1951マニラ平原機動戦22
―――結局、我々は幻の脅威に振り回されていただけだったということか……
小野田大佐は、方面軍司令部内で兵站地内に潜伏していた敵部隊を掃討し終えたと報告する声を聞きながらそう考えていた。
コンテナが並べられていた集積所の損害は膨大なものだったが、兵站部が詳細を確認するまでまだ時間が掛かりそうだった。暴れまわっていた敵戦車隊を撃破した後も撤退した敵歩兵部隊から取り残されたものが潜んでいたらしく、安全が確保できなかったからだ。
戦車隊の交戦で巻き添えを食らったものや、周辺部を荒らしまわっていた敵歩兵隊に火付けされたコンテナが多かったのだが、もはや一つ一つコンテナの損傷を丁寧に確認していく方が手間かもしれないと方面軍司令部の兵站参謀はぼやいていた。
それよりも無事だったコンテナを片っ端から前線後方に設けられている兵站主地に送り出して、コンテナの集積と分別の仕事自体を兵站主地に任せたほうが良かったかもしれなかった。
リンガエンまで長駆進出してきた敵戦車隊と迎撃部隊との戦場となったコンテナ集積場は、もともと綿密な計算の元に計画されて設定されていた場所ではなかった。
単に海運主地に隣接したこの兵站地に配属された要員だけでは次から次へと陸揚げされるコンテナを捌ききれなかったものだから、滞留していたコンテナを収める為に、急遽前線に向かう工兵隊を一時的にかき集めて整地だけした場所に巨大な迷宮のようにコンテナを積み上げてしまっていただけだったのだ。
金属製の箱状構造物であるコンテナ自体が簡易な倉庫として機能するためにこのような措置が許容されたのだが、実際にはコンテナ輸送という従来とは異なる輸送手段に振り回されていただけだとも言えた。
日本本土だけではなく、満州などから送られてくる膨大な物資を集積、分類して前線に送り込むのが海上と陸上輸送の結節点となるこの兵站地の役割だったのだが、急速にコンテナ専用施設が整備されつつある本土や海上輸送の圧倒的な輸送量に、従来の兵站管区制度では対応しきれていなかったのだ。
―――コンテナは収容物を保護するために頑丈な鉄箱としていたのだが、それが中身の判別を難しくさせたのでは本末転倒ではないか。
こうした事情を聞いているうちに小野田大佐はそう考え始めていた。
これから先はコンテナの中身を即座に確認できるような仕組みを作り出すか、単にこの兵站地は海上輸送から鉄道輸送への結節点としての機能のみに特化して、より前線に近い兵站主地に物資管理の機能を移譲させる必要があるだろう。
日本軍の兵站組織にとって重要な箇所は、方面軍や軍の後方に設けられる兵站主地だった。各師団に所属する兵站部隊は、兵站主地に自分達の師団が必要とする物資を取りに行くことになるからだ。
言い換えれば海運主地で陸揚げされた物資が移送される兵站線は兵站主地までは単線で構築されているものの、そこから先は各師団や軍毎の兵站線に枝分かれしていくのだ。
国際連盟軍として再編成された現在のルソン島に派遣されているフィリピン方面軍には満州共和国軍などに所属する師団も配属されていたのだが、師団以上の戦略的な補給計画に関しては実質的に日本陸軍が全面的な面倒を見ていたから、兵站主地までは日本軍の管轄だった。
ただし、現在の日本軍の兵站はルソン島への上陸作戦を急遽実施した状態であったためか、日本陸軍本来の兵站計画に沿ったものではなかった。
大陸東部に政治的な工作や偶然の連続などによって満州共和国やシベリアーロシア帝国などの友好勢力を作り上げた日本帝国の基本的な国防方針は、ソ連救援に駆けつけてくる可能性のある米軍を太平洋で阻止しつつ、大陸深部に本土で編成された重装備の師団を友邦への増援として送り出すというものだった。
日本陸軍本来の兵站計画もこの方針に従って策定されたものだった。ウラジオストックや大連などの日本本土から大陸への結節点となる港湾都市には、大規模な貨物取り扱い能力を持つ鉄道駅が設けられていたのだ。
戦車や火砲など重装備の一部は都市郊外などに建設された倉庫に事前集積されて定期的な整備が行われて保管されていたのだが、砲弾などの消耗品は貨物船で日本本土の工場や駐屯地などから次々と送られるはずだった。
日本海軍主力が万全な状態であれば日本海は帝国の内海も同然となるはずだから、非効率な船団を組むこともなく貨物船は最適な航路で独航することになるのではないか。
だが、効率を極めたところで、大規模な重装備部隊である日本陸軍の機動歩兵師団や戦車師団を大陸中央で縦横無尽に機動させるには膨大な物資が必要であることに変わりはなかった。
即応部隊と考えられている広島第5師団や北海道の広大な演習場で平時から機甲部隊の機動訓練を行っている第7師団などの充足率が平時から高い部隊は兎も角、本州から招集された予備役兵をかき集めて動員される歩兵師団などは小銃一つの身軽な姿で大陸に移送される計画だった。
だが、動員計画ではその後に大陸の倉庫に事前集積された重装備を受け取って軽装備で派遣された部隊も機動歩兵師団として再編成される計画だったから、そうした重装備部隊が増えるにつれて兵站線にかかる負担は増大するはずだった。
日本帝国が初めて欧州列強との国際関係を実感したと言われる日露戦争においても砲弾の使用量がそれまでの戦闘と比べて増加していたことが指摘されていたが、第一次欧州大戦初戦における要塞化された独領青島攻略戦はその規模に対して砲弾使用量は日露戦争時の比率よりも上がっていた。
幸いなことに第一次欧州大戦時の欧州戦線に派遣された日本軍はまだ数も少なく、また大部分が維持されていたフランス本土を後方拠点として使用できたのだが、日本本土でせっせと生産された砲弾も欧州正面の消耗戦に投入されて極短時間でまるで幻であったかのように消え失せていく始末だった。
これらの戦訓を受けて、膨大な兵站線への負担をわずかでも緩和させるべく、現地の兵站部では民需品を転用できる糧秣などに関しては自活主義、現地調達の研究が盛んに行われるようになっていった。
ただし、遠い戦地に派遣された日本軍兵士達は欧州風の食事を然程好まなかった。郷愁を抱いた多くの日本人は結局欧州でも米を炊いていたから、厄介なことに主食である米は本土からの輸送が強く求められていた。
それでも欧州産の農作物を利用した日本食というどこか滑稽さを感じさせる研究の他に、現地に種などを持ち込んだ野菜や芋類の収穫なども当時から兵站部主導で試みられていたのだった。
その後に予想されたユーラシア大陸東部における対ソ戦の場合、シベリアーロシア帝国はともかく、満州共和国に派遣された部隊の現地調達は難しくないはずだった。元々工業化によって食料自給率が低下していた日本帝国は満州から少なくない量の食料を輸入していたからだ。
フィリピン戦においてはコンテナという当初の予想以上に効率の高い輸送手段によって糧食も全て日本本土や満州から持ち込まれていたのだが、戦線が安定すればいずれルソン島でも糧秣などの現地調達が増えていくはずだから、海運主地にかかる負担も低減されるかもしれなかった。
―――だが、コンテナ群が滞留していたからこそ、敵戦車隊はあんな場所で戦う羽目になっていたのかもしれないな……
ふと小野田大佐はこれまでとは矛盾した考えを抱いていた。
リンガエン湾まで攻め込んできた敵戦車隊の目的は、長期的な視野に基づいて兵站線に負担をかけるといったものでもなければ恒久的な領土奪還でもなく、この方面軍司令部を襲撃して国際連盟軍の士気系統を混乱させることのみにあったのではないかと考え始められていたからだ。
方面軍司令部では、しばらく前から積極的な動きを見せていたルソン島北東部のカガヤン・バレー地方に展開する米軍の動きに注目していた。トゥゲガラオなどアパリを狙う位置にあった部隊の多くが南下して戦線を縮小する気配があったのだが、その意図は正確には分からなかったからだ。
ルソン島北端のアパリとマニラ平原北西部のリンガエン湾に国際連盟軍が上陸した事で半ば包囲された形になっていた同方面の米軍守備隊だったが、戦線の縮小はアパリ奪還を断念して戦力をマニラ平原に集中させて逆襲に転じる目的があるのではないかと方面軍司令部では恐れていたのだ。
マニラ平原南端とサンバレス山脈の境目をすり抜けるように浸透してきた米軍戦車部隊は、カガヤン・バレー地方の米軍守備隊の動きと連動しているのではないかと考えられていた。
マニラ平原中央部に展開する米軍主力で国際連盟軍主力を抑えている間に、カガヤン・バレー地方から回頭してきた部隊とサンバレス山脈沿いを侵攻してくる部隊で司令部を含む国際連盟軍後方のリンガエン湾周辺を包囲する意図があるのではないかと方面軍司令部参謀達は判断していたのだ。
しかし、その後の航空隊や前線部隊による偵察によってカガヤン・バレー地方の米軍は、進路を変えてマニラ平原の南東部の米軍前線の後方に向かって移動している事が確認されていた。
マニラ平原とカガヤン・バレー地方を区切る中央山脈越えの街道に向けられていた国際連盟軍の戦力は手薄だったのだが、米軍はそちらに無理攻めをする事なく戦力の温存を図っていたのだろう。
あるいはカガヤン・バレー地方沿岸部に何度か海軍特務陸戦隊などによる奇襲的な攻撃が加えられていたのだが、それが米軍からすると予想以上の圧力となっていたのかもしれなかった。
海岸線付近を通る後方連絡線が途絶える可能性を考慮した米軍は、未だマニラ平原南東部を友軍が保持している間に一挙に後退して距離と時間を稼ごうとしているのではないか。
このカガヤン・バレー地方からの撤退と敵戦車隊が進出して来た時期を後から考慮すると、撤退作戦を欺瞞する為に戦車隊が撹乱に出ていたのではないかと考えられていた。
機動部隊を陽動の為に使用するとすれば、目標は兵站線ではなく司令部の方が適切だった。物資を欠くことによる長期的な攻勢の遅れよりも、指揮系統の混乱によって短期的に大きな効果が狙えるからだ。
もしかすると米軍は兵站地と共に方面軍司令部もリンガエンに存在していると考えていたのかもしれないが、実際には海運による兵站と指揮系統の動線が交差して乱れるのを恐れて司令部は湾最奥のリンガエンではなく、やや内陸部にあって距離のあるロザリオに設けられていたのだ。
ただし、米軍による陽動作戦の効果は大きかった。敵戦車隊は最終的に殲滅されたが、動揺した方面軍司令部はカガヤン・バレー地方の米軍に備える予備兵力の中から小出しに抽出した戦力しか送り込めなかったからだ。
満州共和国軍から派遣された独立守備隊は敵戦車隊と随伴する歩兵部隊を撃退していたが、ほぼ同数の兵力に残存憲兵隊を加えた寄せ集めの部隊だったからか損害は少なくなく戦闘終了後までに生じた付随被害も大きかった。
―――結局、辻井参謀が主張した通りに出せる戦力全てで敵戦車隊を迎撃していたほうが結果的に見れば被害を最小限で抑えられたと言うことか……
今回の敵戦車隊の侵攻によって予定から遅れていた前線の視察に赴く前に、小野田大佐は司令部の面々に挨拶していこうとしていたのだが、司令部内部の様子はどこかぎこち無かった。
敵戦車隊の迎撃に慎重だった参謀達が辻井参謀に遠慮するような雰囲気があったのだ。鷹揚な態度を示しながら辻井参謀は周囲に笑みを見せていたのだが、司令部内部の主導権を参謀が握ったのは間違いなさそうだった。