1951マニラ平原機動戦15
第二次欧州大戦の終戦に前後して解散させられた武装親衛隊の構成員の中でも、一切の支援もなく唐突に路頭に放り出されたのは諸外国からのドイツ系民族からの志願者だった。
同じドイツ系民族でも、大戦前からのドイツ人、大戦前に併合された領内のドイツ系、占領国のドイツ系民族、そしてドイツ系でもないのに反共の宣伝に釣られて志願した占領国人、かつての武装親衛隊員達どれもが戦後に辿った道筋は同じようで異なっていたのだ。
チェコ領に復帰したズデーテン地方などでは、武装親衛隊への志願の有無どころか老若男女問わずにドイツ系民族出身者は、隣接するドイツ領に続々と追放されていった。
過剰な人口を抱えることになるドイツの国力低下を危惧した日英など国際連盟諸国からの消極的な抗議は、旧占領国のナショナリズムを左右する力はなかった。
ドイツ国外のドイツ系民族出身者は、第一次欧州大戦までの間に広がっていたドイツ民族がオーストリア・ハンガリー帝国の崩壊によって新独立国の領域に取り残されたものだと言えたが、彼らは国籍よりもドイツ民族という意識が強かった。
それ故に彼らは占領政策への協力どころか侵攻開始段階から積極的に侵攻するドイツ軍に協力してきたのだが、その行為はどう見ても事前の協議なければ不可能な作戦行動だったから、それまでの国籍がどうあろうともドイツ系民族はもはやドイツ本国人と一体と主張する声が強かったのだ。
戦後追放されていったドイツ系でもないのに武装親衛隊に志願した外国人義勇兵は、大抵の出身国で戦後は犯罪者扱いをされていたのだが、そうした扱いを受ける前に脱走したものも少なくなかった。ヒトラー総統個人に忠誠を誓った彼らも行く先が無くなっていたのだ。
勿論、元義勇兵は脱走も果たせずに母国に引き渡されて拘束されていったものが大半だったのだが、純粋なドイツ人であっても戦犯として終戦後に拘束されていった武装親衛隊の元隊員も多かった。
国防軍に転属していた部隊の隊員であれば、再建途上の連邦軍からの弁護なども期待出来たのだろうが、国防軍に吸収された古豪の武装親衛隊師団は常に最前線に展開していたような部隊ばかりだから、主に戦線後方で発生していた戦争犯罪に関与しているものは元々少なかったのではないか。
こうした戦犯指定を逃れる為に事前に察知して国外逃亡の道を選んだものも多かった。この時期は、元々のドイツと呼ばれる領域が人口に対してひどく狭くなっていたことで移住が盛んに行われていたから偽装工作も容易だったのだ。
占領地帯や開戦前に併合した地域は、当然講和条約によって返還対象となっていたのだが、終戦後もドイツ本土の北東部がソ連に占領されたままであった為、終戦間際にその地域から南部に疎開した住民の帰還も不可能だった。
そこに周辺地域から追放されたドイツ系民族が加わったものだから、元々工業化が進んでいたドイツ南部の人口密度は限界に達していたのだ。
講和後に満州等から送られてくる援助食糧で文字通りに糊口を凌ぎつつ、原材料も資金も無くなって製造するものがなくなった工場の建屋等が集団住居に転用されていたのだが、同時にドイツ政府は抱えきれない人口の海外移民も奨励せざるを得なかった。
事実上の棄民だったが、自ら海外移住の道を選んだドイツ人や国外から追放されたドイツ民族は多かった。再建途上のドイツ国内には、国際連盟軍の盾として再編成されている軍以外にろくな職は無かったからだ。
単純に職がない貧乏人だけではなく、そこに戦犯指定を逃れる為に国外逃亡の道を選んだものもだいぶ潜り込んでいたようだ。噂では戦犯対象者を組織的に海外に逃亡させるための組織があるというものもあったが、真偽は不明だった。
ベルガー大尉達も他人のことは言えなかった。自分達も行く宛のない元ドイツ軍人集団の一つだったからだ。
移民か逃亡するかはともかく、元親衛隊隊員達が行き先はいくつかあった。もちろんいくら移民受け入れに積極的でも、ソ連やその同盟国である米国を選ぶものはいなかったし、英国やカナダなどつい先ごろまで交戦していた英連邦諸国の多くも積極的に選択するものは少なかった。
白豪主義の観点から白人の人口を増やしたいオーストラリアや南アフリカを除いて、英連邦諸国側もドイツ人移民の受け入れには積極的ではなく、周辺の欧州諸国はドイツ人を追放する方の立場だった。
唯一オランダ政府はドイツ人移民の受け入れを表明していたが、それは本国ではなく反乱が相次ぐ東インド諸島への移住計画であり、同時に兵役経験のあるドイツ系住民からなる自警団の創設を前提としたきな臭いものだったのだ。
結局、南米やシベリアーロシア帝国など現地の白人層の中に移住していったドイツ人が多かったのに対して、ベルガー大尉達は伝手を辿ってこれまで縁のない満州共和国に移住する道を選んでいた。
元々国防軍に所属して東部戦線の激戦を生き延びていたベルガー大尉やマイヤー曹長には再編成された新国軍に復帰する道もあったかもしれないが、彼等の元には帰る家を失ったヒトラーユーゲント出身の少年達がいた。
彼らも少年戦車兵として大戦終盤の戦いを生き延びたという立派な戦歴があるのだが、終戦前に解散したヒトラーユーゲント師団出身の若年兵を軍は受け入れようとはしなかった。
しかも、大戦末期にベルガー大尉について来ていたのは、ドイツ北部出身者や併合地域のドイツ系民族など家や家族を失ったものばかりだったからドイツ国内に彼らの居場所は無くなっていたのだ。
最終的に満州共和国軍に雇用されたベルガー大尉達一行だったが、最初はアジアの片隅で戦火には関わりなく純粋に農業をやろうと考えていた。その時点で東インド諸島への移民は選択肢に入らなかったのだ。
東部戦線を生き延びたベルガー大尉は、終戦後も軍に残って血気盛んな元同僚たちとは違って、戦争はもう懲り懲りだと考えていた。
国際連盟軍から中古装備の供与を受けたことで、終戦後に旧ドイツ国防軍は装備を充実させていた。数はともかく、重装備の充足率で言えば補給が途絶えがちだった大戦中よりも遥かにましだっただろう。当時は機材などが不足しただけで修理不能とされて放棄された車両も少なくなかったのだ。
だが、機械化された師団がいくつあっても、重厚なソ連軍に対抗するのは難しいのではないか。そもそも新生ドイツ軍の意気込みとは異なり、国際連盟軍はドイツ軍が西欧前方に展開する盾として機能する事を望んでいるはずだった。
東部戦線で自分達を縛っていたドイツ人ナショナリズムに嫌気が差していたベルガー大尉は、戦争ではなく満州共和国で農業に従事することで残りの人生を過ごそうとしていたのだ。
晴耕雨読の生活で小さな畑でも耕しながら、少年兵達が望むのであれば巣立っていくのを見るのも悪くはないのではないか、大戦終結から生じていた脱力感でベルガー大尉は老人のような夢を考えていたのだ。
第二次欧州大戦終結後、遥か極東から欧州まで遠征していた日本帝国やアジア諸国の将兵は再び兵員輸送船に乗せられて彼らの本国に帰還していたのだが、用済みとなった兵員輸送船は僅かな改装だけで今度はドイツ人を輸送する移民船に早変わりしていた。
ベルガー大尉たち一行も移民船の一隻で満州共和国に到着したのだが、すぐに伝手である満州共和国軍将校の紹介で農場に雇用されていた。
その話を聞いた時は、ベルガー大尉はドイツ国内でまだ残っていたユンカー達の所有する農園で働く小作人のようなものになるのだと考えていた。満州人の元で働くドイツ人農夫というのもおかしくはないだろうと考えていたのだ。
だが、実際にはベルガー大尉が想像していたような鍬と鋤を抱えた農夫といった牧歌的な雰囲気は、連れてこられた満州共和国内の農場には無かった。
概念で言えば、その農場はソ連の国営農場に近かった。ただし、労働者は純粋な農民ではなく軍属であり、実質的には満州共和国軍の直営農場というべきものだった。
尤もベルガー大尉達が最初に驚いたのは農場の経営形態などではなかった。宿舎や農機具類の倉庫が密集している区画を除いて、農場には見渡す限りの耕作地が造成されていたのだ。
明らかに計画的に畑は造成されていた。耕作地はトラクターなどの農業機械を投入する事を前提として直線で形成されていたからだ。
畑の間に伸びている農業道路も耕作地の形状に合わせて先が見えないほどの直線で形成されていたが、舗装こそされていないものの農村のあぜ道とは思えないほど幅員は大きく造成されていた。
おそらく耕作地の間の道路も、人員の移動ではなく収穫物を輸送するトラックが行き交う事を前提に設計されていたのだろう。農場の面積からしても、とても人力輸送では追いつきそうも無かったからだ。
居住区に隣接する農場中心部のいくつかの道路は特に広く造成されていた。居住区近くでトラックから降ろされたベルガー大尉は、暫く観察してからこの道路の周辺には僅かな灌木すらないのに気がついていた。
―――この道路は滑走路としても使用出来るのか……
もちろん最新のジェットエンジン搭載機などは運用出来ないだろうが、軽量の連絡機程度なら悠々と降りられるのではないか。
ベルガー大尉は単に道路の形状からそう判断した訳ではなかった。農場周辺の人口密度の低さも連絡用滑走路の存在を想像させるものだったからだ。
日本の租借地である大連港で移民船から降りたベルガー大尉達は、鉄道とトラックを乗り継いで農場にたどり着いていた。鉄道も主要幹線ではなく支線に入り込むものだったから、何度か乗り換えていた。
満州共和国が広大な面積を持つということは知っていたが、それにしても国内移動だというのに長旅だった。もう一度移動しろと言っても難しいし、自分達が何処にいるのかもよく分からなかった。
この農場が高緯度地帯にあるのは分かっていた。すでに冷気がベルガー大尉達を襲っていたからだ。少年兵達は、ひどく寒がっていたが、ベルガー大尉とマイヤー曹長は東部戦線で何度も味わった大陸深部の冬が始まったと言うだけのことだった。
寒冷地にあることだけが理由ではないが、広大な敷地面積で計画的に造成されていたものの、農場の環境がさほど良いとは思えなかった。
確かに機械力を効率よく投入することを前提として直線で耕作地境界が形成されていたものの、地面に立って見ると湾曲している箇所も少なくなかった。もともとの地形が耕作地に向いていないのを強引に整地していったのではないか。
根気よく観測すれば、機械力の投入で平地を作り上げた痕跡も見つけられるかもしれなかった。近代的な土木機械を集中投入して農場を形成していたものの、元々は単なる荒蕪地だったのだろう。
面積が面積だから収穫量は多いのだろうが、効率はさほど良くないか、本格的な耕作地に土地を改良する途上なのかもしれなかった。
ベルガー大尉達の到着に気がついて農場の居住区から遠巻きに見つめる農夫達の姿も、純粋な農民には見えなかった。数からしてこの広大な農場の労働者はここに集中して居住しているらしい。
それが理由というわけでもないのだろうが、まさに農夫と言うよりも労働者といった方が良さそうだった。しかもさほど質が良い労働者ではない。アジア人の顔はあまり良く見分けがつかないが、あまり真っ当な職についていたようには見えなかった。
彼らの姿を見てベルガー大尉とマイヤー曹長は顔を見合わせていた。満州人の農場労働者達の姿が兵士達、それも東部戦線でよく見た士気が崩壊しかけたそれに見えていたからだ。
農場で実際に働き出すと、そうした印象が概ね正しかった事が分かっていた。ここは単なる農場というよりも、労働キャンプ、さらに悪く言えば収容所というべきものだったのだ。