1952グアム島沖砲撃戦1
岩渕兵曹長はしばらく自分を呼ぶ声に気が付かなかった。
昇進から間もなかった。くたびれた第三種軍装の肩に付けられた真新しい兵曹長を示す階級章もまだ馴染んでいなかった。
以前は階級が上がったときもそれほど違和感はなかったから、やはり下士官から准士官扱いとなる兵曹長に進級したせいかとも思ったが、昨今は制度改革の結果として居室などで兵曹長も下士官同様の扱いを受けることが多いから、それが根本的な原因ではなさそうだった。
その時になってようやく自ら電探の表示面を睨んでいた岩渕兵曹長は、自分が電測員長ではなく兵曹長と呼ばれたことに気がついていた。
本来であれば、日本海軍では誰であれ艦内では役職で呼ばれていた。配置の無い便乗者ならばともかく、例え科が違っていても基本的には本艦固有の乗員が自分を階級で呼ぶことはないはずだった。
岩渕兵曹長はぼんやりとした顔で声のした方に振り返っていた。兵曹長を呼んでいたのはまだ紅顔の少年兵だった。開戦を受けて志願してから最低限の教育を受けただけのものだったはずだ。
新しい分野である電探や逆探を操作する電測員にはまだ若い兵が多かった。いい加減前の大戦で経験を積んだ岩渕兵曹長の様な熟練下士官が増えてもいいはずだが、現実にはこの特設哨戒艦旭光丸の電測員は新兵ばかりで構成されていた。
これは海軍の組織的な構造にも原因があるのではないか、岩渕兵曹長は以前からそう考えていた。
電探などの電子兵装の操作には従来と異なる訓練や能力が必要だったから、七年前の大戦中にも需要が急速に拡大した電測員には多くの若者たちが新規に配属されていた。岩渕兵曹長の様な以前からの通信科下士官のほうが少なかったかもしれない。
岩渕兵曹長も、本来であれば自分がこうも早く准士官である兵曹長に昇進するとは思っていなかった。おそらく電測員長にふさわしい人材が他にいないものだから電測員の下士官は昇進が早かったのだろうとさえ考えていたのだ。
だが、戦時中に徴兵されて電測員となったものの多くは、終戦後急速に軍を除隊していった。潰しが効かない下士官となっていた岩渕兵曹長達とは異なり、まだ若い彼らの多くには娑婆に仕事の口があったからだ。
その結果、電測員は少数の古参下士官と、彼らが教官となって教える新兵という大戦中と変わらない体制になってしまっていたのだろう。
岩渕兵曹長を呼んでいた少年兵も、開戦後の促成教育で電波兵器の操作法や理論を集中して叩き込まれてきた一方で、これまでに当然得ているはずだった海軍の常識を欠いたままだったのだろう。
本来であれば、周囲の古参兵や下士官が配属先で指導を行うのだろうが、今の旭光丸にはそうした余裕のあるものはいなかった。
少年兵の顔を一瞥してから、その余裕のない一人である岩渕兵曹長は周囲を見回していた。電側室内には無言で機器に取り付いた電測員達がいたが、空いている機器も多かった。重要度が低い機器は周りの古参下士官が時たま確認する程度にするしかないのだ。
とてもではないが新兵を指導出来るような古参兵はいなかった。それを再確認した岩渕兵曹長は、電探表示面を見つめ続けて固まった顔をほぐすように掌でほぐしながら少年兵に向き直っていた。
旭光丸は、開戦以後に慌ただしく徴用されて改装された特設哨戒艦だった。尤もありふれた汎用貨物船である戦時標準規格船二型として建造された旭光丸は、第二次欧州大戦中も特設艦として徴用されていた記録が残されていた。
当時の旭光丸は純粋な貨物船ではなく、前線近くで艦隊向けの補給艦として行動する特設運送艦として運用されていたらしい。貨物船に固有の船倉区画等には改造が加えられた形跡は無かったが、前後の檣楼には若干の対空火器が装備されてこれを操作する将兵も乗り込んでいたようだ。
貴重な高角砲を集中して搭載された護送船団の防空基幹船程ではないが、戦闘部隊に随伴する為か最低限の対空戦闘が可能な程度ではあったのだろう。
それが大戦後に船会社からも余剰とされて予備船となっていた数ある戦時標準規格船二型の中から旭光丸が特設哨戒艦に再改造された理由である、ということになっていた。
しかし、戦時中から何故かこうした特設艦ばかりを渡り歩いて来た岩渕兵曹長は、特設哨戒艦の母体にこの船が選択されたのは、単に二型船が余剰となっていたという理由だけだろうと考えていた。旭光丸は単に係留された予備船の端にでもいたから選ばれただけではないか。
大戦中に大量建造されていた戦時標準規格船には大きく分けて三種類があった。海上トラックとして使い勝手の良い近海貨物船である一型と、汎用貨物船である二型、貨物専用船である三型だった。
この内、機関室と一体化した居住区を船尾に寄せることで二型では前後に分かれていた船倉区画を一体化させた三型は、大戦集結後も運用する船会社からの人気が高かった。荷役効率の向上に加えて、最近になって急速に進んでいる貨物輸送のコンテナ化に対応しやすかったからだ。
その一方で一型は主に資本力に乏しい中小造船所に補助金と引き換えに電気溶接やブロック構造などの新しい造船技術の導入を強制するためのものと言って良いから、戦時中に追加された建造数はさほど多くはなく、終戦後も余剰数は少なかったようだ。
結局、戦時中に運用を委託された船会社からも返還されて余剰となっていたのは既存の三島型構造である戦時標準規格船二型ばかりになっていたようだった。
開戦直後から欧州航路に投入される護送船団の主力として数多く建造された上に、戦時中の建造効率を優先して性能面では平凡なものでしか無かったために余剰数を生み出していたのだ。
同じ戦時標準規格船二型と言っても、重量物輸送用に船底やデリックを強化して耐荷重を高めたものや、居住区画を増設した兵員輸送用などの派生型もあったが、それらが数の少なさから重宝がられていたのと比べると、やはり二型の中でも汎用貨物船型が最も余剰数が多かった。
後部に機関室を配置したことを除けば、戦時標準規格船二型の基本形態である汎用貨物船型は、居住区を挟んで前後に船倉区画を備えた典型的な三島型の貨物船構造だった。
船倉区画には更に隔壁が設けられていたが、隔壁上部には荷役作業用のデリックが設けられていた。
だが、旭光丸はこのデリックが取り外されていた。正確に言えば、取り外されたのはデリック中央部のマストではなく可動する先端を持つブーム部分だった。もはやデリックが必要な重量物を積み込む必要がなくなったからだが、デリックマストだけはそのまま残されて転用されていた。
それどころか、デリックマストは固定された船倉区画天蓋と一体化する形で構造を強化されていた。頑丈なマストを再利用する、というよりも構造の一部を取り込む形でその上部に各種電探の空中線やその可動部が追加搭載されていたのだ。
搭載された電探は防空巡洋艦のそれに匹敵するものだったが、射撃指揮用の波長の短いものはなかった。長波長の長距離捜索用電探によって早期に脅威となる重爆撃機群を発見するのが旭光丸の任務だったからだ。
長波長の空中線は頑丈で大きなものだったから、これを安定して搭載させるためにマスト構造も特に強度が求められたのだろう。
電探本体や、それに電力を供給する大容量発電機などは、区分けされた船倉区画に配置されていた。広大な区画に置かれたものだから、修理や点検は容易だったが、周辺の空間が無駄に空いているのはいささか間が抜けた姿だった。
追加された機械室以外の船倉区画も、その用途は変更されていた。岩渕兵曹長達のように本来の乗員に追加された電探を操作する電測員等の居住区画に割り当てられていたからだ。
居住区画の内装は、急増のものだったが数は充実していた。旭光丸と同じく係留されていた予備扱いの兵員輸送型から内装をもぎ取ってきたと聞いていたのだが、陸軍兵を出来るだけ多数乗せることが目的の兵員輸送型と比べると、乗員一人あたりに割り当てられた面積は格段に広かった。
むしろ新兵達が戦闘艦、特に小型の駆逐艦などに乗り込んだら差異に苦労するのではないかと岩渕兵曹長などの古参下士官は考えていた程だったが、旭光丸の任務は駆逐艦等とは別の意味で過酷なものだった。
旭光丸の居住区画には大容量の倉庫が併設されていた。単に追加された居住区画を除いても船倉区画が余っているだけではないかと初めて乗り込んだ岩渕兵曹長は考えていたのだが、実際には出動前に倉庫には消耗品が満載されていた。
搭載機器の作動確認を兼ねた短期間の訓練航海を終えると、実働を命じられた旭光丸は慌ただしく出動準備を行っていたが、横須賀で積み込まれた物資は膨大なものだった。
生成食品や保存食だけではなく消耗品が次から次へと倉庫にしまい込まれていったのだ。それどころか、倉庫から溢れ出した電探の交換部品などは通信科倉庫に収まりきれずに、電探本体横に木箱に収められたままで無造作に積み上げられて保管されていた程だ。
岩渕兵曹長達古参下士官は顔を見合わせていた。どう見ても消耗品の搭載量は、通常の航海で必要な量を遥かに越えていた。
残された船倉区画を利用して補給艦としても運用されるのではないかと推測する下士官もいたのだが、大容量のデリックが無いために、他艦に供給するのは手間がかかるだろうし、それ以前に倉庫に収められた荷姿は本艦で消費することを前提としたものだった。
その時点で嫌な予感はしていたのだが、機密保持の為に出港後になってから旭光丸の任務を知らされた古参の乗員達は揃ってげんなりとした顔をしていた。
特設哨戒艦として改装された旭光丸の任務は、搭載された長距離対空捜索用の電探を用いて日本本土に侵攻してくる敵超重爆撃機を警戒することだった。そこまではここ最近の情勢を知るものなら誰もが想定していた事だった。
帝都や主要工業地帯の防衛を考えた場合、重要になってくるのは本州中央部から小笠原諸島の方面だった。米軍の戦略爆撃の拠点となっているマリアナ諸島から日本本土中枢を狙う場合の航路上に位置するからだ。
この方面から侵入する敵超重爆撃機を早期に発見できれば、それだけ日本本土付近での迎撃が容易くなるからだが、当然米軍もそれは理解していた。だからこの方面では激戦が続いていた。
開戦以後に増強された海空軍の電探哨戒機は、硫黄島を拠点としてこの方面に重点的に展開していた。
本土防衛線の前衛とも言える硫黄島は、要塞化が進んで戦闘機隊も前進していたが、損耗も多いようだった。マリアナ諸島の米軍と硫黄島を前進根拠地とする小笠原諸島の空軍は激しい航空撃滅戦を双方で実施していたからだ。
空軍の双発爆撃機も航続距離の限界近くで果敢にマリアナ諸島に攻め込んでいたが、米軍の本土空襲を断念させる程の被害は与えられていなかったようだった。
こうした戦闘の様相を聞き及んでいた岩渕兵曹長達は、自分達が乗り込んだ旭光丸もこの方面に展開するものだと考えていた。小笠原諸島から台湾を結ぶ線上の海域に展開して滞空時間の限られる電探哨戒機の哨戒範囲を補うことになるのではないか。
実際に旭光丸以前に改装されていた特設哨戒艦が本州からみて小笠原諸島の方面に移動していたという噂も聞いていた。旭光丸は開戦以後に慌ただしく工事が行われていたのだが、その改造工事の原型となった艦だったらしい。
ところが、実際に旭光丸が投入されたのは小笠原諸島が存在する本州南方の海域ではなかった。積み込まれた物資の一つに冬季用の被服が多かった時点で気がつくべきだった。
旭光丸は、先行する特設哨戒艦が抜けた穴を埋めるように三陸沖、つまり北方の海域に展開していたのだ。しかもその展開期間は常識を超えるほどの長期間となっていた。
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