任務ばかりだった。
四四式艦攻の搭載量に加えて、後部席に偵察員を乗せていた事が従来の対艦兵装だけではなく、特殊な兵装の運用を可能としていた。それは電波誘導方式の対空噴進弾だった。
当初、無線式の誘導方式は対艦攻撃用の爆弾として考えられていたらしい。爆弾後部に無線で外部から操作可能な動翼を設けることで投弾後も目標を追随するように操縦が可能というものだった。
米軍のB-36などはこの電波誘導爆弾を使用しているものと思われたが、電波誘導式の空対空兵器という兵器体系を最初に運用したのは、第二次欧州大戦でフランス本国に残されていたヴィシー政権軍だった。
ヴィシー政権軍以前に、彼らの同盟相手だった独空軍が単座戦闘機から遠隔操作する無人の巨大爆弾として双発爆撃機を改造していた。制空権を確保できなくなっていた独空軍では、大戦中盤以降は重爆撃機の運用が困難となって不要機材となっていたからだ。
同様にフランス本国に追い詰められていたヴィシー政権軍では、自国製のアミオ359双発爆撃機を原型とする親子式無人機の一部を編隊攻撃用の空対空爆弾として使用した実績があったのだ。
それ以前にも噴進弾を対空戦闘に使用した実績はあったが、単発単座戦闘機であっても扱いが容易なほど小型化された噴進弾は、単に翼下から投弾されると直線飛行するだけで弾道は大口径砲弾のそれに類似するものだったから、その寸法からも誘導式に切り替えるのは困難だった。
講和後に独仏の技術体系に関する資料を接収、分析した日本軍は、開発中だった誘導爆弾の技術を噴進弾に応用する形で搭載していたのだが、同時に各種誘導兵器の運用実績から空対空兵器であっても専任の誘導員が必要である事も確認していた。
独仏軍の重爆撃機を改造した誘導爆弾は、技術的、発想の点で見るべき所はあったものの、実運用性は劣悪だった。実戦に何度か投入されたこの方式の誘導爆弾がまともに戦果を上げた例は少なかったのだ。
この種の兵器が短時間のうちに開発できたのは、日本軍でも既に外部からの誘導に実績があったからだ。各種誘導方式が研究中だった誘導爆弾体系とは無関係に、第二次欧州大戦開戦に前後して日本海軍では対空射撃訓練用に無線誘導方式の無人機が用いられていたのだ。
対空射撃の訓練には、従来は曳航される吹流しを目標として行われていた。英空軍などでは曳航専用機も数多く採用されていたが、日本軍で通常曳航機に使用されるのは旧式化した機体ばかりだった。
しかし、高速化した上に複雑な回避行動を取る実戦機の挙動を、吹流しの抵抗で速度が低下した旧式機が再現するのは難しく、重要度が増している対空射撃訓練が形骸化しているとの意見は以前から根強かった。それが事故発生の恐れもなく自在に機動が可能な無人標的機の開発に繋がっていたのだ。
だが、日本海軍で実戦に即した標的として重宝されている無線誘導方式の対空標的機や無人の標的艦は、設備の整った艦上から運用されていた。誘導系が海上にあることで生じる視野の差異は大きかったものの、操縦には充実した支援と専従の操作員が用意されていたのだ
それに対して独仏で使用された誘導爆弾は、陸上から発進する際に無人機となった重爆撃機が操作用の単座戦闘機を背負う異様な姿で離陸すると、発射点で両機を切り離して無線誘導が開始されていた。
操縦士は自らが乗り込む単座戦闘機を操縦しながら遠隔で重爆撃機の操作を行っていた。要は1人で2機を同時に操作することになるから、その間は複雑な戦術機動やスロットルの操作は難しかっただろう。
しかも、母機と子機が離れるにつれて空中でも視野の差異は無視出来なくなっていた。単座戦闘機の操縦士が誘導爆弾の位置を正確に把握して操縦を行うのは、相当な訓練が必要だったのではないか。
鈍重な親子式の誘導爆弾を運用する機会がなかなか訪れなかったのも確かなのだろうが、それ以前にこの誘導爆弾の方式の信頼性は低かったのだ。仮に原型となったのが重爆ではなく高速の噴進弾であったとしても外部からの操作は困難だっただろう。
結局、日本海空軍共有兵器として制式化された無線操作式の誘導噴進弾は、鈍重な対重爆撃機向けに用途を絞った上で艦上攻撃機や夜間戦闘機等の専従操作員が確保出来る複座機のみが使用できるという特殊兵器扱いとなっていた。
空軍には、複雑化した機載電探などの電子兵装を操作する為に複座となった五〇式戦闘機が制式化されていたのだが、開戦当時の海軍機で機動力に優れた純粋な戦闘機の中には複座のものはなかった。
そのせいで対空誘導弾が本来対空戦闘向けではない四四式艦攻隊に回ってきたのだが、本土防空に寄与しているという自負を持つ一方で、古参の艦攻操縦員である垣花飛曹長には迎撃機としての任務が艦攻本来の使い方とは思えなかった。
実際に対空誘導弾は少なくない戦果を上げていた。頑丈極まりない上に自衛火器の充実したB-36を一撃で撃破しうる威力と射程を併せ持っていたからだ。
垣花飛曹長が後部席に乗せて飛ぶ井手大尉は兵学校出の偵察員の割には腕が良かったから、このペアは開戦以来幾度もB-36を撃墜する実績を有していたのだが、操縦員である飛曹長の内心は複雑だった。
敵機を撃墜して称賛の声を浴びるたびに、艦攻乗りの矜持が失われていくような気がしていた。
空中では何事も自分一人の責任にかかっているためか、単座の戦闘機乗りは艦攻の操縦員を馬車引きと揶揄していたが、照準は偵察員でも実際に魚雷や爆弾を投下する把柄を引くのは操縦員の役割だった。
絶大な威力を持つ対艦兵器も、操縦員と偵察員の間に阿吽の呼吸が生じて初めて敵艦の土手っ腹に当てられるのだ。それこそが馬車引きの醍醐味というもの、のはずだった。
それが後部の偵察員が誘導操作を行う対空誘導弾では、本当に操縦員は誘導弾の運搬係に過ぎないような気がしていたのだ。
先日の米艦上戦闘機襲来と合わせたB-36の帝都爆撃の際も、垣花飛曹長達のペアは対空誘導弾を抱えて出撃していた。いつも通りの手順のはずだった。所属航空隊だけではなく、空軍機も合わせて誘導弾を周囲から一斉に投じるのだ。
当初は急降下爆撃時に対空火器に制圧射撃を加える事を想定していた為か、四四式艦攻には自衛火器としては強力過ぎる20ミリ機銃が両翼に備わっていた。欧州戦線では爆撃後にこれで地上銃撃を行った例もあったが、槍衾のように機銃を備えたB-36に立ち向かうには火力が不足していた。
頑丈で爆弾倉を有しない四四式艦攻を複座艦上戦闘機などと呼ぶ声は有るにしても、操縦員である垣花飛曹長達には最低限の空対空戦闘訓練しか行われていなかったから、海空軍の戦闘機が誘導弾の射撃後に一斉にB-36にかかる混戦状況では艦攻隊は邪魔になって退避するだけだった。
しかし、この日の状況は違っていた。米空母に向かっていた他の海軍航空隊と違って、垣花飛曹長達は分隊長である井手大尉指揮のもと、当初の予定通り空軍航空総軍司令部の指示を受けて中隊編成で北上するB-36に向かって出撃した。
航空総軍司令部の指揮系統を無視して、その時点では概略位置しか分からなかった米艦隊に向けて出撃した航空隊は少なくなかったようだが、指揮系統は曖昧だった。
彼らは古参の航空隊幹部の横の繋がりで出撃していたものだから、第二次欧州大戦中に編制された比較的若い垣花飛曹長達の航空隊にはお呼びがかからなかったのかもしれない。
離陸直後から無線の混信という形でいつもと違う様子はあったのだが、それが決定的になったのは肝心の航空総軍司令部からの指示でさえ遅れ始めていたことだった。
しかも、各監視所や哨戒機からの情報を集約して、いつも的確な位置に迎撃機を誘導する航空総軍司令部の指示は、その日に限って混乱していた。普段は冷静な井手大尉も、無線機に向かって何度か要領を得ないやり取りを行っていたのだが、最後にはさじを投げていた。
各航空隊に航空総軍からの指示を直接伝えるのは司令部勤務の女子通信隊員だったが、彼女達を責めても意味がなかった。単に命令されたとおりに通信を行う女子通信隊員ではなく、指揮を行う立場の空軍将校達の方が混乱している様子だったからだ。
そして最後は、井手大尉の独断で迎撃地点を定める羽目になっていたのだった。
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