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1952グアム島沖砲撃戦7

 敵潜を制圧する間に撃墜されていた対潜哨戒機大洋の次に異常に気がついたのは、関東地方を哨戒範囲とする筑波山に配置された陸上レーダーサイトだった。

 この時点で太平洋側から侵入してくる敵戦闘機隊がようやく発見されたのだが、その正体は不明なままだった。



 日本本土の防空を一括して指揮する航空総軍司令部は、これまでに例のない事態に混乱し始めていた。洋上で確認されたのは、B-36の編隊とは明らかに異なる反応だったからだ。

 レーダーの反応は単発機の編隊、それもさほど強固に組まれた編隊ではなく、三々五々と帝都に向けて接近してくるもののようだった。そして、新たに発見された編隊の帝都上空への最接近予想時間は、北上するB-36編隊のそれと概ね一致していた。


 既にその時点で北上するB-36編隊に対処する為に、早いものでは友軍戦闘機隊が離陸を開始していた。

 離陸した友軍機は空海軍合同である上に、純粋な戦闘機ばかりではなく、誘導式の対空噴進弾を装備した艦上攻撃機や夜間戦闘機などの射点までの飛行に時間のかかる鈍重な大型機も数多く含まれていたからだ。

 B-36の様な大型機を目標とする噴進弾を主兵装とする場合は、発射母機には高い機動性は要求されない為に、攻撃機なども投入されていた。そして噴進弾の一斉射撃によりB-36を編隊を周囲から絡めとるのが、開戦からこれまでで最も戦果が上がった戦法だったのだ。


 米軍戦闘機隊の侵攻はそうした思惑を吹き飛ばしていた。特設哨戒艦等によって本土周辺に設定されていた哨戒範囲をすり抜けるか、あるいは最後に始末して米海軍の空母機動集団が密かに接近したものと思われていた。

 単発機が太平洋側に大きく迂回して日本本土まで接近できる発進地は存在しないからだが、二方面からの米陸海軍共同攻撃に、航空総軍に加えて連合艦隊までもが翻弄されつつあった。



 混乱しながらも、北上するB-36編隊と西進する米海軍艦載機部隊から帝都が挟撃されるという事態に、早々と航空総軍司令部は防空戦闘機隊の分派を決定していた。

 重爆撃機用の噴進弾を装備する鈍重な双発機や艦上攻撃機などはそのまま北上するB-36に対する阻止線を構成させつつ、この戦闘に側面から加入させない為に純粋な戦闘機隊を引き抜いて太平洋側から侵入する米海軍機に対処させようとしていたのだ。


 ただし、この時点では米海軍の艦上機部隊を目視で確認したものはいなかったし、レーダー反応からだけでは戦闘機のみで構成されていることは確認出来なかった。

 西進してくる部隊の飛行速度に差異があるのは、速度の早い戦闘機を先行させて攻撃機を後方に隠しているためだと考えられていたのだが、単に戦闘機の機種による速度差であることに日本軍が気がついたのは接敵してからのことだった。


 結果論になるが、航空総軍司令部による当初の決心どおりに迎撃が行われていれば、被害は実際よりも抑えられていた可能性は高かった。西進してくる艦載機部隊はほぼ戦闘機のみ、しかも爆装した機体も確認されていなかったからだ。

 おそらくは航続距離も大したことはなかったはずだ。侵入する戦闘機隊の先頭は単発ジェット機のF6Uであったからだ。


 F6Uは米海軍最新の艦上戦闘機であるようだったが、その性能には不明な点も多かった。四九式艦上戦闘機同様に単発ジェット機では航続距離に不安があるらしく、洋上を長駆侵攻して日本海軍艦隊周辺で交戦する例がなかったから長時間観測されることがなかったのだ。

 この時も、F6Uは短時間で姿を消していた。おそらくは鈍足の艦上攻撃機やレシプロ戦闘機等と無理に同行せずに消費燃料を最小限で抑えられる巡航速度を保っていたのだろうが、それでも往復路に使う分を除いた純粋な戦闘に使用できる燃料が限られていたのだろう。



 しかし、僅かな数のF6Uによる損害は大きかった。F6Uはその高速を利して我が攻撃機隊を襲撃していたからだ。攻撃隊の編成は慌ただしく行われていた。しかも、航空総軍司令部の預かり知らぬ所で独断専行で行われていたのだ。

 各航空隊に根拠が無いわけではなかった。緒戦からなし崩し的に常態化していたが、航空総軍はあくまで空軍の部隊、それも法的には本土駐留部隊の管理部隊でしかなかったからだ。


 航空総軍司令部には英本土航空戦の戦訓を参考にして建設されていた充実した防空戦闘用の司令部施設が存在していたし、本土周辺の情報を集約する組織が構築されていた。

 そこで防空戦闘の場合は、空海軍を問わずに航空戦力を一元管理する特殊な権限が航空総軍に与えられていたのだが、本来これは防空戦闘に限られていたのだ。


 その一方で、海軍の空母機動部隊に載せられる艦載機部隊だけではなく、海軍から空軍に移籍した陸上基地部隊の中には対艦攻撃こそが自分たちに与えられた本来の任務だと考えて、日々防空戦闘に駆り出されている事に鬱屈した思いを抱いているものも少なくなかった。

 魚雷を抱えた長距離対艦攻撃機である陸上攻撃機に乗り込んで敵艦隊に華々しく雷撃を行う事を夢見ていた古参の搭乗員達は、既に航空隊の指揮官や参謀などの要職に付いていたのだ。


 彼らは米艦載機部隊が確認された事で、兵装を対艦兵器に換装しつつ密かに連絡を取り合って即席の戦爆連合部隊を構築していた。空海軍の区別はなかった。元々空軍に移籍した部隊の中にも海軍航空隊出身者は多かったからだ。

 彼らの考えでは、航空総軍の指揮に入らざるを得ないのは防空戦闘のみであり、敵艦載機部隊の先に存在するはずの敵艦隊への攻撃はその範囲に入らない、筈だった。

 しかも、敵艦隊の位置は消息を絶った旭光丸や対潜哨戒機の喪失位置によって概要が確認されているし、急行しつつある対潜部隊による接触にも期待が持てると考えられていたのだ。



 何時までも北上を続けるB-36編隊に向けて出撃しない攻撃機隊の様子に航空総軍司令部が気がついた時には、海軍航空隊と空軍の爆撃機部隊の一部が敵艦隊の予想進路上に進出しようとしていたのだが、それは米艦載機部隊の進路と交差していた。

 常識的に考えれば、攻撃隊が交差する際に戦闘が発生する可能性は低かった。進撃途上で敵攻撃隊を発見しても、これを無視して敵艦を攻撃するのが正道だったからだ。

 数少ない戦闘機隊を分派して敵攻撃隊を阻止するよりも、彼らの母艦を沈めてしまえば帰還する所を失って結局は無力化出来るのだ。


 だが、西進する米艦載機部隊は、実際には戦闘機のみで構成されていた。少数の攻撃機も最終的に確認されていたが、それは戦闘機隊に随伴して効率よく指揮を取るためのものだったのだろう。

 空中で俯瞰して指揮を取る存在が確信されるほどにF6Uの戦闘は際立っていた。

 後方を侵攻する大柄なF15Cや奇妙な形状のF5Uなどの姿に気を取られていた攻撃隊は、各航空隊毎に不格好に散らばっていた編隊を進撃途上で集合させていたのだが、意表をついて下から突き上げてくるF6Uによって一瞬で蹴散らされていたのだ。



 空海合同という即席攻撃隊のまとまりの悪さがここで出てしまっていた。地形に紛れるようにして急上昇していたF6Uによって銃撃された攻撃隊は、蜘蛛の子を散らす様にばらばらに散開していた。

 日本軍の新鋭戦闘機同様に、F6Uにもジャイロを積み込んだ射撃管制装置位はあったかもしれないが、急角度で上昇中の射撃だったから、実際には攻撃隊にはそれ程大きな損害は出ていなかった。それにも関わらず攻撃隊には一挙に混乱が広まっていったのだ。


 第二次欧州大戦以前は、対艦攻撃の為に緻密な編隊を組んでの進撃を想定した訓練も重点的に行われていたのだが、欧州上空の実戦では小隊や場合によっては単機での出撃も珍しく無かった。

 航空撃滅戦に投入されていた空軍の爆撃機隊はともかく、昨今は超重爆撃機の迎撃にばかり駆り出されてた艦上攻撃機隊からは、対艦攻撃時の経験や知識が失われていたのかもしれない。今回の戦争でも、対艦攻撃をまともに実施できたのは昨年のグアム沖海戦のみだったのだ。

 あるいは、対艦攻撃を華と考えて訓練を積んでいた航空隊幹部と、気負うことなく対地、対空任務に従事していた若い搭乗員達の間には世代のずれによる認識の違いがあったのかもしれなかった。



 いずれにせよ、本来緻密に編隊を組むべきだった攻撃隊は、無様に散開してしまっていた。それを好機と捉えたのか、一旦上空に逃れた後に反転したF6Uが降下しながら再突入していたらしい。

 その頃には後部機銃で射撃を試みた機体もあったが、有効射程の短い自衛戦闘用機銃で有効な防御射撃を行えた機は少なかった。それに纏まって射撃を行った機数も少なかった。


 攻撃隊に加入した機体の中で、自衛用の後部機銃を備えていたのは四四式艦上攻撃機流星のみだった。高速化されたジェット時代には自衛火器は不要として空軍の新鋭機などは後部機銃を廃していたからだ。

 本来であれば空軍の五一式爆撃機は高速を利してF6Uを振り切ることも出来たのかもしれないが、爆装して更に鈍足になっているレシプロ機の流星に合わせていた為に速度という防御を結果的には捨て去っていたのだ。


 本来であればここまで特性の異なる機種で編隊を組むべきではなかったのかもしれないが、大規模な対艦攻撃という機会に各航空隊の指揮官達は先例に合わせてしまったのだろう。

 そしてばらばらに崩れていた編隊から脱落した翼端の機体に向けてF6Uは密集した銃撃を行って被害は更に拡大していた。



 攻撃隊に随伴していた少数の戦闘機隊は、爆装した攻撃機を十分に援護出来なかった。その頃になると、ジェット化したF6Uに追いついてきた他の米海軍戦闘機隊も戦闘に加入していたからだ。

 それまで攻撃機と考えられていた米軍の後続機は、殆ど戦闘機だった。戦域外縁には積極的に戦闘に参加する気配の無い少数の敵機も在空していたようだが、この編隊によって攻撃された地上施設などは確認されていなかったから、これが航法支援や指揮用に用意された艦上攻撃機だったのではないか。


 後続機の機種はF15CとF5Uと思われていた。どちらもレシプロエンジンを搭載した機体だったが、ジェット戦闘機に対する決定的な劣位がある程ではなかった。

 少なくとも我が戦闘機隊を足止めする程度の能力はあったのだろう。攻撃隊に随伴していた空海軍混成の四七式戦闘機部隊は奮戦したが、米戦闘機隊は数で圧倒していた事から戦闘はせいぜいが互角というところだったようだ。

 攻撃隊には爆装した四四式艦上戦闘機も参加していたのだが、この時点で爆弾を安全な場所を探しながら投棄した同機も次々と対戦闘機戦に専念せざるを得なかった。



 結局、出撃した航空隊は海岸線も越えずに帰還する羽目になっていた。損害は攻撃隊の艦上攻撃機や空軍の爆撃機に集中していた。空海軍の戦闘機隊は多数の米戦闘機の撃墜を申告していたが、実際に戦場となった地域で墜落しているのが確認された機数と比べると遥かに少なかった。

 戦闘後に軍からは米海軍攻撃隊の侵攻を阻止したと発表されたが、実際には米艦載機部隊の任務は帝都周辺に攻勢をかけることではなかった。


 撃墜された米戦闘機から脱出して捕虜となった米海軍の搭乗員からもたらされた情報だったが、それを日本軍が知ったのはすべてが終わったあとのことだった。

 戦闘後に地元住民で行われた山狩で捕まった捕虜搭乗員は、自分達に与えられた任務は本来はB-36編隊の迎撃に向かう筈だった日本軍迎撃機部隊の誘引と拘束であり、その任務は完全に完了したと憔悴しながらもどこか誇らしげにも聞こえる様子で言って退けたのだった。

四九式艦上戦闘機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/49cf.html

F15Cの設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/f15c.html

四四式艦上攻撃機流星の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/b7n.html

五一式爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/51lb.html

四六式戦闘機震電/震風の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/46f.html

四四式艦上戦闘機二型(烈風改)の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/a7mod.html

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