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1951マニラ平原機動戦16

 軍人商売に飽き飽きして、土をいじって暮らす農夫になろうとして満州共和国まで海を渡って来たベルガー大尉達だったが、実際に農場で大尉達一行に与えられた仕事は野良作業とは一見縁がうすそうな機械工のそれだった。



 ベルガー大尉達の新しい職場となった農場の面積は広大なものだった。中国には他に肥沃な大地があるせいかもしれないが、元々長年放置されていた荒蕪地であったものを、強引に土木機械を集中投入して耕作地に転換していたのだ。

 土壌が悪いのか農作物の出来はさほど良くないようだが、それを遥かにカバーする耕作地面積を有する農場だった。灌漑と飲料水を兼ねた用水路も計画的に掘削されていたから、土地の手入れを怠らなければいずれは肥沃な土地に育つ可能性はあった。

 終戦前後からドイツ国内にも流入していた満州産の穀物もこうした集団農場で収穫されたものだったのだろう。高価な土木機械の大量投入など初期の造成には多大な費用が費やされていたが、運営が順調に進めば人件費の相対的な圧縮で費用対効果が出てくると判断されたのではないか。


 だが、機械化の導入を除いたとしてもこの農場の位置付は特殊なものだった。雇用されている農夫達は、実際には満州共和国軍の予備役兵という立場にあったからだ。

 予備役兵と言ってもベルガー大尉が着任した当初は農作業の合間に行われている訓練はおざなりなものだった。いくら予備役とはいえ、訓練時の動きは緩慢で、部隊としての戦力価値は低そうだった。個人の練度も民兵に毛が生えた程度でしかないのは明らかだったのだ。


 貧弱なのは訓練過程だけではなかった。彼らの装備はその多くが旧式化している上に統一も取れていなかった。日本軍の旧式小銃を手にしているのは幸運な方だった。当然ベルガー大尉達が欧州で目撃した新型小銃などは全く無かった。

 第二次欧州大戦時に日本軍や満州共和国軍などの装備優良部隊は新型の九九式自動小銃に移行していたのだが、その際に部隊から返納された旧式小銃の多くは再整備の上に日本国外に輸出されていた。


 海外といっても当時はアジア植民地で新規に編成された部隊が多かったから、そのまま現地軍に貸与されていったものも多かったようだが、満州にも少なくない数の小銃が入っていたはずだった。

 製造元の日本帝国では一世代前の小銃であっても、満州共和国軍の平均では新型装備の部類に入るものだった。この農場の予備役兵などは、小銃の数が足りないのか木銃を手にしていたものやら、中には手製の槍を手にしたものまでいたのだ。

 ところが、こうした雑多な集団は短時間のうちに高い戦闘力を持つ即応集団へと急速に再編成されていった。



 ベルガー大尉もあまり詳しくはなかったのだが、満州共和国軍は当初軍閥の寄り合い所帯の形で編成されていた。それ以前に、満州共和国自体がこの地方の有力な軍閥である奉天軍閥が日露などの支援を受けて誕生した半独立国だったのだ。

 新京という名の新たな首都や独自の政府機関まで有しながらも半独立国という立場であったのは、中国全土の正統政府は中華民国の国民政府にあるという建前を守っていたからだ。


 このように奇妙な事態となっていたのは、日清戦争の敗北や清朝の崩壊といった激動が続く中国全土を国民政府が完全には統治出来ていなかったからだ。

 実質的にその地域を支配している大小様々な軍閥や匪賊、馬賊に加えて、上海など政治経済の中枢から一度は放逐されたはずの共産党勢力もソ連の一部となったモンゴルから中原への再進出を狙って策動していた。

 聖域を得た共産党勢力の拡大に危機感を抱いていたのは、シベリア地方に逃れたシベリアーロシア帝国とそれを支援する日英だった。当事者であるはずの国民政府中枢は共産党勢力も数ある敵対軍閥の一つとしか考えていなかったのだろう。


 このような混沌とした状況を奇貨として勢力を拡大したのが日英露に接触していた奉天軍閥だった。卓越した指導力で周辺軍閥をまとめ上げると、中華民国国民政府の正統性を認めつつも共産勢力から満州を守るためと称して満州共和国という独自の政体を作り上げていたのだ。

 軍事的、経済的な支援者である日英露の意向を無視できなかった国民政府は、地方政府との建前で満州共和国の存在を認めざるをえなかった。

 国民感情としては外国勢力のほしいがままにされる上海租界を忌々しく思いながらも、そこから上がってくる膨大な利権からその存在を許容せざるを得ないのと同じようなものだったのだろう。



 そして今では満州共和国の国家としての正統性も怪しげなところがあった。

 日英露の懸念どおり、その後も共産主義勢力はその勢いを増していた。満州共和国軍は満州地方への共産主義勢力侵入を阻止し続けていたのだが、国民政府の対応はおざなりなものだった。

 第二次欧州大戦中は頼みの綱のソ連が対独戦に国力の全てを注いこんでいたために支援も尽きていたのだが、終戦によって一転して余剰兵器を受け取った中国共産党は一斉に蜂起して大規模な内乱が発生していた。

 ベルガー大尉達が満州共和国に到着したのは、この内乱が一段落ついた時だったのだが、中華民国が防衛体制を構築するまでの間に共産主義勢力は大きく南下して勢力圏を一挙に拡大していた。


 その結果、奇妙なことに本来は統一中国にたった一つであるはずの「京」が三ケ所も存在するという彼らにとって異様な時代が訪れていた。

 かつての中国である中華民国は南京を保持していたが、遥か欧州にまで師団級戦力を派遣して国際的な発言力を高めた満州共和国の首都である新京の意向を国民政府ももはや無視できなかった。

 満州共和国と敵対するようなことがあれば、北京と改められた都市を首都とする共産主義勢力、中国共産党が支配する北中国に対抗できなくなってしまうからだった。



 このように変則的な三国時代が訪れたものだから、満州共和国の軍事力は重要な意味をもっていたのだが、彼らの部隊編制にはかつてのドイツ武装親衛隊にも似た差異があった。そもそも軍閥の寄り合い所帯として誕生した為に初期の満州共和国軍は雑多な構成だったからだ。

 さすがにその中核となった奉天軍閥は、組織力も装備も列強に準じた練度の高いものだったのだが、満州共和国が成立する過程で吸収していった地方軍閥の中には外部への宣伝と実数が著しく異なるものも決して少なくなかったからだ。

 満州地帯を平定する過程で恭順してきた馬賊や討伐された匪賊となると、近代的な軍隊とはかけ離れた組織だった戦闘も出来ないものばかりだった。


 初期の満州共和国は、地方軍閥を組織化しつつ中央に大規模な軍官学校を設けることで近代的な軍事教育を受けた士官の大量育成を行っていた。地方軍閥の集合体に中央政府の意向に忠実な士官を送り込むことで徐々に中央集権国家の国軍にふさわしい組織に進化させようとしていたのだ。

 その一方で、近代化に縁のない恭順馬賊、匪賊達の扱いには苦悩していた。中央の統制が利かない雑多な組織でしかない彼らを単純に犯罪組織の山賊と切って捨てるわけには行かなかったからだ。

 近代化が遅れていた清朝末期において誕生した馬賊は、村落など地方自治体にとって自警団の意味合いもあったからだ。


 軍隊というよりアジアの任侠団体と言ったほうがふさわしい馬賊だったが、山賊である匪賊との境界は曖昧だった。

 特定の地方に兵員の補充や資金源を依存する馬賊は「税金」と引き換えに街道の安全や防衛などを地方自治体に提供していたのだが、食詰めた地方の馬賊が他方に進出して他の馬賊と交戦することも少なくなく、その場合は彼ら自身がどう考えていようとも匪賊そのものでしかなかった。

 そんな前近代的な親分子分の関係でしかない馬賊や匪賊を、新世代の国軍に適さないからと言って容易に社会に放り出すわけには行かなかった。反社会集団となって近代化を阻害するどころか、たちまち離散集合して匪賊に逆戻りするのはあきらかだったからだ。



 集団農場という制度を考えついたのは、貧農の生まれで自身も馬賊出身だという満州共和国軍の初代軍政部長であったらしい。

 自分のような食詰め貧農こそが馬賊、匪賊の発生原因だと考えた軍政部長は、国軍を唯一の国内治安維持組織と法的に定めると共に、恭順した雑多な組織のうち近代化に耐えずとした組織を次々と解体させると、彼らを予備役兵扱いの屯田兵として農場の建設作業に当たらせていたのだ。

 満州共和国の民生を安定化させるために、当時は日本製のトラクターが大量に投入されていた。実際には第一次欧州大戦で欧州戦線に送られるはずだったトラクターの再利用だったらしいが、貧弱な農耕馬では到底不可能な速度と規模で農地の開墾作業が行われていた。


 当初建設された集団農場は条件の良い都市部近郊に設けられていた。出荷物を都市で消費させるためだ。

 経営が軌道に乗った農場の中には、軍直営の手を離れて民間や開墾作業に従事した予備役兵に払い下げられたところもすでにあるらしい。初期に恭順した馬賊の中には穏やかに農民となる道を選んだものも少なくなかったのだろう。


 だが、農業に飽き飽きして脱走するものや、反抗的なやくざものも少なく無かった。軍隊組織であるからにはそうした輩も処断されて行ったのだが、農場の中には条件の良い農地周辺から離れて荒野に設けられたものも出来ていた。

 表向きは大規模な機械化の投入による効率化を図るために広大な土地を探した結果とされていたが、その中には脱走の阻止も含まれていたのは明らかだった、らしい。



 古手の職員からそうした事情を聞かされたベルガー大尉は困惑していた。自分達が農場の形をとった収容所の囚人なのか、それとも新たに雇用された看守の方なのかが明らかではなかったからだ。

 実際にはその区別も曖昧なものだったのかもしれない。ベルガー大尉が到着した頃には農場は収容所というよりも国境警備部隊の後方を支える予備部隊という性質を急速に強くしていた時期だったからだ。

 実質的に隣国となってしまった中国共産党が支配する北中国との緊張関係がその理由だったが、ベルガー大尉達も農場に必要不可欠な土木、農業機械の整備だけをしているわけにはいかなくなっていた。


 ベルガー大尉達が農場の職員となってからも組織、装備の刷新が相次いでいた。普段の仕事だけではなく訓練でもあからさまに手を抜いていたものはときたま懲罰にかけられていたが、何度かそうした処置を受けていたものはある日突然に移送されていた。

 現地の中国語が分からなくとも高度な教育と訓練を受けていたベルガー大尉達がそうした処罰の対象となることはなかったが、労働キャンプであるこの農場でも使い物にならないとされたものは本物の刑務所に収監されるという話だったが、確かなものではなかった。

 武装した憲兵によってトラックの荷台に載せられる元職員達の多くはふてぶてしい態度だったが、ベルガー大尉にはなぜか彼らが出荷される動物に見えていた。


 不穏分子を排除した農場は、耕作地でありながら同時に予備戦力の集団へと急速に再編成されていったのだが、ベルガー大尉達の立場はその時点でもまだ曖昧なものだった。

 耕作地に隣接する訓練場は、実際には開梱される前の荒蕪地そのものだったのだが、訓練時のベルガー大尉達は普段整備している農業土木機械を使った陣地の構築、すなわち工兵部隊を務めるだけだったからだ。

 尤も工兵部隊の出番はさほど無かった。旧式化しているとはいえ次第に員数が揃っていた小銃を備えた予備部隊は純然たる歩兵の集団に見えたからだ。

 それが一変したのは、ある日のことだった。

九九式自動小銃の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/99ar.html

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