1951マニラ平原機動戦18
昨今の日本軍は、計画的に開発計画を定めることで彼らの本土で生産する砲弾の種類を絞っていた。限られた砲弾生産能力を戦場で大量消費される弾種に集中すると共に、平時から備蓄される砲弾の管理を容易にする為だろう。
その点では同じ口径の砲弾でも戦車砲や高射砲などの用途や僅かな砲身長の違いによって生じる最適要求によって薬莢形状なども平気で変えるドイツ軍よりも、多少砲身長が変わっても砲弾を流用してしまうソ連軍の体系に日本軍の考えは近いと言えた。
おそらくはソ連軍を仮想敵として長い間過ごしてきた事で、日本軍も似たような傾向になっていったのだろう。
その結果、3インチ野砲級の戦車砲弾が大量生産される一方で、急速に旧式化していた一式中戦車用の長砲身57ミリ砲用砲弾の生産数は第二次欧州大戦中から減らされていったのだ。
だが、ある時期から満州共和国のベルガー大尉達の元にも潤沢な57ミリ砲弾の支給がされるようになっていた。しかもその砲弾の大半は備蓄ではなく訓練で消費する分に割り当てられていた。
実際に一〇〇式砲戦車を操るドイツ人達は、単純に訓練で喜んで砲身と砲弾を消費していったのだが、農場の満州人たちはどこか怪訝そうな顔で砲弾が収容された箱を覗き込んでいた。
ベルガー大尉達が質すと、満州人職員は首を傾げながらも今回支給された砲弾はこれまで細々と支給されていた日本製や満州共和国国産品ではなく南中国で製造されたものだと言った。
同じ漢字でも、日本と中国どころか、満州共和国が位置する東北部と南中国の中枢である南京、上海周辺では使用される文字も微妙に違うと言うことをベルガー大尉達が知ったのはその時の事だった。
南中国と俗称されるようになっていた中華民国は、五年ほど前の第二次欧州大戦終戦直後に発生した中国共産党の大規模蜂起、というよりも内戦によって広大な国土を失っていた。
外国資本が流入することで国民政府の資金源となっていた上海租界や香港など沿岸地帯に加えて首都南京は保持出来ていたものの、戦線を立て直すまでに勢力圏は大きく南方に押し込まれており、歴史ある大都市である北平を含む中原の一帯からモンゴルと接する奥地まで失っていた。
今や北京と名前を改められた北平を首都とした北中国こと中華人民共和国が南中国を一挙に追い詰めることが出来たのは、ソ連軍が第二次欧州大戦中に使用していた大量の余剰兵器を受け取っていたからだった。
ドイツ人の諜報組織は未だに膨大な数のソ連軍がドイツ北部の占領地域に駐留しているものと推測していたが、戦時中におけるソ連軍の増員は現状を遥かに凌駕するものだったようだ。
そして、この平時には過剰な部隊を装備ごとソ連軍はあっさりと手放していたのだろう。戦争が終われば徴募された兵士達は社会に労働者として帰さなければならないし、備蓄砲弾はともかく老朽化した兵器は保管にも手間がかかるだけと判断されたのではないか。
民主主義国家では軍縮も何かと法規に照らし合わせて行う必要があるが、共産党独裁のソ連では指導者の鶴の一声で決定出来たのかもしれない。
だが、第二次欧州大戦終盤には旧式化していたとしても、時が止まったような中国大陸の内戦では大戦初期に投入されていた76ミリ野砲を備えたT-34の初期型であっても、無敵の存在だった。
満州人が半ば嘲りのように言う言葉を信じれば、当時の南中国軍は満州共和国軍と比べても装備は貧弱なものであったらしい。本来は統一中国の正規軍であったはずなのだが、予算不足や政府機関の腐敗による横流しの常態化、内戦の影響などで装備の刷新どころか給料の遅配も珍しくなかったらしい。
数少ない戦車部隊も日本軍では旧式化して訓練部隊でしか使用されていなかった九七式中戦車が配備されていればいい方だった。
相手が戦車を保有せず、それに第二次欧州大戦の影響で新型兵器の流入も途絶えていた軍閥程度ならば、最新鋭の戦車などより軽量で短砲身砲からそこそこの威力の榴弾を放てる歩兵戦車である九七式中戦車の方が使い勝手は良かったのだろう。
本来は上海などの学生などの間で広まっていた中国共産党勢力も、当時の国民政府からすれば大規模な匪賊か軍閥程度の脅威でしかなかった。機械化装備に縁のない雑多な兵士達に対しては、九七式中戦車やそれ以前の八九式中戦車が出動すれば容易に蹴散らす事ができたのだ。
ところが、鉄牛と呼ばれて恐れられていた九七式中戦車も76ミリ野砲の前ではその装甲は薄紙同然でしかなかったし、短砲身砲から放たれた低速で成形炸薬弾ですら無い57ミリ榴弾ではT-34の装甲を貫くことは出来なかった。
つまり中国の内戦では、列強からすれば一世代前の兵器が二世代前の兵器を蹂躙するという形の戦闘が繰り広げられていたようだが、一方的に追い詰められた中華民国軍の危機を救ったのは、部隊規模は小さくとも最新兵器を装備した日本軍や満州共和国軍による救援だった。
それ以上に、満州共和国軍主力が共産主義勢力との境界線である南部国境線に集結したことによる内戦参戦への可能性という無言の圧力が、既に北京を占領して聖域を作り上げていた北中国を山東半島付近で停戦させていた理由だった。
重要なのは、第二次欧州大戦の包括的な停戦条約に巻き込まれる形で中国大陸の内戦も同時に停戦した後に、南中国軍も北中国軍に遅れて装備の刷新を図ろうとしていたことだった。
軍部は当然最新鋭装備を望んだのだろうが、国民政府がそれに答えるのは不可能だった。従来の様に自分達の見栄や民衆への武力の誇示だけが目的であれば新鋭装備若干数のみの購入も視野に入れられたかもしれないが、南中国は実戦に耐えうる身の丈にあった軍隊を揃える必要があった。
この時点で南京、北京間にある見えない勢力圏を区切る線は、中国大陸を分断する塹壕の連なりという形ではるか上空からでも一目瞭然となっていたからだ。
満州共和国軍の精鋭部隊が装備する三式中戦車を南中国軍が導入するのは難しかった。生産された三式中戦車の少なくない数が欧州に送られたきり日本本土にも戻っていなかったからだ。
第二次欧州大戦中盤以降、というよりも本格的な欧州大陸への反抗作戦となったイタリア上陸作戦以後の日本軍主力戦車となった三式中戦車の生産量は多かったが、その多くは生産された端から欧州に送り込まれていた。
そして終戦を迎えたのだが、それは欧州に永遠の平和が訪れたことを意味しなかった。新たに欧州の壁となった新生ドイツ軍の向こうには強大な、そして西欧諸国と政治思想が相容れないソ連が存在していたからだ。
大戦によって勢力圏を大きく西に伸ばしたソ連に対抗するために欧州諸国は軍備増強に務めざるを得なかったのだが、同時に戦災復興という多額の資金を有する事業も待ち構えていた。
その一方で、はるか極東から大兵力を欧州に送り込んでいた日本軍は、輸送費用を抑える為に余剰軍備の現地残置を目論んでいた。こうして日欧両者の利益が合致した結果、三式中戦車に限らず日本軍重装備の多くが再整備の上で再建されるドイツ軍を含む欧州各国軍に安価に売却されていたのだ。
欧州諸国への余剰兵器の供与、売却によって日本軍は莫大な輸送費用を削減できたのだが、これまで近隣の日本製中古装備を安価に購入していた南中国政府には頭の痛い問題となってのしかかっていた。
いくら高価となっても少数なら三式中戦車の購入も可能かもしれないが、長大な戦線の綻びを少数精鋭部隊で全て繕うのは難しかった。
しかも、日本本土における三式中戦車の新規生産は既に終了していた。日本軍の戦車生産は既に大戦終結に前後して制式化された新型の四五式戦車に切り替わっていたからだ。
生産中の四五式戦車購入は、ある意味で三式中戦車以上に難しかった。大戦の終結と同時に戦車生産量も減らされていたから、重装備を欧州に置いたまま帰還した日本軍部隊への補充分以上の数は生産されていなかったのだ。
新鋭戦車の取得が難しい中で、南中国政府はこれまでの見栄を捨て去った判断を下していた。いずれ日本軍の需要を満たした後は輸出が許可されるであろう新鋭戦車が国内に入っているまでのつなぎと割り切って長砲身57ミリ砲体系、つまり一式中戦車と一〇〇式砲戦車の導入を図っていたのだ。
確かに一式中戦車は既に最新鋭とは言いがたかったが、長砲身57ミリ砲であれば北中国軍が装備するソ連軍の中古装備である76ミリ砲装備型のT-34にも何とか対抗できるからだ。
内戦勃発前から南中国軍は九七式中戦車に加えて少数の一〇〇式砲戦車も装備していた。これに加えて残存する九七式中戦車も一挙に一〇〇式砲戦車仕様に改装すれば、南中国軍の対戦車能力は格段に上昇するのではないか。
第二次欧州大戦の戦訓に反して対戦車戦闘に特化した変則的なやり方だが、広大な中国大陸を戦場にするにあたって、北中国軍はソ連に倣って部隊の火力発揮の根幹として戦車を運用していた。裏を返せば北中国軍の多くは戦車さえ撃破してしまえば後は烏合の衆の筈だったのだ。
南中国軍の決意は本物だった。一式中戦車や一〇〇式砲戦車などの導入と同時に、長砲身57ミリ砲弾の製造ライン一式まで日本から購入していたからだ。
満州共和国にいたベルガー大尉達の元に送り込まれていたのは、この南中国製の初期生産品だったのだが、後からそれを知った大尉達は眉をしかめていた。どうも訓練で使い果たしたこのときの砲弾は、試験目的で与えられていたようなものだったらしいからだ。
ようやくのことで可能となった連続発砲訓練には、農場の外部から立ち会うものがいた。ベルガー大尉は満州共和国軍の正規部隊から派遣されたものだと思っていたのだが、そう言えば制服の形状が微妙に違うものもいたような気がする。
もしかすると彼らの中には南中国軍の関係者も混じっていたのかもしれない。以前から日英露の支援を受けた満州共和国は、一部軍用機材の国産化も行っていたから参考にすることでもあったのだろう。
尤もこのときの訓練は現実に即したものとは言えなかった。砲口と地面が近い為に、一〇〇式砲戦車の連続発砲によって盛大に土煙が上がっていたからだ。
ドイツ軍でも駆逐戦車や自走対戦車砲は隠蔽後に車体前に水を撒いて砲口炎と共に自位置の暴露につながる土煙の発生を抑えていたのだが、満洲の乾いた荒野では水を撒いた跡だけで彼方からでも一目瞭然ではないか。
だが、この時は土煙によって照準が阻害される上に発砲に伴う換気さえ不十分な環境で連続発砲していた。そして何の意味があるかわからない訓練の後、ベルガー大尉達を取り巻く環境は急速に変化していた。
ようやくのことで慣れ始めていた一〇〇式砲戦車は最後の整備を終えると農場から去っていった。再整備の上で南中国に渡るのだろうと農場の職員たちが言っていたが、ベルガー大尉達はそんな推論に交じる余裕はなかった。
一〇〇式砲戦車に代わる戦車が早々と農場に到着していたからだった。この時に農場に送られてきた戦車が、今ルソン島でベルガー大尉達乗り込んでいる一式中戦車改、あるいは一式中戦車乙型と呼ばれている戦車だったのだ。
一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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一〇〇式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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四五式戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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一式中戦車改(乙型)の設定は下記アドレスで公開中です。
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