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1951マニラ平原機動戦17

 ある日作業していたベルガー大尉は、農場に響く履帯のきしむ音に気がついて顔を上げていた。それはいつものように居住区に隣接する整備場で故障したトラクターを修理していた時だった。

 元々ドイツ軍の戦車兵だったベルガー大尉達は整備の専門家ではなかったのだが、辞書と手引書、それに設備の充実した整備場のおかげでなんとか整備士の真似事をしていたのだ。



 農場に付随する整備場の機能は、必要以上に充実していた。整備場を含む格納庫の規模は、農場が保有する工作機械の数に対して大きすぎるほどだった。出動しているトラクターを全台収容してもまだ空間は余っているのだ。

 ベルガー大尉達の通訳を兼ねる職員にそのことを訪ねても曖昧な答えしか帰ってこなかったが、元々この農場はさらに拡大する計画があったらしい。今は訓練場としてしか使用していない荒蕪地をさらに開墾して工作機械の数も増やされるはずだったのだ。

 ところが、共産主義者が本土北部を占領したおかげで、農場に送られている元匪賊達を純粋な農場労働者に再教育するよりも、正規軍を支える予備戦力として再編成する作業の方が優先されて農場の拡大計画は中止してしまったというのだ。


 通訳職員の言葉は意外な形ですぐに証明されていた。トラクターとは明らかに重量感が異なる聞き慣れない履帯音がするはずだった。その日、農場には払い下げられた工兵車両などではなく、本物の戦闘車両が配属されていたのだ。

 その時点でもまだベルガー大尉はその車両に乗り込むのが自分たちだということが信じられないでいたのだが、この農場の労働者は、戦車の支援を受けた歩兵部隊に再編成されていたのだが、トラクターならともかく本物の戦車を操作できる人間は大尉達しかいなかったのだ。



 ベルガー大尉達の農場に送り込まれたのは、満州共和国の正規軍でも旧式化した車両だったのだが、大尉はマイヤー曹長とその車両を前にして顔を見合わせていた。

 全体的な印象はドイツ軍で採用されていたヘッツァー駆逐戦車に類似していた。軽戦車程度の車体から砲塔を取り除いて固定式の戦闘室とすることで、車格に見合わない規模の火砲を搭載していたのだ。


 おそらく開発経緯も似たようなものだったのだろう。前線での任務に適さなくなった旧式戦車を駆逐戦車に仕立て直すことで延命を図ろうとしていたのではないか。

 ただし、この車両の車体規模はヘッツァーの原型となった38(t)戦車と同格のものだったが、その備砲の口径は一回り小さく、その代わり砲身は長かった。つまり対戦車戦闘に特化した高初速砲だったのだ。


 咄嗟にはその正体を思い出せなかったが、しばらくしてからベルガー大尉も目の前にあるのが日本軍の一〇〇式砲戦車である事に気がついていた。半ば剥がれかけている車体の塗装や識別記号からすると、日本軍ではなく満州共和国軍で長く使用されていたもののようだった。

 ベルガー大尉がこの戦車のことを思い出せなかったのは、戦時中は主に東部戦線で戦っていたベルガー大尉達が地中海戦線の日本軍との交戦経験が少なかった為だった。

 だから流し読みした識別帳の記載以上の事はベルガー大尉も知らなかったのだが、実際にこの駆逐戦車が前線で目撃された例は地中海でも珍しかったはずだ。旧式化して日本や満州本土に残留する部隊の予備装備になっていたからだろう。


 一〇〇式砲戦車の原型となっていたのは、日本軍が開戦前に制式化していた九七式中戦車だった。当時としては別に大きく時代遅れの性能というわけでも無かったが、大戦中は戦車の大型化が進んでいたからすぐに時代遅れになっていたという話だった。

 そこで日本軍は九七式中戦車を駆逐戦車に仕立て上げたらしいのだが、開発時期は三号突撃砲の代替として開発されていたヘッツァーよりも以前であり、固定式戦闘室に備えられた備砲はヘッツアーや三号突撃砲が装備した野砲弾道の75ミリ砲よりも小口径長砲身である57ミリ砲だった。

 この砲は一式中戦車の主砲と同規格のものであるらしい。日本語だと一〇〇式は1940年、一式は1941年制式化という意味らしいから、開発中の新型中戦車の主砲を先行して搭載したのだろう。



 主砲装備の関係だけを見ればマウスの主砲を搭載したヤークトティーガーの開発経緯にも似ていたが、一〇〇式砲戦車には無視出来ない欠点があった。

 装備する主砲の威力が低いのは制式化の時期を考慮すれば納得も出来るのだが、一般的に言って小口径長砲身砲は初速の高さからなる貫通力と引き換えに榴弾威力が相対的に低かったのだ。

 おそらくは、軽歩兵戦車である九七式中戦車に対戦車能力を与える為にこの砲が採用されたのだろうが、大戦中の戦訓からすれば比較的短砲身でもヘッツァーの様に無理をして汎用性の高い3インチ級砲を装備すべきだったのだ。

 結果論に過ぎないが、大戦中に発達した成形炸薬弾であれば初速が多少劣っても大口径砲の方が威力は大きいし、高初速の徹甲弾に必要な貴重な金属資源の利用も抑えられるのだ。


 長砲身砲は、高初速を実現する為に高められた腔圧が災いして榴弾の炸薬量を増やせなかった。砲身内で加速する間に砲弾が破壊されない為には弾殻を頑丈に設計しなければならないからだ。

 ところが、第二次欧州大戦中に実際に戦車砲から撃ち出されていた砲弾は大半が榴弾だった。対戦車戦闘に特化した重駆逐戦車などであっても搭載される主砲弾の半数程度は榴弾とするのが常識的な戦車兵の考えだった。

 戦場に進出した戦車は、敵戦車と戦闘を行う前に隠蔽された対戦車砲や地形を利用して接近する対戦車兵を始末しなければ生き延びられなかったし、土地を味方歩兵部隊に占領させるには敵陣地を榴弾で突き崩さなければならなかったからだ。



 それに大戦中に戦車が撃破された理由の大半が不意に射撃される対戦車砲によるものだったという戦訓からすれば、高初速砲を備えた一〇〇式砲戦車も自走対戦車砲の様に慎重に振る舞わなければならなかった。

 日本軍の砲戦車という概念は火力に劣る通常型戦車を支援する為に大口径の榴弾砲を備えたものであったらしいのだが、一〇〇式砲戦車の場合は同時に渡された手引書を見ても通常の九七式中戦車の支援を受けながら戦車狩りを行うことが想定されていたようだ。

 砲戦車と通常型戦車の関係が変則的なようだが、これは単に砲戦車という概念をまだ日本軍がまとめきれなかった時期に開発されていただけかもしれない。


 結果として一〇〇式砲戦車は低い車高を利用して僅かな起伏に潜み、敵戦車を必殺の射界に収めるまでひたすら待ち続けなければならないのだが、これが練度の低い予備歩兵部隊を支援する戦車隊に装備するのにふさわしい戦法だとは思えなかった。

 本来はこの部隊に配属するのにふさわしいのは、時代遅れとも思える歩兵戦車なのだろう。

 あるいは、同じ固定戦闘室でも三号突撃砲やヘッツァーの様な大口径砲を搭載した車両があれば良いのだが、日本軍の同級車両である一式砲戦車はまだ戦力価値があるのか、こんな胡乱げな予備部隊には回ってこなかったようだ。



 ドイツを出国してからずっと騙されているような気がし始めていたのだが、他に行く宛もないベルガー大尉達は一〇〇式砲戦車の習熟訓練を始めていた。むしろ単調な生活に飽き飽きし始めていた元少年戦車兵達の方はちっぽけな駆逐戦車でも興味津々になっていたのにげんなりしていた。

 実際に単車での操車訓練から開始してみると、少年達の意気込みとは異なり失敗の連続だった。久し振りの本物の戦車、しかも勝手が違う日本製戦車の操作に手間取っていたのは確かだったが、それを除いても時代遅れの旧式砲戦車の操縦は難しかったのだ。


 一〇〇式砲戦車の操車機能は、ベルガー大尉が戦時中に見た同じ日本製の戦車である一式中戦車や三式中戦車のそれと比べても操作が難しかった。

 1940年に制式化したと言っても実際には足回りの設計は開戦前の九七式中戦車のままだから、大戦中に大尉達が目撃した新型戦車とは技術上の断絶があるらしい。

 しかも、固定式戦闘室に装備された主砲の旋回範囲は恐ろしく限定されるものだから、照準の為に頻繁に細かな操車を要求される足回りの負担は大きかった。

 これが駆逐戦車の宿命である事はドイツ軍の駆逐戦車部隊の戦訓などからベルガー大尉も承知していたのだが、一〇〇式砲戦車には他にも悪条件が揃っていた。



 軽歩兵戦車の小さな車体に小口径長砲身砲を装備したものだから、一〇〇式砲戦車の砲口は地面に恐ろしい程近かった。ほんの僅かな地形の起伏に隠れて砲身のみを付き出せるという利点はあるが、現実には損傷ばかりが目立っていた。

 普通に操車していても僅かに車体を傾けただけで頻繁に地面に砲口を擦ってしまうのだが、日本軍が第二次欧州大戦前に戦車に好んで採用していたシーソー式サスペンションは地形追随性が高い一方でその分頻繁に車体が傾いてしまうのかもしれなかった。


 砲塔がない分低く抑えられた車体は、不自然な体勢を取らざるを得ない装填手の作業も困難にさせていた。この農場の生活で少年戦車兵達の身長も伸びていたが、日本兵の標準身長と比べても彼らは極端に大きくも小さくもないようだから、本来の乗員達も苦労していたのではないか。

 ただし、実戦を想定していた場合の発射速度がどの程度になるのかは判然としなかった。訓練で連続発砲出来るほど潤沢な砲弾の在庫が無かったからだ。



 第二次欧州大戦後における日本製砲弾体系の中で、高初速57ミリ砲は半端な立ち位置になっていた。大戦序盤頃は日本軍の戦車砲、対戦車砲の主力であり、国外に供与、売却されたものも多かったのだが、大戦中に急速に旧式化が進んでいたのだ。

 大戦中盤以後の各軍は、滅多に発生しない対戦車戦闘だけではなく自前で対戦車砲を始末出来る大威力榴弾を使用可能な3インチ級砲を戦車主砲にしていたからだ。


 戦車砲がより大威力、高初速を目指す一方で、対戦車兵器の主力は純然たる砲ではなくロケット砲や無反動砲などに移行していた。近代的な戦車に対して十分な貫通力を持たせた対戦車砲は、いずれも重量が大きくなって野戦での運用が難しくなっていたからだ。

 短距離であっても重すぎて人力搬送が不可能であるとすれば、対戦車戦闘で頻発する陣地変換にも対応出来ないということだった。

 一々重量級の砲を牽引し直す余裕が常にあるとは限らないから、大口径戦車砲は当初から自走化を目指すものが多かったが、それではもはや歩兵部隊に組み込める簡易さはなくなっていたのだ。


 その一方で、怪物的な進化を遂げてしまった戦車を除く戦闘車両に関しては、大口径機関砲や軽量の37ミリ砲程度でも十分対抗可能だった。

 戦車は撃破出来なくとも、それ以外の車両なら小口径砲や機関砲で十分に撃破できるのであれば、結果的に57ミリ程度の言わば中間口径に類する砲は中途半端なものにしかならなかったのだ。

 その結果、日本帝国は大戦中盤辺りから57ミリ砲弾の生産数を絞り始めていたらしい。長砲身型だけではなく、九七式中戦車などが装備した短砲身型用の砲弾も供給量は少なくなっていたようだった。

 戦時中も57ミリ砲弾の供給は最前線の日本軍向けが優先されていたから、満州共和国軍でも備蓄量はさほど多くなかったのだった。

一〇〇式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/100td.html

九七式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/97tkm.html

一式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01tkm.html

一式砲戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/01td.html

三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/03tkm.html

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