1951ハワイ―キール2
莫大な損害を被りながら米陸軍航空隊が強行する戦略爆撃は、ハワイの長期的な基地化工事にも大きな影響を及ぼしていた。連絡の為にハワイを訪れたバーク少将の頭上を飛び去っていったB-36はその象徴の一つだと言えた。
開戦と同時に行われた奇襲核攻撃と、その直後から行われる本土への戦略爆撃で圧力を加えて短期決戦で日本を降伏に追い込むという米国の思惑は外れていた。英露などの支援を受けた日本人は粘り強い抵抗を続け、フィリピンに侵攻までしているからだ。
米国は、ルソン島に侵攻する日本軍に対しては遅滞防御を行いつつマニラ要塞での長期持久体制へと移行していたが、同時に日本本土への戦略爆撃を継続して圧力をかけ続けていた。
だが、戦略爆撃を実施しているB-36装備の爆撃群に日々積み重なっている被害は大きかった。日本軍の迎撃機に撃墜されたものや帰還したものの修理不能として廃棄されたものばかりではなく、連日の長距離飛行で純粋に消耗する機体も多いという傾向が報告から見えていた。
B-36は技術の粋を極めた新鋭機だったが、それだけに精緻な構造を有する機体の稼働率はさほど高いものではなかったのだ。
短期決戦を想定していた陸軍航空隊は、太平洋を押し渡る同機の補充ルートを構築する必要にかられていた。
B-36に限らず陸軍航空隊の大型機も平時はミッドウェー経由で太平洋を横断していたのだが、ミッドウェー島の滑走路や駐機場は規模が限られるものだから一斉に多数の補充機が使用することは備蓄資機材の点からも不可能だった。
念入りに整備された機体が、事前に用意された整備や予備部品と共に移動するならミッドウェー島の貧弱な施設でも十分に間に合うかもしれないが、故障時に使用する駐機所や整備部隊の常駐などを考慮するとオアフ島に設けられたような大規模な航空基地が必要不可欠だったのだ。
ましてや開戦以後に製造されたばかりの補充機は、ろくな試験飛行も出来ずに工場からフェリー輸送専用の最低限のクルー達か、訓練を終えたばかりの新米クルーたちを乗せて飛来して来たようなものばかりだった。
フェリー輸送専門部隊はともかく、新米クルーが乗り込んだ補充機は余裕のあるオアフ島で念入りに整備を行ってから最前線と言えるグアム島に向かわせるべきだった。
その一方で、大損害を出しつつも日本本土への戦略爆撃を継続しているという戦果を背景として、米軍内部における陸軍航空隊の鼻息は荒かった。
半ば独立した形の陸上部隊や海軍よりも優先して戦略爆撃に必要なグアム島への補給線を最優先させているのは当然だったが、占領下のハワイにおける後方拠点としての整備工事内容にも注文をつけていた。
彼らは太平洋を横断するB-36補充機の中継点となるハワイの航空基地建設を優先させていたのだ。
一応占領前からハワイにも飛行場はあったのだが、ハワイ諸島内部を緊急時に行き来する為の補助的な使い方しかされていなかったようだ。旧王国軍も海軍がわずか数機の連絡機と練習機を兼ねた中古の機材を運用している程度で、ハワイでは滑走路が不要な水上機の方が利便性が高かったようだ。
それにハワイ程度の国力で常時運用できる程度の機体では隣国までたどり着くのは難しかったのだろう。だから狭い国内の連絡程度なら運用に制限のある水上機でも十分と判断されていたのではないか。
既存の飛行場も英日資本の手がかかっていたようだから、主に外国機の運用を前提に整備されていたのかもしれないが、ハワイ程度の小国にそんな長距離機を定期運行させて費用に釣り合うのかどうかは分からなかった。
いずれにせよ、貧弱な既存の飛行場では、B-36の様な巨人機を連続して運用するのは難しかった。単純な滑走路の規模だけではなく、大重量に耐えうるように高規格で舗装する必要があったし、整備用の駐機所や大容量の燃料タンクも設けなければならなかった。
陸軍航空隊から派遣されてきた飛行場建設部隊は、強制的に接収された周辺用地を徹底的に整地した上で大量の建設資材を投入して大規模な航空基地を作り上げていた。
短時間の内に巨大な航空基地を作り上げた建設部隊の手腕には目を見張るものがあったが、その為に投入された労働力や資材は膨大なものだった。
しかも投入された資材の多くは、直接米本土から持ち込まれたものだった。現地で取得可能なものでは建設資材の規格が貧弱であった上に量も足りなかったからだ。ハワイではそんな大量の建設資材の需要そのものが無かったのだろう。
勿論現地で雇用される労働者の多くも航空基地建設に投入されていた。間接的に米本土から送り込まれた機材の積み下ろし作業などに投入される工数も膨大だった。
港湾施設の改善工事が煽りを食って工程が進められなかったものだから、貧弱なままの桟橋で手作業で資材を積み下ろしする為に多くの労働者が必要だったのだ。
航空基地に関しては、一期工事が終了して既にB-36の運用が開始されていたのだが、駐機場の拡張など二期工事以降も並行して行われていた。それで比較的重要度が低い水上機用の桟橋などは改良工事が後回しにされているらしい。
桟橋の袂で連絡用の車両に乗り込んだバーク少将は、港湾部全体を確認するようにゆっくりと運転手に命じて走らせていた。航空基地建設が一段落した為か港湾設備拡張工事に投入されている現地人労働者の姿も多かったが、作業中の工区は少かった。
手持ち無沙汰にする労働者達は、鈍く光る目を油断なくバーク少将が乗り込む車両に向けていた。反抗的とまでは言えないが、彼らが米国の占領を快く思っていないのは確かなようだった。
尤も原住民労働者に関する問題は、バーク少将は差し当たって無視するしか無かった。原住民の宣撫工作は、すでに軍ではなくこれから少将が赴く予定の民政部の所掌だったからだ。
だが、民政部が入っているホテルの入り口で、バーク少将はある現地住民の行動に目を白黒させていた。
占領開始直後から立ち上げられた民政部は、実質的なハワイの政府機能を担っていた。旧時代的なハワイの王政はすでに実権を失って、占領下の行政は民政部が管轄していたからだ。
ただし、現地政府機関で勤務する末端官僚の殆どは旧職にとどまっていた。米国から派遣された民政部の要員は限られていたから、現地政府の監督を行う能力はあっても30万もの現地民を直接統治するのは困難だったからだ。
厄介なことに現地官僚の少なくない割合は今もなお米国に抗い続けている日本人だった。半世紀ほど前に日本とハワイで王族同士の政略結婚が行われたそうだが、その時に少なくない数の日本人が彼らの王族に従って渡来していたらしい。
南洋系民族に比べれば、当時既に英国の猿真似で政府や軍を近代化し始めていた日本人の方が高等教育を受ける割合は高かったらしく、現在でもその子孫の中には政府官僚となるものが少なくなかったようだ。
占領直後は官民を問わずに日系人は片っ端から拘束する方針だった。その中でも米軍に素直に従うとは思えない日本人達の指導者層は収容所送りとなる予定だったのだ。
ところが、その方針はすぐに修正される羽目になっていた。数少ない米国系の現地市民からの抗議もあったのだが、実際のところ日本人の官僚が多すぎて彼ら全員を拘束すれば現地政府機関が立ち行かなくなると判断されたためだった。
なし崩し的に旧職にとどまるように命じられた日本人達だったが、民政部にとって彼らは潜在的な脅威となっていた。脱走した旧王国軍残党と連絡を取り合って組織的な反抗運動を密かに組織しているのではないかと民政部では危惧していたようだ。
ただし、日本人ではなかったとしてもハワイの原住民が従順とは限らなかった。純粋な意味での原住民と言える南洋系民族のものは勿論だが、白人種のハワイ国民も米軍からみれば信用は置けなかった。
以前からハワイに居住する白人種の住民には2種類あった。日本人とも親しくしている英仏などに系譜を持つものと、一時期ハワイに入植していた米国人の子孫だった。
ハワイ周辺の植民地などから訪れている英仏系住民よりも、隣国である米国から入植した米国人の数は一時期ハワイ王国国内でかなりの割合になっていた。
しかも入植者の多くは南洋系の現地人よりも遥かに高度な近代的な教育を受けた知識人たちであったから、彼らが現地政府を指導していく形になるのは自然なことだった。
前世紀末のことだが、米国入植人が主導して前時代的な王政を廃して米国への編入を試みる動きもあったのだ。
もしも半世紀前にハワイが米国に併合されていればこの戦争はもっと変わった形になっていたはずだった。時間をかけて整備されたハワイはミッドウェーなど違って一定の生産力を保有する有力な拠点になっていたはずだ。
勿論、今よりもずっとハワイの人口は増えていただろうし、米本土と繋がることで経済も遥かに拡大されて豊かになっていただろう。
だが、当時の米政府の政治方針が内向きであったことに加えて、目先の変化を嫌った原住民の抵抗は激しく、英国や距離が近い日本の介入で政変は僅かな期間で制圧されてしまっていた。
その後行われたのは米国系市民に対する不当な弾圧だった。米国の抗議にも関わらず、太平洋に米国の旗が増えると何事も反対する英仏日の支援で気を大きくしたハワイ王国政府は、多重国籍の禁止などの政治改革を強固に推し進めていた。
原住民政府の政策変更によって、二束三文で入植以来築いていた財産を売却して米本土に帰還する米国系市民は多かったのだ。
バーク少将と民政部が入っているホテルのエントランスですれ違ったのは、数少ないハワイに残留した米国系市民の重鎮であるロリフォード顧問だった。以前は現地政府で財務大臣を努めていたことから民政部の顧問就任を依頼されていたのだ。
この半世紀の間に米国系市民がハワイで味わってきた苦悩を示すように、白髪の老人が手にした杖は捻じくれ曲がっていたが、小柄な老人は民政部の職員を後ろに従えながら不機嫌そうな顔で杖を振り回す勢いで歩いていた。
民政部が入っているホテルは英国資本の巨大なものだった。30万の小国を統治する政府機関を収めるとすれば十分な規模のものだったのだろうが、いくつもの島に散らばった30万人の潜在的な反抗者を監視するには不十分ともいえた。
英国資本らしくホテルの入り口は贅を尽くした気障な雰囲気のあるものだったが、ロリフォード顧問はそんな華美な光景は目に入らない様子だった。
連絡車両から降りたばかりのバーク少将は、険しい表情のロリフォード顧問の勢いに呆気にとられながらも挨拶しようとしたが、顧問は鋭い目で一瞥を返しただけで待たせていた車に乗り込んでいた。
ホテルと同じく英国製の古びた乗用車は、バーク少将の目の前を騒音を立てながら走り去っていった。慌てて警備の憲兵隊を乗せたバイクが追い縋ろうとしていたのがやけに滑稽に見えていた。
呆気にとられていたのはバーク少将だけではなかった。ロリフォード顧問についていた民政部の職員も呆けたような顔で英国製の旧式乗用車を見送っていたのだが、少将が来意を伝えると慌てて案内を始めていた。
首を傾げながらバーク少将は案内されるままホテルの廊下を歩いていた。廊下の様子は占領直後に訪れた時から何も変わっていなかった。
質実剛健な米国人であれば英国風の無駄な装飾など取り払ってしまえばいいようなものだと思うのだが、普段ミッドウェー島の地下司令部に籠もっているバーク少将の目にはホテルの内装は華美に過ぎるように見えていた。
あるいは、華美な装飾は先程のロリフォード顧問のように民政部を訪れる現地人に見せつける意図があったのかもしれないが、老人には逆効果だったようだ。
―――まさか、単に労働力不足で民政部内部ですら片付ける余裕がないというのではないだろうな……
これから先の交渉に些か憂鬱になっていたバーク少将はついそんなことを考え始めていた。