1952グアム島沖砲撃戦8
航空母艦が出現した当初から、その任務の一つは敵国要地の襲撃であると考えられていた。洋上を自由に機動する空母を駆使して思いがけぬ方向から陸地に一撃をかけるのだ。
過去に前例もあった。第二次欧州大戦では、英国海軍の空母機動部隊がイタリア海軍の根拠地だったタラント軍港を襲撃していたし、国際連盟軍による反抗が開始されてから行われた上陸作戦では上空援護を行う空母群は欠かせない存在だった。
だが、空母機動部隊の襲撃は艦隊にとっても危険を伴うものだった。作戦行動に時間を掛けていると設備の整った陸上基地から行われる組織だった反撃を受ける可能性が無視出来なかったからだ。
実際に英海軍によるタラント軍港への襲撃は、停泊中の艦隊に無視できない損害を与えるのと引き換えに、大きな損害が発生していた。近海を航行中だった戦艦ヴィットリオ・ヴェネトによる反撃で英空母は這う這うの体で逃げ出さざるを得なかった。
日本軍参戦前のこの時点では空母は英海軍にとって貴重極まりない存在だった。その空母を逃がすために巡洋艦が犠牲となっていたし、軍港を襲撃した艦載機も回収できなかった。
鈍足の複葉艦上攻撃機であるソードフィッシュの大編隊を悠長に着艦させていた場合は、巡洋艦の援護があったとしても空母自体がヴィットリオ・ヴェネトに捕捉されてしまっていただろう。
日本軍も以前から敵空母機動部隊による日本本土への襲撃そのものの可能性は考慮していたものの、その成功率は低いと見積もっていた。日本本土の中でも帝都や艦隊主力の泊地ともなる要港などは内陸部や湾内奥深くに存在していたからだ。
瀬戸内海や東京湾内への敵艦侵入を防ぐ為に古くは徳川幕府時代から建設されていた各種砲台陣地は、現在では時代遅れとなって高射砲陣地などに転用されていたが、そうした外郭陣地で要所が防護されていたのは事実だった。
比較的航続距離の短い艦載機を防護された地域の奥深くまで侵入させなければならないということは、発着艦作業の為に母艦も内陸近くまで接近しなければならないということを意味していた。
関東平野に米艦載機が接近するとの報を受けた航空隊の幹部が大童で対艦攻撃隊の準備を行わせたのも無理はなかった。元々本土に接近する敵空母機動部隊は、航続距離の長い陸上攻撃機で迎撃するという戦策であったからだ。
もしも、この時に密かに日本本土の近海まで接近していた米艦隊が常識的な編成の航空隊を放っていたならば、急遽出撃した空海軍混成の攻撃隊も従来からの想定どおりに米空母機動部隊を打ち果たしていたかもしれない。確認された機数からすれば、空母の数は1隻か2隻程度だったからだ。
現実には、本来は対空誘導噴進弾を装備してB-36編隊の北上を阻止すべきだった攻撃機を含めて、急遽出撃が可能だった貴重な航空隊が米艦上戦闘機隊に拘束されただけで終わっていた。
攻撃隊を呼び戻す事が出来なかった上に米空母部隊に向かった部隊からの連絡は途絶えていた。情報の空白に不安を覚えながらも、航空総軍司令部は残存する部隊だけで迎撃網を再構築しようとしていた。
だが、航空総軍が司令部施設の盤上で構築した迎撃網と、現実に在空していた迎撃機の機数や配置には大きな差異があった。情報の途絶や寸断によって実際には存在していない部隊や敵味方機針路の誤りが生じていたのだが、混乱した状態の司令部要員には誤認を正す機会は訪れなかった。
ただでさえ攻撃隊の出撃で機数が減少していた迎撃網には穴が生じていた。そしていつものように搭載機銃を活火山の様に振りまきながらも迎撃網の穴を突破したB-36は、編隊を維持しながら帝都上空に進出していた。
この日、日本本土は開戦以来の大損害を負っていた。これまでも戦略爆撃による損害は日々重なっていたのだが、それでも迎撃機によってB-36の数を削いでいるという認識を日本軍は有していた。
航路途上で力尽きる損傷機はともかく、日本本土上空で撃墜して残骸が回収されたB-36の数も少なくなかったからだ。
グアム島への補給線に対する通商破壊戦による戦果も考慮すれば、米軍の戦略爆撃はいずれ破綻するのでは無いか、そんな予想すらあったのだが、この日の損害はそのような楽観的な思惑を全て吹き飛ばすようなものだった。
しかも、日本軍にとって悪夢のようなこの一連の戦闘はまだ終了してはいなかった。
防空戦闘が未だ続いていた頃に、重巡洋艦を基幹とする部隊が針路を変えていた。フィリピン近海で陸軍支援に従事していた第16戦隊と随伴する駆逐隊は、補給と整備の為に母港に帰還する途中、というよりも帰港寸前だった。
伊豆諸島近海を北上していた第16戦隊は、前線で指揮を取る為に臨時編成されている分艦隊司令部の指揮下を離れていた。陸軍支援の為に、第12分艦隊の旗艦は未だにルソン島沖に展開してフィリピン近海に展開する艦隊の指揮をとっていたからだ。
海軍の前線部隊を一括して統率する連合艦隊司令部ではなく、この部隊は分艦隊から管理部隊である第3艦隊の指揮下に復帰した形になっていたのだが、混乱する状況の中で第3艦隊司令部が直接戦隊司令官に命令を出していた。
この時点で、三陸沖を南下していた対潜艦艇部隊を除くと第16戦隊は最も敵空母部隊の予想位置に近い海域を航行していた。全速で移動すれば半日もかからずに進出出来るはずだから、横須賀に停泊中だった艦隊を出港させるよりも敵空母を捕捉出来る可能性は高いはずだった。
第16戦隊に所属する筑波と浅間は就役したばかりの新鋭重巡洋艦だった。
第二次欧州大戦中に就役を開始した石鎚型に続いて、軍縮条約の縛りを捨て去った無条約時代の2世代目として建造された筑波型重巡洋艦は、日本海軍がこれまでに建造した巡洋艦とは大きく異なり、雷装を廃して砲兵装を主力としていた。
漸減邀撃作戦に組み込まれた夜間における水雷襲撃という戦策から脱却した構想のもとに、筑波型では巡洋艦というよりも戦艦に近しい構想で設計が行われていたのだ。
筑波型の建造方針を可能としたのは、装填機構の大幅な機械化による主砲発射速度の短縮と、自動化が進んだ事で同様に高速化、精密化が図られた射撃指揮装置の採用にあった。
有力な8インチ主砲と高角砲に加えて就役当初から対空、対潜誘導弾を備えた筑波型は、2万トンに達する基準排水量を持つ準主力艦とも言える有力な戦闘艦だった。
戦隊に所属する筑波型重巡洋艦の数は2隻のみだったが、相手が純然たる空母機動部隊であれば戦いようもあるだろう。この部隊に空母機動部隊の索敵と交戦を命じた第3艦隊司令部はそう判断していたようだ。
空母機動部隊が空母のみで編成されているとは思えなかった。護衛の巡洋艦や駆逐艦も随伴しているはずだったが、その数がそれほど多いとも思えなかった。
それに常識的に考えれば強力でも鈍重な戦艦が密かに敵本土近海に侵入する空母機動部隊に随伴しているとは思えなかった。
実は、日本海軍は太平洋における米海軍の戦力が大西洋に抽出されているとの情報を同盟国経由で事前に得ていた。カリブ海領土の奪還を狙う欧州諸国で構成された国際連盟軍艦隊に対応する為なのだろうが、戦艦群等がパナマ運河を通過してカリブ海を航行していたのが確認されていたのだ。
太平洋方面にはレキシントン級巡洋戦艦やアイオワ級などの高速艦も残されていたが、貴重な大型艦を陸軍航空隊支援の為に容易に海軍が差し出すとは思えなかった。
いくらB-36の爆撃と作戦時期をあわせたとは言え、航続距離の長い攻撃機から貴重な大型艦が袋叩きにされた可能性もあるからだ。おそらくは、自分達もフィリピン攻略を行う陸軍支援に麾下の戦力を抽出されている立場だからこそ第3艦隊はそのように予想していたようだった。
空母に随伴しているのが大きく見積もっても少数の重巡洋艦程度であれば、米海軍で最有力のデモイン級重巡洋艦が投入されていたとしても筑波型であれば互角に戦えるのではないか。
仮に戦艦が配属されていたとしても重巡洋艦の速力なら不用意な交戦を避けつつ接触を続けるのも可能なはずだった。
本土近海で第16戦隊が航行中だったのは、米海軍にとっては予想外だっただろう。それに米空母機動部隊は支援も無しに敵地に踏み込んでいるのに対して、第16戦隊は最悪航行不能になるような損傷を負ったとしても母港から救援艦を手配するのは容易だった。
仮に第16戦隊が空母は取り逃がしたとしても、護衛部隊を足止めすることさえ出来れば10年前のタラント軍港襲撃時の様に米海軍の戦力を削ぐことは出来る、筈だった。
第3艦隊の予想は半ば正しかったが、第16戦隊の前に現れたのは想定外の戦力だった。
主力である第16戦隊が接敵する前に、南下していた対潜部隊が米空母機動部隊を確認していた。対潜部隊はその時点で分離していた。連合艦隊の要請で敵艦隊を捜索する艦と、撃沈された特設哨戒艦旭光丸や対潜哨戒機の乗員を救助する艦だった。
最終的に対潜哨戒機の乗員は発見できなかったものの、救助艦に指定された鵜来型海防艦は救命艇から回収した旭光丸の乗員を山なりにして戦闘終了後に帰港していた。
その一方で、接触艦に指定された僚艦は、敵艦隊を発見後に射撃を受けているとの切羽詰まった様子の無線連絡を最後に消息を断っていた。第3艦隊の予想よりも敵空母機動部隊は積極的だった。接触艦を何としても排除しようとしていたのだろう。
ただ、敵地深くに侵入した艦隊の指揮官が下したものとするとおかしくはない判断だった。
鵜来型海防艦は領海の警備や近海船団護衛を前提に建造された艦だから、水上戦闘能力は低いし速力も低かった。潜航中の潜水艦に追随出来る程度の機動力はあるが、新鋭巡洋艦や駆逐艦が相手では分が悪かった。
米艦隊の指揮艦としては、護衛部隊の一部を割いてでも早々に撃破出来ると考えたのではないか。
接触艦は失ったものの、少なくとも交戦を開始した時間における敵艦隊の位置は判明していた。しかも、関東上空で行われた空中戦から経過した時間からして三々五々帰還する艦載機の収容作業で敵艦隊は機動の余地をなくしていた筈だった。
幸いなことに海上における風向きは日本側に有利だった。風向きに合わせた着艦作業の為に米海軍の空母は日本本土に向けて接近する態勢を余儀なくされていたからだ。
急接近している第16戦隊の存在に気がついていない限り米空母は艦載機の収容を行っている筈だった。軽快な戦闘機とはいえ、全機の収容には時間がかかるだろうから、その間にだいぶ距離は詰められるのではないか。
この頃になると第16戦隊に続いて、B-36で焼かれた帝都の復仇を図るかのように、急遽かき集められた追尾艦隊が横須賀を出港しようとしていた。2隻の筑波型による足止めさえ叶えば米空母部隊の殲滅は可能だからだ。
復讐心を滾らせた艦隊の士気は高かったが、彼らはその途上で連合艦隊司令部から引き返すように命令を受けていた。艦隊の出撃がただ貴重な燃料油を消費しただけに終わったのは、第16戦隊が早々に敗退したからだった。
第16戦隊の接敵は予定通りに進んでいた。駆逐隊を従えた2隻の筑波型は単縦陣で突き進んでいた。本土近海である事が戦隊司令官に残り少ない燃料の消費を躊躇わせなかったからだ。
最初に発見したのは、艦隊外周で警戒していたのだろう駆逐艦だった。艦影からすると第二次欧州大戦前後に就役した米海軍の新鋭駆逐艦のようだったが、2隻の筑波型はその火力で警戒する駆逐艦をあっさりと制圧していた。
直前まで第16戦隊が支援していたルソン島の戦闘は内陸部に移行していたから、陸軍の支援といっても前線での発砲機会は少なく、筑波型の弾薬庫には対艦用の徹甲弾はほぼ定数が残されていた。
筑波型と駆逐隊は単縦陣も崩さないまま、連続した被弾によって火災を起こして洋上で停止していた米駆逐艦を尻目にして東進を続けていた。その時点で、電子兵装が充実した筑波型は、早くも対水上レーダーで米空母らしき反応を捉えていたからだった。
だが、第16戦隊の追撃が想定どおりだったのはそこまでだった。
筑波型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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レキシントン級巡洋戦艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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鵜来型海防艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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