1951ハワイ―キール3
米太平洋艦隊司令部の参謀長という重職にあるバーク少将が任地であるミッドウェー島を離れてハワイを訪れたのは、現在実質的にハワイの支配者である民政部のウィロビー長官と会議を行う為だった。
艦隊司令長官であるラドフォード大将の代理としてのバーク少将の目的は、占領下のハワイにおける兵站拠点、特に艦艇整備機能の復旧具合を確認することだったからだ。
以前から英日などの支援を受けてハワイ王国では乾ドックを建設していた。そのような事実から一定の港湾能力がハワイ王国、特にその首都であるオアフ島ホノルルには備わっていると米海軍では想定していたのだが、実際には予想よりもハワイ王国における海運は貧弱なものだった。
1万トン級の大型貨物船などを受け入れられる近代的で大規模な桟橋の数は少なかった。当然クレーンや港湾倉庫などもそれに対応する程度のものでしかなかく、一国の首都に隣接する玄関口としてふさわしいものとは思えなかかった。
少なくとも中南米諸国程度の港湾施設を想定していた米軍は肩透かしを食らっていたのだが、よく考えればそれもおかしくなかったのかもしれない。
ハワイ王国を構成する有人島は近接していた。というよりも古代からハワイ諸島に居住していた住民による原始的な航法でも短時間で容易にたどり着ける範囲だけが一国として統一されたと考えるべきではないか。
元々ハワイ統一まではそれぞれの島内ですら部族が別れていたものだから、その生活は島内の自給自足が原則であり、国内ですら荷動きは然程盛んではなかったはずだ。
そもそも、現地人の国王がハワイ統一を成し遂げたのは、白人達が科学文明とその成果を携えてこの地を訪れて、国王達にその力を貸し与えてからのことだったのだ。
当然のことながらハワイの国内航路に投入される貨客船は小型のものしか需要がなく、大型船は国際航路のものに限られていた。そして40万人程度の人口しかない経済規模の小さなハワイにおける輸出入の需要もまた少なかった。
このような事情から米本土と一定量の交易を継続している中南米諸国と比べて貧弱なものであったとしても、ハワイにおける港湾の規模は平時においては必要十分であったようなのだ。
ホノルル近くの港湾部に建設された乾ドックも構造は近代的なものだったが、その規模は然程大きくはなかった。新造船の建造工事に使用される事はめったになく、造船技術の高い外国まで回航することなく現地で修理工事を行うために使用されていたようだ。
この乾ドックは最近になって拡張工事が行われていたというのだが、それも彼らが買い入れたばかりの中古の軍艦に対応するためのものでしかなかった。
ハワイ王国海軍の旗艦として購入されていたのは元々英海軍に就役していたダイドー級軽巡洋艦だった。同級は軍縮条約が無効となった第二次欧州大戦中に就役していたからそれほど旧式化していたとは思えないのだが、終戦後に英海軍では余剰艦として扱われていたようだ。
ただし、米海軍はダイドー級は戦時急増艦として建造されていたのではないかと判断していた。軍縮条約の制限が無くなった後に建造されたにも関わらず、同級の排水量は条約型巡洋艦の半分程度に過ぎないようだったからだ。
その火力も貧弱だった。1万トン級の大型軽巡洋艦であれば6インチ砲を9門から12門程度は装備するところだが、ダイドー級の主砲はそれより小口径の中途半端な13.3センチ砲を8門程度しか備えていなかった。
ハワイに売却された艦などは駆逐艦用の11.4センチ砲を装備していたというから、戦力は大型駆逐艦に毛の生えたものでしか無かったのではないか。
元々英海軍では贅沢にもダイドー級を防空用の巡洋艦として考えていたらしい。以前から英海軍では旧式化した巡洋艦の主砲を高角砲に換装した防空艦を就役させていたからだ。
主砲口径が抑えられていたのも対空射撃を考慮した結果のようだが、大柄な船体に強力な主砲と両用砲をバランスよく装備したクリーブランド級軽巡洋艦を数多く建造した米海軍から見れば、主砲を高角砲としたダイドー級は中途半端な存在にしか見えなかった。
第一、ハワイ王国周辺の状況で防空に特化した巡洋艦が必要とは思えなかった。単に英海軍が同級艦と備砲が異なるために運用が難しい余剰艦を安価に売却したというだけの話だったのではないか。
ダイドー級軽巡洋艦の他にも、ハワイ王国海軍には若干の日本製駆逐艦が就役している筈だった。彼ら自身が宣伝を行っていたから情報は正確なものだった。
しかし、仮にハワイ王国海軍が全力でかかってきても大した脅威になるとは思えなかった。開戦時のハワイ占領作戦に太平洋艦隊は念を入れて大型巡洋艦を占領部隊に随伴させて警戒していたからだ。
そして、ハワイ占領時に発生した海上戦闘は予想以上にあっさりと終結していた。開戦時に出港していたちっぽけな駆逐艦部隊は、短時間の戦闘で消滅していたからだ。
ただし、ハワイ王国海軍はその最後に厄介な置土産を残していた。その一つは、占領時に姿を隠していた警備艦だった。
ハワイ王国が領有を宣言していたニホア島に一旦逃れた彼らは、駆逐艦よりも小さな警備艦に詰め込めるだけの物資を積み込み、同時に乗員数を絞って国外逃亡を図っていた。消費物資を極限まで抑える事で、本来の航続距離を越えた日本本土への逃亡を決断していたのだ。
残留して米軍に投降したものから逃亡艦の存在は早いうちから知られていたのだが、米軍の動きは鈍かった。この頃は開戦に前後していくつかの作戦が同時に行われていたからだ。
バーク少将も太平洋艦隊からアジア艦隊に派遣された艦の手当などで多忙を極めていた。作戦海域が限定されていたものだから、意外な事にハワイ周辺を一度出てしまうと、彼らを追跡するのは困難だった。
日本本土とハワイ間の航路途上には太平洋艦隊司令部があるミッドウェー島が存在していたにも関わらず、航路を遮断できる位置に進出できる艦はいなかったのだ。
尤も警備艦の戦力などたかが知れていた。日本海軍の戦力にハワイ王国海軍の船団護衛艦が1隻加わった所で大勢に与える影響はないと言って良かっただろう。当時の太平洋艦隊司令部が脱出した警備艦を無視していたのも当然の事だった。
ところが、軍事的には大した脅威ではなかった警備艦は、政治的には大きな爆弾を抱えていた。逃亡先の日本本土で乗員達が亡命政府の立ち上げを行っていたからだ。
実は逃亡した警備艦の艦長は、ハワイ王国の皇太子だった。しかも皇太子の就任を伝える放送は、ハワイを米軍が完全に制圧する直前に行われていた。その放送自体が何かの偽電として半ば無視されていた為に、米国は国際連盟加盟諸国が正統と認める亡命政府の代表をみすみす逃してしまったのだ。
皇太子が代表を務める亡命政府の存在は、ハワイの原住民たちの間に無視出来ない影響を与えていた。彼らを叩き潰さない限り戦後に米国がハワイを併合するのに支障を生じるのではないか。
ハワイ占領時の旧王国軍の抵抗はそれだけではなかった。こちらは軍事的にも大きな意味を持っていた。
旧ハワイ王国海軍の旗艦だったダイドー級軽巡洋艦には太平洋艦隊も一定の警戒を行っていたのだが、実は開戦当日同艦は洋上にいなかった。ホノルル郊外の乾ドックに入渠して整備工事を行っていたのだ。
上陸後にその事実を知った米軍の現地司令部などはあわよくば同艦を無傷のまま拿捕できるのではないかと考えていたようだが、ドック周辺で抵抗を続けていたハワイ王国軍は最後にダイドー級を爆破していた。
乾ドック内で整備中にも関わらず、ダイドー級は爆破作業に転用可能な主砲の弾薬などを積んだままだったのだろう。しかも現地人ではなく英国人が行ったのか、爆破作業は適切な箇所とタイミングで行われていた。
爆破されたのは、軽巡洋艦の船体下部とドック底部で船体を支えていた構造材だったらしい。おそらくは、それまでに船体内部の水密隔壁も開けられるだけ開けられていたのだろう。船底に大穴が開けられたダイドー級はドック内で支えを失って横倒しになっていたのだ。
だが、乾ドック内でダイドー級が破壊されただけなら復旧はそれほど難しくはなかった筈だった。一時は拿捕も考慮していたとはいえ、英国製の戦時量産型巡洋艦を米海軍が本気で欲したわけではなかった。その場で解体して鉄屑にしてしまっても構わなかったのだ。
ところが、解体工事は唐突に難しくなっていた。悪辣な事にハワイ人達はダイドー級だけでは無く自国の重要なインフラであった筈の乾ドック自体を爆破していたのだ。
海岸に艦船を収容する穴を掘削するという乾ドックの構造からして、ドック自体の爆破はさほど意味がなかった。ドック内部に爆発で大穴を開けた所で埋め戻すこと自体は容易だからだ。
だがハワイ王国軍が最後に爆破していたのは、乾ドック自体ではなくドック内部と海面を隔てる扉船の前後だった。
扉船は、いくつかの隔壁で遮られていたが、基本的にはただの空箱だった。出入渠作業時は内部を空にして浮かせてドック内に海水を満たすのだが、ドックを使用している際は内部にバラストとなる海水を詰め込んでドック入口に沈んで蓋となるのだ。
厄介なことに最後の爆破はこの扉船自体と前後のつなぎ目を一挙に破壊していた。渡船で遮られていた海水の勢いは激しく、事前に破壊されたダイドー級を扉船の残骸も使ってドック内でもみくちゃにしていた。
このドックを使用状態にする為には、扉船周りを新造した上でダイドー級と扉船が絡み合った水中の鉄塊を撤去しなければならなかったのだ。
現地では当然扉船を建造する能力はないから、米本土で現地の寸法に合わせて建造させるしか無いが、爆破工事で大きく崩れたドック入口付近と扉船を組みわせるのは至難の業となるだろう。
ドックの復旧は難工事だったが、太平洋艦隊にとってこの乾ドックの存在は開戦以後無視できない存在になっていた。前線で損傷した艦艇の修理工事が増え続けていたからだ。
太平洋艦隊は大西洋艦隊と並ぶ米海軍の主力部隊だったが、大西洋艦隊が直接カリブ海の英仏植民地占領作戦の指揮をとっているのに対して、太平洋戦線の最前線で指揮をとっているのはフィリピンを根拠地としていたアジア艦隊だった。
しかし、アジア艦隊の編成には固有の艦艇は存在しなかった。太平洋艦隊から派遣された艦艇を随時編入する形で構成されていたからだ。
臨時編成部隊でしかないアジア艦隊だったが、米国のアジア進出の尖兵となる為に、周辺の英日等の海軍部隊とつり合いをもたせる意味で太平洋艦隊や大西洋艦隊と同格となっていた。
人事的にもアジア艦隊の司令長官であるキャラハン大将は太平洋艦隊を指揮するラドフォード大将よりも先任だったし、キャラハン大将は海軍省や大統領府とも政治的な繋がりを有していた。
アジア艦隊司令部は日本軍が侵攻したフィリピンからグアムに司令部を後退させていたが、未だにグアム島から対日戦における前線の指揮をとっていた。
太平洋艦隊の指揮権が直接及ぶのは、ミッドウェー島以東の海域に限られており、しかもハワイ駐留艦隊は本国直轄として実質的に民政部の指揮下にあった。
太平洋艦隊の目下の仕事は、補給線の防衛を除けば、アジア艦隊に派遣して傷付いた艦艇の整備や補給であったが、長年整備されていてもミッドウェー島の能力は限られていた。
補給程度ならばともかく、本格的な整備や修理工場、それに乗員の休息を行うには、グアム島の最前線から遠く離れた西海岸のサンディエゴまで後退させるしかないのだ。
有人島による乗員の休息も可能なハワイの根拠地化は、太平洋艦隊の艦艇整備能力を大きく向上させるはずだった。軽快艦艇に限られるとはいえ、乾ドックの復旧が行われれば、わざわざ貴重な戦力をサンディエゴまで戻す必要も無くなるのだ。
太平洋艦隊としては乾ドックの復旧を急ぐ様に民生部長官に要請する立場だったのだが、案内された長官室ではウィロビー長官が口をへの字にして不機嫌そうな顔で待ち構えていた。
その表情にバーク少将は思わず抗議の口を閉じてしまっていた。