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1951マニラ平原機動戦19

 中国東北部に成立した満州共和国軍の兵力は少なく無いが、守るべき国土面積からすれば余裕があるわけでも無かったし、その規模は次第に小さくなっていった。

 元々軍閥の寄り合い所帯として誕生した満州共和国軍のそれほど長くは無い歴史は、再編成、と言うよりも近代国家の軍人としては使い物にならない恭順匪賊達をいかに穏当に社会に復帰させるかという問題に費やされていたからだ。

 新国軍として誕生した直後は膨大な将兵数を数えていたのだが、元匪賊達は国営農場送りから独立農家への再教育などを通じて急速にその数を減らしていったのだ。


 勿論、再編成後も満州共和国の防衛に必要な兵力は確保されていた。全土はいくつかの軍管区に分かれていたが、その防衛にはかつての大規模軍閥を中核としつつも統一された装備で再編成された有力な部隊が配置されていたのだ。

 しかし、各軍管区に固定配置された部隊は人事上の流動性が低かった。現地で志願、徴兵された兵士だけではなく、士官の多くも旧軍閥時代を引き摺っていた結果、他軍管区への異動が難しかったのだ。

 各軍管区のうちシベリアーロシア帝国と隣接する北方の国境線は薄かった。満州共和国軍の戦力の大半は、共産主義勢力との境界線であるモンゴルや北中国との国境線に展開していたからだ。


 結果として本土防衛に特化した形となった満州共和国軍だったが、各軍管区に貼り付けられた戦力が多く、国外に展開可能な戦力は薄かった。

 日米開戦が次第に全世界を巻き込む新たな大戦の予兆を示す中で、米国の友好国であるソ連を警戒しなければならない現状では、特に固定配置された部隊を動かす事は難しかった。満州共和国と接するモンゴルはソ連の構成国家の一つであったし、北中国もソ連の傀儡に過ぎなかったからだ。

 状況によっては五年前の南北中国の内戦が再開する可能性もあったから、ベトナム王国などの新興独立国が南シナ海を越えてフィリピンに僅かでも兵力を送り込んでいたのに対して、南中国軍などは全軍が北中国軍を警戒して大陸から離れることが出来なかった程だ。



 日米が衝突するルソン島に満州共和国軍が派遣出来た戦力は、当初は最精鋭の第10独立混成師団のみだった。アジア圏の新興独立国が派遣したなけなしの戦力に比べれば大兵力となるのだが、近隣の大国としては乏しいと言えるかもしれなかった。

 第二次欧州大戦においても欧州に派遣されたこの師団は、元々特定の軍管区付きではなく中央の軍政部直轄で有事の際に各軍管区に派遣される予備兵力扱いであったらしく、戦略的な機動性が高いのだろう。


 この亡命モンゴル人で構成された機械化師団に続いて、満州共和国軍ではルソン島に派遣するためのいくつかの独立編成部隊が編成されていた。あちこちから抽出された部隊の混成部隊だった。

 そして、何故かベルガー大尉達もこの部隊に編入されていた。大戦中に豊富な実戦経験を積んだ歴戦の戦車兵、ということにいつの間にかなっていたのだ。

 少なくともベルガー大尉とマイヤー曹長の二人に関してはそれは事実でもあったが、本来は自分たちは開墾事業の為に農場に雇われた機械工ではなかったのかという大尉の抗議は無視されていた。


 農場の予備役部隊から招集されたのは、ベルガー大尉達戦車兵達の他は僅かな数の満州人整備士だけだった。やはり普段は農夫の仕事をしている予備役兵達の練度は戦車兵達よりも低いと判断されてしまっていたのだろう。

 それならベルガー大尉達も農場に残せば良さそうなものだが、満州共和国軍において欧州大戦時の近代的な戦車戦を経験した将兵は第10独立混成師団を除けば大尉達だけだった。


 満州共和国軍の中にベルガー大尉達の戦歴を正確に把握しているものがいるとは思えなかったのだが、この混成大隊の指揮官の顔を見てすべての疑問が氷解していった。

 各地から抽出された歩兵中隊を率いて戦車隊を待ち構えていたジャムツェ少佐は、第二次欧州大戦終盤でベルガー大尉達と共闘した満州共和国軍の指揮官であり、同時に満州共和国に渡ってきた大尉達が頼りにした伝手であったからだ。

 ベルガー大尉は、二重の借りがあるジャムツェ少佐の笑みを浮かべた顔を前にすると、それ以上文句を言うことは出来なかったのだ。



 2個歩兵中隊を基幹とする混成大隊に配属されたベルガー大尉達の戦車は、しばらく前に一〇〇式砲戦車から一式中戦車乙型に切り替えられていた。一式中戦車乙型は、原型車と異なり長砲身57ミリ砲ではなく75ミリ野砲を原型とした砲を主砲として装備する改良型だった。


 元々日本軍はソ連軍戦車に対抗可能となる理想的な中戦車として開戦前から三式中戦車を開発していたらしい。長砲身57ミリ砲で対戦車能力を高めた一式中戦車はそれまでの繋ぎという意味合いもあったという話だった。

 ただし、第二次欧州大戦開戦と制式化が前後したために一式中戦車の生産数は繋ぎというには多かった。そこで長砲身57ミリ砲が日本軍の兵器体系から外れていく中で、既存車両の有効化を図るために砲塔のみをすげかえる形となる一式中戦車の改良型として乙型が開発された、らしい。

 同じ75ミリ砲でも短砲身砲から長砲身砲に戦時中にすげ替えたドイツ軍の四号戦車の関係に近いのだろうが、一式中戦車の原型が長砲身砲を備えた三号戦車に近いものだったのに対して、乙型はG型以降の四号戦車の性格を持つと見ても良さそうだった。


 戦車としての使い勝手は一式中戦車の場合は原型車よりも乙型の方が格段に良かった。やはり長砲身小口径砲は貫通能力は高くとも使い所が限られるからだ。これが3インチ級野砲であれば、対戦車戦闘などよりも頻繁に発生する支援砲撃に十分に対応出来るのだ。

 自ら対戦車砲を制圧すると共に随伴する歩兵部隊の障害を排除する能力を得た事で、一式中戦車乙型は歩兵支援戦車としての能力をようやく獲得していたといえるのではないか。



 一式中戦車乙型は満州共和国軍の正規部隊でも三式中戦車と並行して現在でも配備が続いていた。日本から輸入した一式中戦車の原型車に国産の乙型砲塔を被せた車両もあるらしい。

 満州共和国は残存する一〇〇式砲戦車の大半を南中国に売却したらしく、国営農場の予備部隊にも正規軍で使用していた乙型が回されたのだろう。あるいは、その時点でジャムツェ少佐がいずれ自分の駒にするためにベルガー大尉達に回すよう手配していたのかもしれない。


 だが、一式中戦車乙型の性能は農場の予備役歩兵部隊を支援するには十分であっても、大戦終盤にベルガー大尉達が乗り込んでいた重量級のドイツ戦車と比べると些か頼りなく感じるのも事実だった。

 ベルガー大尉が車長を務めたマウス超重戦車は言うに及ばず、あの頃少年戦車兵達が乗り込んでいたパンター戦車の主砲は一式中戦車乙型と同じ3インチ級でも、野砲弾道ではなく初速が大きい高射砲弾道だったからだ。

 皮肉なものだった。数年前に一〇〇式砲戦車に初めて乗り込んだ時は小口径高初速砲の対戦車能力と引き換えとなる使い勝手の悪さが目についていたのだが、汎用性の高い野砲弾道の砲を得た今、ベルガー大尉は対戦車能力を求めていたのだ。



 ベルガー大尉が憂鬱になっていたのは、ルソン島に到着してから間もないというのに、急遽米軍戦車隊との本格的な戦闘に駆り出されていたからだ。満州共和国で派遣前の訓練を行っていた時期に聞かされていた話では、大隊の任務は主力部隊後方の支援になるはずだったのだ。


 フィリピン支配の中心地であるマニラに向かって進攻する国際連盟軍主力の後背はがら空きになっていた。取り残されたのは現地住民だけではなく、彼らに紛れた米兵も数多くいるのではないか。

 米兵と言っても、開戦前からフィリピン防衛の数的な主力は米本土の白人兵ではなく現地フィリピン人で構成された部隊だったようだから、現地人に溶け込んで潜伏されれば見分けがつかなかった。


 占領地帯の警備には憲兵隊も動員されているはずだが、精々が装輪式の装甲車しか持たない野戦憲兵隊を補強する為に、ジャムツェ少佐率いる混成大隊もリンガエン湾の兵站地と主力部隊の輜重隊が担当する兵站末地まで伸びる後方連絡線の警備などに動員される、筈だった。

 実際に戦車隊の支援を受けた重装備の歩兵部隊に警備だけを任せるほどの余裕がルソン島の現地軍にあったかどうかは分からないが、想定外の奇襲攻撃にベルガー大尉達は戦車中隊単独での戦闘を命じられていた。



 リンガエンの兵站地を襲っている米軍には大口径の火砲などは確認されていなかったが、諸兵科連合部隊であるようだった。ただし、その戦法は異様なものだった。

 主力となっているのは有力な戦車隊であるらしい。兵站地の警備にあたっていた憲兵隊が有する唯一の装甲部隊である装甲車部隊が一蹴されていたからだ。


 出動前の説明によれば、憲兵隊の装甲車部隊には第二次欧州大戦時に制式化された四四式軽装甲車が配備されていたらしい。

 一式中戦車乙型と同じ野砲弾道の大口径砲を装備した四四式重装甲車程では無いにせよ、軽装甲車といえども第二次欧州大戦開戦前後であれば立派な戦車砲であった37ミリ砲を全周砲塔に収めていたから、憲兵隊の警備には過剰な火力である程だった。

 実際日本軍憲兵隊の装甲車部隊の中には、軽装甲車の不整地走破性のみを評価して、砲塔を取り払って機関銃のみ装備に留める部隊も少なくなかったようだ。


 相手が主力の中戦車以下であれば、未だに37ミリ砲も十分な威力を有しているはずだが、これを装備する軽装甲車が一蹴されたという事は、相手はまともな戦車であると考えて良さそうだった。

 この有力な戦車隊を主力部隊をすり抜けてリンガエン湾まで送り込んできた米軍の戦力は予想以上に大きいのかもしれない。



 だが、兵站地を管理する兵站司令部からすれば、兵站地中心部付近に展開しているらしい敵戦車隊よりも、外周部で火付けをして回っている敵歩兵部隊の方がより大きな脅威だった。

 警備部隊以外に流れ弾を除けばほとんど被害らしいものを出していない敵戦車隊と違って、敵歩兵は直接補給物資を狙っていたからだ。


 兵站地の空き地に野積みされていたコンテナは、倉庫代わりにされているものもあったが、大半はただ前線後方に設定された兵站主地までの移送が間に合わずに滞留しているものだった。

 日本本土などからリンガエン湾に向けて次々と効率よくコンテナが送り込まれてくるのだが、海運主地に隣接する兵站地に配属された要員だけではコンテナの数が多すぎて仕分けしきれていなかったのだ。

 1万トン級の貨物船を改造したコンテナ船では数百個にも及ぶコンテナを詰め込めるというから、一々中身を開けて確認していたら日が暮れてしまうのではないか。


 ベルガー大尉も最近になって農場でも使われだしたコンテナという箱自体は何度か見たことがあったのだが、収穫物を輸送するだけだったから農場ではコンテナがさほど有効活用されていたわけではなかった。

 大型のトレーラーで運ばれてきた空箱に農場職員達が収穫物を詰め込む作業は、天蓋が有る分だけ従来のトラックよりも効率が悪い程だった。全長12メートルもある鉄箱に隙間なく収穫物を詰め込んだ袋を更に詰め込んでいく作業は重労働だったからだ。


 しかも重量の有りそうな牽引車は高価なのか、トレーラーごとコンテナを切り離すとさっさと農場を去っていった。あとに残されたトレーラー上のコンテナはベルガー大尉にはただの移動倉庫にしか見えなかった。

 牽引車は次の日にまた来るとトレーラーを繋いで走り去っていくのだが、そうして工場や農場で荷物を詰め込んだコンテナは、鉄道や海路で集積されてこうして最終目的地で山となっていくらしい。

 だが、こうして集積されている姿は農場で単体で見ていたコンテナとはまるで印象が異なっていた。

一〇〇式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100td.html

一式中戦車改(乙型)の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkmb.html

一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html

三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/03tkm.html

四四式軽装甲車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/44rsvl.html

四四式重装甲車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/44rsvh.html

戦時標準規格船三型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji3.html

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