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1951マニラ平原機動戦14

 ―――いつまで経っても戦場からは逃れられないというのに、乗り込む戦車だけは随分と変わってしまったものだ。

 最近になって、ようやく瞬時に絵ではなく文字として認識されるようになってきた漢字を見つめながらベルガー大尉はそう考えていた。

 車内に書き込まれた装備品に記載されているのは日本語だった。漢字と組み合わされた文字は、工業化、特に重工業にいまいち不安のある満州共和国内でライセンス生産されたものではなく、この車両が純正の日本製であることを示していたが、それで安心できるものでもなかった。



 ドイツ国防軍の戦車将校として従軍していたベルガー大尉が第二次欧州大戦の最後に乗り込んでいた戦車は、僅か2両が実戦に投入されたマウス超重戦車だった。終戦間際の混乱の中で、実験車両がそのまま実戦に投入されていたのだ。

 それに200トン近い重量があるマウスに付き従っていたのも試作車両に毛が生えたようなパンター2だったが、当然ながらどちらも制式化された戦車ではなかった。


 パンター2などは名称すら仮のものでしかなかった。パンターの後継となるその名前の戦車開発計画そのものは以前から存在していたものの、実際にベルガー大尉の指揮下に入っていたのは、小改良されたG型車体に小型化砲塔を目指した鋭角のF型砲塔を組み合わせた暫定仕様に過ぎなかった。

 本来は、実戦投入開始から様々な改良を暫時繰り返されていたパンター戦車を抜本的に改良する為に持ち上がったのがパンター2開発計画だったようだが、戦局の悪化や国際連盟との講和がもたらした状況の変化によって計画は中止同然だったのだ。


 あるいは、いくつも並行して進められていた戦車開発計画の見直しは、ヒトラー総統の暗殺事件が切欠だったのかも知れない。

 現在のドイツ国内では、非ナチス党化の為か独裁者の総統が熱心に進めていた不要な兵器開発が中止されていったという説が強いようだったが、ドイツ国外からある程度国際連盟軍が得た情報から第三者的な視線を向けていたベルガー大尉は、その説明に素直に頷くことが出来なかった。

 理由は簡単なものだった。現実的な妥協案として成立したパンター2などはともかく、本当にヒトラー総統の暗殺で戦車開発計画が軍人達の手に戻されたのだとすれば、何故マウス超重戦車のような戦車が暗殺事件後も実戦投入される所まで組み上げられたのかが分からないからだ。



 ヒトラー総統暗殺事件後に、総統代行としてドイツの政権を掌握したのはゲーリング国家元帥だったが、政権の基盤は曖昧なものでしかなかった。

 以前から三軍の中でも最高格となる地位を与えられたゲーリング国家元帥は、ヒトラー総統の後継者と定められていたのだが、暗殺事件が発生する頃には親英派で国際連盟との講和を唱えるゲーリング国家元帥は政権中枢から遠ざけられていたのだ。

 だが、ナチス党幹部や軍首脳までまとめて爆殺された後に政権を担える程の大物政治家は、ナチス党が未だに権力を掌握している中ではゲーリング国家元帥以外にいなかった。皮肉なことにヒトラー総統から疎まれていたことが暗殺事件からゲーリング国家元帥の身を守っていたのだ。


 その一方で、どのような手段を用いたのかは分からないが、終戦間際に自決したゲーリング国家元帥は将軍達に関しては忠実に従わせていた。

 第二次欧州大戦後に解体されたことで国防軍最後の参謀総長となったグデーリアン上級大将などは、大戦中盤頃からヒトラー総統と不和になっていたはずなのだが、どうしてゲーリング国家元帥が参謀総長就任を認めさせたのかは未だに分からなかった。

 何人かの将軍たちが出した回顧録などでは、混乱する情勢をまとめ上げられる人物として消極的にゲーリング国家元帥に協力したと記述されることが多いのだが、どれも奥歯に物が挟まったような印象をベルガー大尉は受けていた。



 いずれにせよグデーリアン上級大将など忠誠を誓った将軍達を通じて、ゲーリング国家元帥は武装親衛隊を含むドイツに残された軍事力を掌握していったが、本人は国際連盟との講和に集中していった。

 ナチス党の中でも政府機関を動かしていた高級官僚のなかには総統暗殺事件で行方不明となったり、党内派閥争いなどからゲーリング国家元帥に唯々諾々とは従わないものもいたようだった。


 混乱する体制のなかで短時間で国際連盟との講和にこぎつけたゲーリング国家元帥は卓越した政治力の持ち主だったのだろうが、ヒトラー総統のように兵器開発には興味を示さなかったようだ。

 正確に言えばそのような暇など無かったのだろうが、その間に総統暗殺事件のどさくさに紛れるようにして一部の、それこそヒトラー総統の鶴の一声で中止されていたような胡乱げな計画までが担当者が気がつく前に進められてしまっていた、らしい。

 生産や運用に必要とされる膨大な人工に釣り合うとは思えない超重戦車であるマウスや、実戦投入が急がれた結果としてレシプロエンジン搭載機の機動を戦闘機乗り達が試みて次々と事故で失われていったジェット戦闘機Me262など首を傾げざるを得ない開発、運用計画がこの時期急速に進められていたのだ。



 だが、運用上の問題は無数にあったものの、順調に稼働さえすればマウスが強力無比な戦車であったのも確かだった。

 マウスの主砲は、ヤークトティーガーが装備したものと同型の128ミリ砲だったが、ティーガー2戦車に固定式戦闘室を設けたヤークトティーガーでさえ無理やり詰め込んだ感のあった同砲も、マウスの巨体からすれば見合った規模に感じられていた。

 実際、この主砲ならば第二次欧州大戦に投入されたどの戦車でも実用射程の外から軽々と撃破できたのだ。

 副砲も巨大な砲塔からすればスリーブを被せられた同軸機銃程度にしか見えなかったが、実際には中戦車の主砲となってもおかしくない規模の75ミリ砲であり、重量級戦車を正面から狙う様な時を除いて戦場で出会う大半の敵戦力を撃破出来た。

 勿論、主砲、副砲を詰め込んだ砲塔だけではなく、車体前部にも200ミリを越える装甲も有していたから、条件によってはマウス1両でもかなりの戦力となっていったはずだ。


 そのマウスがベルガー大尉指揮のものとで一度だけの実戦に投入された戦場は、意外な事にドイツ国内ではなくチェコだった。

 既に国際連盟との講和はなっていたが、東部戦線は崩壊寸前だった。西進を止めないソ連軍は、その時点でも後にスロバキアとして分離する領域を確保しており、無防備なチェコ領内を伝ってドイツ軍戦線の後方に回り込む可能性があったのだ。

 これを阻止するために国際連盟軍との共同部隊がチェコ国内に展開していたのだが、そこにベルガー大尉率いるマウス2両とそれを援護するパンター2などからなる急造の部隊が派遣されていたのだ。

 最終的に国際連盟軍の援軍によって窮地を脱したとはいえ、この戦闘でベルガー大尉率いる特別実験大隊が上げた戦果は大きかった。特にマウスは遠距離からの重戦車狩りでその火力を発揮し続けていたからだ。



 特別実験大隊と言っても、どさくさに紛れて編成された臨時部隊の装備は、どんなに強力であっても廃棄される寸前の実験車両ばかりだった。

 ベルガー大尉達がマウスを持ち出した国防軍の戦車開発施設もその後ソ連軍の占領下に置かれたと聞いていたから、出撃していなければいずれドイツ軍の手で爆破処理されていたはずだ


 残存した大隊の装備は、正式な停戦後に国際連盟軍に譲渡される形となっていたのだが、生まれ故郷に帰れなかったのは戦車だけでは無かった。

 チェコ回廊封鎖の為に急遽かき集められた特別実験大隊の隊員達は、ベルガー大尉や副官のマイヤー曹長などごく少数の東部戦線帰りのものを除けば、その大部分が武装親衛隊の第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」の元隊員、それも今はソ連に占領されているドイツ東北部などの出身者だったからだ。


 その名の通り、同師団はナチス党の青少年団体であるヒトラーユーゲントの出身者で構成された部隊だった。ヒトラーユーゲントから志願した兵卒に、武装親衛隊と国防軍から転属した将校と下士官を配属して即席で師団を構築しようとしていたのだ。

 ところが、大戦中盤から部隊編成を開始していたヒトラーユーゲント師団は、本格的な戦闘を経験する前に解散されていた。国際連盟との講和によって武装親衛隊自体が消滅していたからだ。


 ナチス党独自の武装組織として正規の軍隊とは国際連盟から認められなかった武装親衛隊だったが、開戦前から編成されていたような古豪の部隊は、師団ごと国防軍に編入されて戦力不足の東部戦線に回されていた。

 ドイツ人で構成された初期編成の部隊はそれで良かったのだが、ドイツ国内で徴兵を行う国防軍などとは異なるルートで戦力増強を続けていた武装親衛隊は、師団単位であまりにその構成に差異があった。その戦力や装備以前に、構成員自体に違いがあったのだ。



 ナチス党員選抜者や警察官などで構成された初期の師団とは異なり、末期に慌ただしく編成された武装親衛隊所属師団の多くは狭義のドイツ国民以外で構成されていた。

 併合や占領された周辺諸国に居住するドイツ系民族出身者からの志願ならば見た目はまだ変わらなかったが、ソ連共産党への叛意からドイツに協力していたソ連国内の反乱部族や捕虜からの志願者となると、武装親衛隊の制服を着ていることに違和感がある程だった。


 結果として武装親衛隊の各師団や独立大隊は、士気や装備のばらつきが大きかった。国防軍の優良部隊に匹敵する装備と練度を有する精鋭師団もあれば、士気の低さから後方警備中に戦時犯罪ばかりを繰り返すどうしようもない部隊もあったのだ。

 尤も武装親衛隊底辺の部隊にも言い分があった。民族の解放などのお題目を信じてドイツに協力してきた彼らは、戦局の悪化によって自分達とは関わり合いのない戦場に連れてこられた形だったからだ。


 しかも、武装親衛隊に志願した彼等の頭越しに、ドイツ人達は勝手に国際連盟と手打ちをしてしまっていた。彼らが状況に気がついたときにはもう遅かった。すでに武装親衛隊の解散は決まっていたのだ。

 ドイツ人で編成された精鋭師団が国防軍に実質的に吸収されていったのに対して、それ以外の各部隊が辿った道は大半が悲惨なものだった。同じ武装親衛隊に所属していたとは思えないほど彼らの末路は様々だったのだ。


 国防軍や武装親衛隊に所属していた元ソ連兵捕虜等は、ロシア師団を編成して国際連盟軍に参戦したものを含めて、終戦後にシベリアーロシア帝国が引き取っていった。

 ソ連辺境の紛争地帯出身民族の捕虜などと同様に、望むものにはソ連領内へ捕虜交換の形式を取ってシベリアーロシア帝国経由で帰還する道もあるようだが、ドイツ軍の捕虜となっていた上に志願してドイツ軍に編入されていたようなものは犯罪者扱いを恐れて帝国の市民となる選択肢を選んでいたようだ。


 非スラブ人の、捕虜ではなく周辺民族のソ連人達も、シベリアーロシア帝国に移住する道が用意されていたのだが、ムスリムなど少数民族である彼等の少なくない数は、講和成立前後の混乱に紛れるようにしてドイツ軍から脱走していった。

 彼らがどうなったかは5年以上たった今でも分からなかった。放浪の果てに故郷に帰り着いたのか、ソ連軍に捕らわれて処刑されたのか、あるいは新天地を求めて旅立ったとも聞くが、どの話にも根拠は無かった。

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