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1951ハワイ―キール7

 その日のイヴァニューク・イヴァースィク・イヴァーノヴィチ親衛大佐は、ソビエト軍参謀本部から第9親衛戦車連隊に訪れた客を、重々しい表情で迎えていた。


 今にも客人を射殺しそうな目をしたイヴァーノヴィチ大佐を、連隊付政治委員であるタラース・セルゲーエヴィチ・マルケロフ中佐は呆れた目で見ていたが、連隊長と政治委員という関係としては長い付き合いである中佐は今更連隊長に何も言わなかった。

 それに視線を向けられた客人であるセミョーン・クラミン大佐の方も平然とした表情を崩さずにいた。この三人は先の大祖国戦争終盤においてドイツ領内を西進する親衛戦車連隊の同僚であったからだ。



 だが、イヴァーノヴィチ大佐やマルケロフ中佐が5年前から連隊付将校のままであったのに対して、クラミン大佐は終戦後早々と連隊を離れると、軍中央の赤軍参謀本部に転属して出世街道を突き進んでいた。

 大祖国戦争開戦前からの戦車将校だったイヴァーノヴィチ大佐は、KV-1重戦車で部隊の初期編成が開始された当初からこの第9親衛戦車連隊に配属されていた。

 配属後は連隊内で中隊長から連隊長代理を経て連隊長に就任していたのだが、クラミン大佐は連隊が大損害を受けて当時最新鋭だったIS-2重戦車を配備されて再編成された頃に着任していた。

 おそらくモスクワ生まれのクラミン大佐は当時から軍の要職に就くことを期待された幹部候補だったのだろう。赤軍内部では傍流のウクライナ人である上に開戦直後にファシストドイツの捕虜となっていた為に上層部の受けが悪いイヴァーノヴィチ大佐とは立場が違っていたのだ。


 ただし、イヴァーノヴィチ大佐は単に戦時中に部下だったクラミン大佐に階級で並ばれたから苦々しい顔になっているわけではなかった。頑固なところはあるが、流石に彼がそこまで狭量なわけではないことは長い付き合いになるマルケロフ中佐はもちろん、クラミン大佐も覚えているはずだった。

 イヴァーノヴィチ大佐が不機嫌だったのは、連隊を取り巻く状況が芳しくなかったからだ。上級司令部の消極的な作戦指導に従った結果なのだから責任を問われる謂れはないのだが、第9親衛戦車連隊が大きな損害を被ってユトランド半島内で緩やかに後退を続けていたのは事実だった。

 大祖国戦争終結から5年が過ぎた今でもまだ強力で貴重な重戦車であるIS-3にこれだけの損害を与えたということは、戦時中であれば連隊長であるイヴァーノヴィチ大佐はもちろん、それを補佐監督すべき政治委員であるマルケロフ中佐も何らかの処分は免れないところだった。

 イヴァーノヴィッチ大佐が肩肘張った態度を崩さなかったのは、ソビエト軍中枢から訪れたクラミン大佐に余計な隙を見せないためのものだと言えた。自分の保身だけではない。親衛戦車連隊の名誉を守るためでもあったのだ。



 ドイツ占領地帯北部に駐留していた第9親衛戦車連隊が巻き込まれていたのは奇妙な戦闘だった。戦闘が開始された経緯が不明なまま、双方が師団級の部隊を逐次投入していったからだ。

 切っ掛けとなったのは、占領地帯の境界線に展開していた歩兵連隊が唐突に傀儡ドイツ軍の攻撃を受けたからだった。


 その歩兵連隊が、講和条約でソ連占領地帯と傀儡ドイツの境界線と定められたキール運河近くまで進出していたのは、境界線近くで傀儡ドイツ軍が行っていた演習を監視するためだった。ところが、連隊主力から離れて運河に接近していた偵察隊が、夜間に唐突に銃撃を受けたらしいのだ。

 その後、傀儡ドイツ軍はソ連側に拉致された隊員を救出する為に最低限の自衛戦闘を開始したと厚かましく言っていたのだが、当然ソ連側は悪辣な謀略であると直ちに否定していた。

 この時は、ソ連、ドイツ双方の偵察隊に損害が発生していたようだった。未帰還者も少なくなかったと思われるから、その中の誰かが連れ去られていた可能性はマルケロフ中佐には否定できなかった。



 大戦中の前線部隊では、ソ独双方が情報源となる捕虜の獲得を行っていた。大規模な戦闘の結果生じるものではなく、夜間密かに前線に浸透した命知らずの偵察隊が単独や少数の歩哨などを捕捉して連れ去っていたのだ。

 そしてドイツ占領地帯に駐留する部隊は、いくらか将兵の配置換えがあったが、その多くが大戦終結から留まっていたものだった。しかも駐留する旧ドイツ領には住民の数が少なかった。

 大戦末期にファシストが集団疎開していった土地に帰還するものがほとんどいなかったから、人口まばらな土地に残された部隊の将兵は次第に士気を低下させていった。

 ソ連本国では大規模な軍の再編制、というよりも軍縮が行われているという噂もあったのだが、ドイツ駐留軍の末端からでは詳細は分からなかった。


 戦時中に拡大を続けた赤軍は、最終的に500個師団もの規模に肥大していたから、平時における労働力を確保する為にも動員解除による軍縮が行われるのは当然だったと言える。

 大祖国戦争においてソ連は戦死者や開戦時の混乱などで膨大な数の若年労働者層を失っていたから、兵隊達の多くを社会に返さなければ国家が成り立たないところだったのだ。


 ただし、動員解除の対象とならない部隊も少なくはなかったはずだ。

 シベリアの帝国主義者と長年対峙していた精鋭部隊も戦時中に対ドイツ戦線に抽出されていたのだが、モスクワを通過して原駐地であるバイカル湖畔のイルクーツクに戻っていたのではないか。

 この他にもドイツ占領地帯など新たにソ連の勢力圏に入った地域に展開する部隊も、いくらかは本国に帰還していたが残留した部隊は動員解除とならずに占領統治や治安維持の為に残されていた。

 旧ドイツ領に駐留する部隊もその一つだった。いずれは本土で再編制された部隊と交代するのかもしれないが、ドイツ駐留軍は占領軍から名前が変わっていたとしても戦時中の意識を色濃く残していた。

 第一、終戦から6年経った今でも旧ドイツ北部の人口過疎地は「占領地帯」のままなのだから、駐留軍将兵が荒々しいのも当然なのではないか。


 そんな状況なのだから、友軍歩兵連隊の偵察隊が不審な動きをする傀儡ドイツ軍の兵隊を情報源として拉致してきた可能性はあった。

 そして、仮にマルケロフ中佐の推測が正しかったとしても、傀儡ドイツ軍の攻撃でその捕虜ごと偵察隊が壊滅していたとすれば、何処にも証拠は残っていない筈だった。



 だが、偶発的な衝突にしては傀儡ドイツ軍の動きは早かった。ドイツ人兵士の拉致が本当に起こっていたとしても、傀儡ドイツ軍は事前に交戦を計画していたのではないか。もしかすると歩兵連隊は悪辣な挑発を受けていたのかもしれなかった。

 キール運河に集結した部隊は次第に増加し、偶発的な銃撃戦は本格的な戦闘へと拡大していった。短時間のうちに前線の歩兵連隊単独では事態に対処出来なくなっていたのだ。

 一部では組織的な戦闘の結果として傀儡ドイツ軍がキール運河の渡河点を確保して南岸のソ連占領地帯への侵攻を許していたからだ。



 第9親衛戦車連隊がこの紛争に本格的に関わり始めたのはこの時だった。歩兵連隊や、その上級司令部である歩兵師団が救援要請を戦車連隊に出していたのだ。

 指揮系統では、歩兵師団は独立編成の親衛戦車連隊に命令を出せる立場ではなかった。北部ドイツの中でもユトランド半島に最も近い位置に駐留していた重戦車連隊である第9親衛戦車連隊は、序列の上では歩兵師団と並列する形で駐留軍司令部隷下の北部軍内に置かれていたからだ。


 歩兵師団も全力で出動しようとしていたが、師団単位では図体が大きく動員される将兵が多いために足並みが揃っていなかった。それに歩兵師団は未だに馬匹に頼った補給部隊しか持たないから、本格的な展開には時間が掛かりそうだった。

 元々その師団の中で充足率が比較的高かった連隊を選んでキール運河付近に送り込んでいたらしいから、他の連隊を短時間のうちに動員するのは難しかったのではないか。



 駐留軍司令部からの正式な命令はその時点でなかったが、傀儡ドイツ軍の動きを聞いてからすぐに予備命令を連隊内に出していたイヴァーノヴィチ大佐は、躊躇うことなく要請を聞いて第9親衛戦車連隊の出動を命じていた。

 友軍を救出するというよりも、ファシストドイツ人におおっぴらに砲弾を撃ち込めるのが嬉しくて仕方がないという様子だった。

 この時のイヴァーノヴィチ大佐は鬼気迫る顔をしていたのだが、マルケロフ中佐の様にイヴァーノヴィチ大佐が生まれ育ったキエフの街を家族ごとファシストドイツ人に焼かれた事を知っていた連隊の将兵は口を挟むことはしなかった。それに退屈な駐留任務に飽き飽きしていたものも多かったのだろう。


 駐留軍司令部からの正式な命令がその時点でまだ無かったことに不審感を抱いたものは、マルケロフ中佐を含めて連隊内には少なかった。ドイツを占領していた部隊を改編した駐留軍だったが、その規模に対して司令部機能は貧弱だったからだ。

 動員解除がその原因だったのだろうが、本格的な攻勢の際は急速に変化する事態に対応する為に適切な部隊規模で中間司令部を設けたものの、治安維持、しかも暴動を起こす現地住民の数が希薄な現在のドイツ占領地帯では駐留軍司令部隷下の各軍の規模は大きく、柔軟な対応は難しかったのだろう。

 もちろんこんな不自然な状況が長く続くはずはなかった。近いうちに事態に対処する為にこの方面の各部隊を統一指揮する軍司令部も前線に進出してくるのではないか。

 さしあたってはイヴァーノヴィチ大佐よりも上級者の歩兵師団長の要請で動けば支障はないだろう。そう考えていた第9親衛戦車連隊は勇躍して歩兵連隊の支援に向かっていた。


 重装甲と大火力を併せ持ったIS-3を定数まで装備した親衛戦車連隊の展開は混沌としていた戦況を一変させていた。重装備をふんだんに有する傀儡ドイツ軍に押されていた歩兵連隊の戦線は、後方から歩兵連隊を超越して前線に現れたIS-3によって押し返されていたのだ。

 キール運河南岸の傀儡ドイツ軍の橋頭堡は短時間のうちに奪還され、一部では北岸への逆渡河による反撃も実施されていた。そのまま事態が推移すれば、ユトランド半島基部に残された傀儡ドイツ領を奪取してデンマーク領に押し込めるのも夢ではなかったかもしれない。



 だが、その頃になってようやく前線に届いた駐留軍司令部からの命令書の中身は期待に反するものだった。北部方面軍は境界線を越えることなく無闇に戦線を拡大するのを避けよとあったからだ。

 しかも方面軍を飛び越えて出された命令の内容は、駐留軍司令部ではなくもっと上位のソビエト軍参謀本部からの方針であったらしい。


 実はこの時に危機が迫っていたのはユトランド半島だけではなかった。傀儡ドイツ領の本領とも言える南部ドイツとの境界線でも機械化された傀儡ドイツ軍の集結が確認されていたらしい。

 既にフランスやイギリスは対米宣戦布告後に戦時体制に突入していたから、欧州でも全面戦争に展開する可能性があったのだが、ソ連は大規模な軍の再編成中であったから、軍上層部や党中枢は即時開戦を避けようとしていたのではないか。



 だが、慎重策は前線の現状とは合致していなかった。歩戦の2個連隊で支えていた前線に危機が迫っていた。境界線を越えていた部隊に、消耗した傀儡ドイツ軍の代わりに最新装備を備えた英日混成のデンマーク軍団が接触していたからだ。

 英日軍の戦闘は消極的なものだったが、命令書の内容に士気が低下していた部隊では支えられなかった。結局一度は奪取したキール運河北岸の橋頭堡は放棄されていた。

 そして渡河装備の不足で放棄されたIS-3が第9親衛戦車連隊にとって最初の損害となっていた。

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あ、やはり欧州にも飛び火しましたか。 そりゃそうか。
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