1951ハワイ―キール1
オアフ島の軍事基地化は計画通り進んでいないようだった。拡張を重ねた様子の桟橋に取り付いた水上機から降り立ったバーク少将は、周囲の状況を見渡しながらそう考えていた。
太平洋艦隊司令部が置かれているミッドウェー島からバーク少将を運んできた飛行艇は、拡張工事が続くオアフ島の港湾部を行き交う船舶の邪魔になっていた。
出入港する作業船は多かったが、沖合で無為に待機する船も多かった。貨物船が桟橋が空くのを待っている中に着水して移動したものだから、パイロットは連絡機用に割り当てられた桟橋にたどり着くまでいつもより苦労していたようだ。
ミッドウェー島も普段から艦艇が狭い海域に密集している事が多いのだが、整然と並ぶ軍艦と気ままに投錨する商船では勝手が違うのかもしれない。
本来泊地としての機能はハワイ諸島の方が地勢上優位となる筈だった。環礁の中に浮かぶ小島の集合体でしかないミッドウェー島と比べれば、ある程度の人口を持つ有人島が並ぶハワイ諸島中枢は泊地としての条件が整っていたからだ。
開戦前に立てられていた米国の戦争計画では、太平洋を挟んだ反対側に位置する日本などと戦争になった場合は、後方拠点としてハワイ諸島を早期に占領する計画になっていた。
将来的に日本本土侵攻などという前線で大軍を運用するような事態が発生すれば、半世紀をかけて整備してきたとしてもミッドウェー島だけでは太平洋を東西に流れることになる膨大な物資を捌ききれないと考えられたからだ。
長い時間をかけて磨き上げられていた米国の戦争計画だったが、現実とは乖離が生じていた。
開戦と同時に行われた核攻撃は、大きな障害となるであろう日本海軍の戦艦群を彼らの戦略拠点であるトラック諸島ごと葬り去っていた。この大戦果によって、計画案によっては放棄もやむなしとされていたフィリピン諸島、特に政治中枢であるマニラの防衛に希望が出ていたのだ。
しかも、同時に開始されたグアム島を出撃する重爆撃機による日本本土への戦略爆撃によって、戦力を失ったことで弱気になった日本政府も早期に降伏するのではないかという期待もあったのだ。
ところが、日本人の悪辣さは米国の想定を上回るものだった。どこから持ち出したのかも分からない核攻撃のデータを公表して米国の非道を国際世論に訴えることで英国などの国際世論加盟国の対米宣戦布告を引き出していたのだ。
しかも、米国人には理解出来ないのだが、日本人は自分達の街が焼かれた事を自体を国内に宣伝して対米世論を盛り上げていた。
実際には、第二次欧州大戦中に結局戦略爆撃では最後まで諦めなかったドイツ国内などの研究から、厭戦気分ではなく世論の方向を戦意高揚に指向する国内宣伝の手法を洗練していたのだが、米国内部でそのことに気がついたものは少かった。
戦略爆撃理論に従えば、米国にとっては出先であるフィリピンを戦場とするのが限界の国際連盟軍よりも、直接本土を叩いている米国の方が優位にあるはずだったのだ。
フィリピン防衛とグアム島からの日本本土戦略爆撃を並行して行うという現状における米軍の戦略は、国内においては積極性を高く評価されている一方で兵站線には多大な負担をかけていた。
フィリピンに関しては、以前から計画的に物資を現地に蓄積していた為に、マニラ要塞に立てこもるのであれば長期間耐久出来ると現地軍は豪語していたのだが、グアム島は膨大な物資を今も消費し続けていた。
日本本土への戦略爆撃が長期化していたのが兵站計画を破綻させている原因だった。グアム島周辺の日本領を制圧した米軍は、グアム島を戦略爆撃の主力であるB-36を運用する専用基地として整備していた。
これにより南北に200キロ近くあるマリアナ諸島全体を縦深とする戦略爆撃の拠点としていたのだが、マリアナ諸島に移動した他機種と比べてもB-36部隊が消費する物資は莫大なものだった。
6基の大出力エンジンを備えたB-36は40トン近くにも達する爆弾搭載量を誇る空前の巨人機であったが、その巨体を万全の状態で出撃させる苦労は並大抵のものではなかった。
B-36の空虚重量と出撃重量の間には性能諸元上は百トンもの開きがあった。。要するに大雑把に言えば爆弾や燃料、潤滑油から自衛用火器の弾薬など全てをまとめると一回の出撃で百トンもの物資が消費されてしまうということになるのだ。
現行の貨物船1隻の搭載量を1万トンとしてもB-36をフル装備で出撃させるには百回分の物資量にしかならないから、B-36を装備する爆撃群を万全の状態で出撃させ続けるには何隻もの貨物船を絶え間なくグアム島に送り込まなければならなかった。
勿論爆撃群に必要なのはB-36が消費する弾薬、爆弾、燃料などだけではなく、巨人機に傅く整備部隊や戦略爆撃を支援する司令部スタッフなどの地上要員が消費する物資もあるのだが、一機あたり百トンもの消費物資の前では霞む量でしかなかった。グアム島への補給はまさにB-36の為に行われていたのだ。
現実には航路途上で日本か英国などの潜水艦と思われる通商破壊作戦によって喪失するものもあったから、グアム島への補給は万全とは言い難い状態だった。
B-36部隊による日本本土への戦略爆撃は、何度か物資集積を理由として中断された時期があるようだったし、マリアナ諸島の防空や日本本土に至る障害となっている島嶼部への航空撃滅戦などの支作戦を実施する部隊への手当も不十分な状態であるようだ。
主力であるB-36を投入した戦略爆撃においても、日本本土を守る前哨基地として整備されていたと思われる小笠原諸島の存在は、意外な程大きな障害となって米軍の前に立ちはだかっていた。
これを知らずに日本本土に初めて行われた戦略爆撃は、日本本土から出撃した重厚な迎撃網に捕らわれてB-36にかなりの損害を出したらしい。損害は大きく、一時期はその後の戦略爆撃を継続できるかどうかが危ぶまれた程だったようだ。
日本軍は小笠原諸島のいくつかに航空基地を設けて迎撃用と思われる戦闘機を配置していたようなのだが、実際に大きな障害となっているのは直接的な脅威である戦闘機よりも日本本土から大きく前進した重層的な哨戒網だった。
これまでに小笠原諸島やその周辺を根拠地とする哨戒機や哨戒船の存在が何度か確認されていた。目視に限らず日本本土に向かうB-36の逆探知装置になにもない筈の方向から反応があったのだ。
早期に哨戒網に発見されたことで、性能に劣る日本機でも迎撃高度まで上昇する時間の余裕が生じていると陸軍航空隊では判断していた。
勿論小笠原諸島自体にもレーダー基地が設けられているようだから、日本の首都に向かう絶好の道標でありながらも最近では小笠原諸島を大きく迂回する進路を選択する作戦行動も増えているようだった。
そうした迂回針路の選択は長大な航続距離を誇るB-36にとっても負担となっていた。離陸時の最大重量が決まっているということは、浪費される燃料の分だけ爆弾搭載量が減らされるということになるからだ。
小笠原諸島に対しては、何度か日本本土への戦略爆撃を行うには航続距離が足りないB-49などの機材を利用して航空撃滅戦が実施されていたが、捗々しい戦果は上がっておらず、逆に日本軍は旺盛な士気でマリアナ諸島への襲撃を繰り返す始末だった。
飛行艇から降りて桟橋を歩いていたバーク少将は、ふと轟音に気がついて顔を上げた。容赦なく降り注ぐ南洋の日差しに目を細めると、僅かな白煙を推進式に取り付けられたプロペラで拡散しながら高度を上げていくB-36の姿があった。
港湾部の近くを造成した滑走路から離陸するB-36の外装は陽光を反射して輝いていた。200トン近い物体が空に浮いているという事象自体が米国の威信を示すものと考えられなくもなかった。
実際にベアメタルの鈍く輝く銀色をしたB-36は、占領下のハワイ原住民に見せつけるようにゆっくりと旋回しながら西に飛び去っていった。おそらくハワイ諸島の政治中枢であるオアフ島だけではなく、ハワイ諸島の全島からでもB-36の姿が見られたのではないか。
だが、バーク少将がB-36を見つめる視線は冷ややかなものだった。B-36が何故迷彩塗装が施されずにベアメタル状態のままなのか、少将はその理由を既に知っていたからだった。
太陽光を反射して輝く外観は、征服者としての余裕などではなかった。むしろ前線で勤務する陸軍航空隊のクルーたちの心情は勝利者とは全く反対のところにあった。彼らは無敵と信じていたB-36の僚機が日本軍の迎撃機や対空ロケットによって撃墜される光景を幾度も見ていたからだ。
数年前に制式化されたばかりのB-36がお披露目された時は、今のベアメタルにも似た純白の塗装に鮮やかな星条旗が描かれていた筈だった。あとから思えば、その白い塗装は核攻撃仕様だったのかもしれない。機密度が高い開戦奇襲攻撃に投入された機体も同じような塗装だったからだ。
核爆弾の炸裂は膨大な熱量と発光を生じさせるものらしい。あれは実験で確認されたそれに対処する為の特殊な白色塗装だったのではないか。
そうした特殊任務では無い戦略爆撃に使用する機体は、当初は思い思いの塗装が施されていた。一部のマーキングはクルー達の嗜好を凝らしたものだったが、多くは所属部隊を明らかとして空中集合などの目印にするためだった。
また、何度かグアム島は日本軍の襲来を受けていた。おそらく小笠原諸島の何処かを中継点とすることで航続距離を伸ばしていたのだろう。
日本軍の爆撃は一挙に広範囲を焼き尽くすというが、バーク少将も詳細は知らなかったが、一時期のB-36が上面に迷彩を施していたのは事実だった。日本を焼き尽くすはずの自分達が地上で焼かれるのは我慢ならないということではないか。
常用されているB-36の飛行高度はかなり高く、上空に回り込まれる機会は少ないとも聞いていたし、日本軍との交戦は海上で早くも開始される傾向が高いというから、地上に溶け込むような機体上面の迷彩はあくまで駐機中の効果を狙ったもので、飛行中は効果は薄かった筈だ。
しかし、日本軍の迎撃網による被害が続出して、損害を抑える為に欺瞞針路を取ることが増え始めた頃から塗装を剥ぐ機が増えていたらしい。その理由は単純なものだった。塗料分の重量を削減すると共に空気抵抗を減らす為だった。
錆止めを含めて厚塗りした艦艇を見慣れたバーク少将には塗料の重量など大した量ではないと思えたのだが、巨人機だけにB-36の全身を覆う塗装の重量はかなりのものになるらしい。それに幾度も塗り重ねられた迷彩塗装などは塗装色ごとに生じる段差も空気抵抗上無視できないと考えられたようだ。
実際にベアメタル仕様とすることで航続距離の延長や被害の削減もあったようだが、案外と前線で精緻な塗装を施す余裕がなくなっていた為なのかもしれない。
輝くばかりのベアメタル状態で目視は容易になったとも考えられるが、意外にも日本軍のレーダー性能が高いのではないかと考えられた事から迷彩効果は無視されていたようだ。
日本軍では英国製のレーダーを使用しているのだろうと噂されていたが、いずれにせよB-36の巨体が群れをなしている限り遥か彼方からレーダーで察知されてしまうのは間違いなさそうだった。
それならば多少の迷彩効果など期待せずに僅かでも速度と重量を稼ぐ為にB-36部隊は競うように塗装を剥がしてしまっていた。ベアメタル仕上げは既に本土にも伝わっていた。補充の為にハワイに立ち寄る機体も、工場から引き出された時点で銀色に輝くに任せていたのだ。
つまりベアメタル仕上げの機体は余裕の表れなどではなく、クルー達にとっては文字通りの死活問題であったのだ。
B-36を見上げるハワイの原住民にはどのように銀色の機体が映っているかは分からないが、彼らも西に戦場に向かう機体はあっても、東に帰還する機体はない事に気がついているかもしれなかった。
ハワイは補充機の通過ルートとなっていたからだった。