1951マニラ平原機動戦13
1930年代末の日本陸軍における戦車開発方針の一変によって誕生した一式中戦車は、九七式中戦車と比べて高初速砲による高い対戦車能力を有していたが、それでも想定されるソ連次期主力戦車に正面から対抗出来るものではなかった。
機動性はともかく、火力面ではソ連戦車が装備するはずの3インチ級野砲と57ミリ砲では前者に分があるはずだし、勿論主砲に対応した装甲も予想されるソ連戦車の方が強力なはずだった。
ただし、小口径砲にも利点はあった。砲弾が相対的に軽いから一発あたりの威力には劣っても装填速度では勝っているはずだ。従来の少人数砲塔から一式中戦車では指揮をとる車長と照準に専念する砲手に加えて装填手が追加されていたからだ。
57ミリ砲は長砲身化によって薬莢は長大化していたが、短砲身砲よりも砲弾重量はそれほど大きくはなっていないから、装填手の追加は装填速度向上を目的としたものといってよかった。
同時に装填手の乗り込みは、砲手や車長に装填作業を兼任させることで指揮能力や照準精度の低下を防ぐためでもあった。だから一式中戦車が有力な敵戦車と遭遇した際は、3人乗り砲塔自体が大きな武器となる筈だった。
正確な照準と高い発射速度に加えて、車長を外部状況の把握に専念させることで、連続発砲で敵戦車を牽制しつつ貫通可能な距離まで一挙に側面から接近するのだ。
だが、当時からこの想定には一式中戦車単体では無理があるとも認識されていた。敵戦車が単体で大人しく我が戦車の迂回を見過ごすはずがなく、周囲には僚車や敵歩兵部隊、対戦車砲部隊などが同行している筈だからだ。
戦場で早々に都合が良い状況が発生しないのであれば、強引にでも状況を作り上げるしかなかった。
一式中戦車の制式化に前後して、日本軍では他にもいくつかの新装備が制式化されていた。車体を一式中戦車から流用しつつ大口径の野砲を固定戦闘室に備えた一式砲戦車や、歩兵1個分隊を乗車させる一式装軌、半装軌装甲兵車だった。
砲戦車が大口径野砲で遠距離から敵戦車や対戦車砲を制圧している間に、装甲兵車に乗車して戦車に追随する機動歩兵の援護下でようやく一式中戦車が敵戦車との戦闘に専念出来るというのだ。
結果的に見れば、このような状況が戦場で再現されることはなかった。蓋を開けてみれば、戦車の撃破数で言えば戦車よりも地形に身を潜める対戦車砲の方がどの勢力でも多かったし、北アフリカ戦線で一式中戦車と遭遇したドイツ軍戦車は想定されていた幻のソ連戦車程ではなかったからだ。
勿論一式装備と呼ばれたこの時期に制式化された装甲車両が無駄だった訳ではなかった。一式中戦車や砲戦車の火力と装甲は砂漠やイタリア半島でも有効に機能したし、大戦期間を通じて装甲兵車は歩兵部隊に柔軟な機動性を与えていたからだ。
第二次欧州大戦が勃発したことで日本帝国でも軍事予算が一挙に増大していたのだが、大戦前にこのように高価な戦車に加えて装甲兵車を備えた一大機甲部隊を創設するのは容易ではなかった。
必要なのは単なる機動戦用戦車ではなかった。九七式中戦車が登場した時点で、既に歩兵を乗車させた自動貨車に随伴可能な九五式軽戦車も存在していたが、同車を機動戦の主力とすることは出来なかった。
機動力はあっても軽戦車程度の部隊が第二次欧州大戦の激戦に投入されたとしても、敵火力に射竦められて遥か彼方を移動中に殲滅されてしまっただろう。
火力戦の最中に部隊を機動させるには戦車だけではなく歩兵部隊も装甲を有していなければ難しかった。装甲兵車を含む一式装備を与えられた部隊は開戦時点でも限られた精鋭部隊だけだったが、彼らは最前線で機動可能な装甲を与えられていたのだ。
かつての歩兵科将校としての立場など忘れたと言わんばかりに、辻井参謀はこのような機甲部隊の整備に必要な莫大な予算獲得に関する折衝などで辣腕を振るっていた。時には歩兵部隊の定数を削減してでも機械化をすすめるというかつての宇垣軍縮のような主張もしていたらしい。
そのような経緯から当時の若手歩兵科将校から蛇蝎のごとく嫌われた辻井参謀だったが、逆に機甲科の中でも手放しで好かれていたわけではなかった。
歩兵戦車寄りだった九七式中戦車開発時の経緯を知るものもいたし、九五式軽戦車など従来の機動用戦車も偵察用の2線級機材と扱われるようになっていたからだ。
一式装備以後の機動歩兵師団や戦車師団は、装甲兵車に乗り込む機動歩兵と中戦車を主力とし、軽戦車や自動貨車乗り込みの兵は捜索連隊の偵察部隊に配備されるようになっていた。
それどころか、重車両の限られた開発力が発展著しい中戦車に集中した結果、軽戦車の開発はおざなりになっていた。第二次欧州大戦中には二式及び四三式軽戦車が戦線に投入されていたが、後者は言ってみれば二式軽戦車の派生型に過ぎなかったのだ。
師団捜索連隊などでは九五式軽戦車もまだ部隊配備が続いていたが、同車の増産には懸念の声もあった。相対的な性能の低下も無視できなかったが、それ以上に鋲止めの車体など構造の旧式化が進んでいた為に溶接箱組など中戦車などの急速に進んだ生産体制に対応できなかったのだ。
二式軽戦車は、こうした声に答えるものだった。当時開発中だった三式中戦車などと一部の艤装品や製造工程の共通化が図られていたものの、その性能は九五式軽戦車から大きな変化はなかった。
この時期の軽戦車は、戦闘力などよりも完全装軌式の優れた走破性の方に注目されていた。半ば対空戦車や砲兵観測車など派生型の為に、原型である軽戦車の生産も続けられているという奇妙な事態になっていたのだ。
滑空機に搭載するために徹底した軽量化がなされた四三式軽戦車も、二式軽戦車の特殊な派生型だったのだが、完全に戦闘を目的とした同車のような派生型の方が珍しいほどだった。
それどころか、従来の騎兵に相当する威力偵察部隊である捜索連隊の装甲車中隊では、路上での走行性能に優れる装輪車両である新世代の装甲車に加えて、戦車ではなく装甲兵車を装備するようになっていた。
歩兵を満載した原型ではなく、大口径の機関砲を装備した一式装甲兵車三型などの少人数の偵察兵とそれを援護する火力の組み合わせの方が純粋な偵察部隊には向いていたのだ。
これらの全ての事業に辻井参謀が関わっていたわけではないだろうが、新設の機甲科内で辻井参謀が良くも悪くも目立っていたのは事実だった。
辻井参謀の評価は極端だった。同格の将校には敵が多かったが、下士官兵からの受けは悪くなかった。他の高級参謀と違って兵士達の中に分け隔てなく入り込んでいく人懐っこさを持ち合わせているからだろう。
軽率という誹りも免れないほどに、辻井参謀はしばしば最前線の視察に赴いていた。しかも、佐官の参謀になって後も視察先部隊の将校団に傅かれるのではなく、前線の分隊にまで同行して文字通りの同じ釜の飯を喰うことも少なくなかったのだ。
下士官兵からは兵士達のことをよく知る参謀と崇められていたが、他の参謀など将校の中にはただの人気取りと冷ややかな視線を向けるものも少なくなかった。
辻井参謀には早期に退役して地元で議員への道を進むのではないかという噂もあったが、その噂もあっていずれは除隊する兵達を将来の票田と見ているのではないかとうがった見方をしているのだろう。
尤も、新設の機甲科は日本各地から志願してきた下士官や古兵ばかりだったから、辻井参謀がどこから出馬するにしても、その地方に大半が籍がない下士官兵達が票田になるかは分からなかった。
奇妙な事に、下士官兵程ではないにしても辻井参謀に好感を抱く将官も少なくなかった。つまり軍隊の中でも上と下からの評価が高いということになるのだが、将官の場合は外国軍のものもいた。
気難しいモントゴメリー将軍も、士官連中には厳しいが、下士官兵の間に入り込んでいくという共通点があるせいか辻井参謀のことは気に入っていたようだった。
第二次欧州大戦後は、良くも悪くも目立つ人物である辻井参謀を取り巻くそのような状況も、些か変化していた。
一方的に辻井参謀を敵視していた歩兵科士官達も責任ある立場になっていった事で表立って軍刀を振り回すようなことは出来なくなっていたし、戦時中に活躍した機械化装備の整備から参謀を評価する向きが強くなっていたからだろう。
だが、今のフィリピン方面軍司令部の雰囲気は、かつてのように辻井参謀への反感が強まっているように思えていた。辻井参謀は方面軍司令官に対して、リンガエン湾の兵站地に侵攻してきた敵戦車隊の対処を進言していたのだが、司令部内部で方針の齟齬が生じているようだ。
方面軍主力は最前線で米軍主力と対峙しているから即座に反転させるのは難しいが、周辺に展開する方面軍予備を集成すればそれなりな規模の部隊になるはずだった。
この即席の集成部隊を方面軍司令部の直接指揮で敵戦車隊にぶつけると言うのが辻井参謀の案だったが、他の参謀の多くはこれに反対していた。
小野田大佐は、自分が目撃した兵站地の様子からむしろ参謀達の判断の鈍さに首を傾げていたが、顔見知りの方面軍司令部参謀の一人が耳打ちするように言った。
「大佐殿は状況を正しく理解しておられないようです。米軍に動きが見られるのはリンガエン湾だけではありません。北方の……カガヤン・バレー地方でも米軍部隊の大規模な動きが確認されておるのです。
もしかすると、南方のリンガエン湾に展開している部隊は囮で、北方のカガヤン・バレー地方に展開する米軍の動きを欺瞞するためのものかもしれません。
カガヤンバレー地方に展開していた米軍部隊の規模は正確には分かっていません。アパリ上陸時は本格的な戦闘にならずに米軍は島内深部に撤退していますから、大部分の兵力はそのまま温存されている筈です。
もし、この温存された米軍に前線の北方から襲いかかられた場合、前線に展開する第2軍は北と東の2方面に備えなければならなくなりますし、場合によっては前線ではなく直接バギオの航空基地奪還を狙ってこられる可能性もあります。
ただでさえ上陸部隊の大半を最前線に送り出した直後ですから、方面軍司令部としては予備兵力は大規模に動かしたくないのです」
立て板に水を流すようにその参謀は小野田大佐に説明したが、現実に兵站地に進出した敵部隊への手当は必要な筈だった。
これまで安全な後方と思われていたリンガエン湾のコンテナ用の積み下ろし、集積地として運用されている兵站地に展開している部隊は、盗難防止や警戒の為に統合憲兵隊から派遣された警備目的の部隊だけだった。
機械化装備も野戦憲兵隊が若干の装甲車を有している程度だった筈だ。野戦憲兵隊が使用する装輪式の装甲車は軽戦車の砲塔を積み込んだ重装備の警備車両だったが、正面から戦車と渡り合うのは心もとないし、部隊規模に対して装備数も少ない筈だった。
だが、司令部内の会話をしばらく聞いている間に、他の参謀達が口に出さなかった辻井参謀の密かな思惑を小野田大佐も感じ取っていた。
司令部予備と言っても、リンガエン湾周辺の部隊はルソン島に増援として最近になって送り込まれてきたものばかりで、統一された指揮系統は存在していなかった。国籍すら異なるそんな雑多な部隊を効率的に動かすには強力な統率力を持つ指揮官が必要だったのだ。
表向きの指揮官には集成された部隊の先任指揮官を充てるしかないが、辻井参謀は方面軍司令部参謀として集成部隊を指導をする形で実質的な指揮を取ろうとしているようだった。
周囲の参謀が反対するのも当然だった。露口大将が消極的なのも参謀の作戦指導を断念させるためではないか。
小野田大佐はふとローマ進攻時に辻井参謀が挺身集団に同行して落下傘降下までしていた事を思い出していた。
その時も辻井参謀は四三式軽戦車に自ら乗り込んで敵戦車に立ち向かっていったという武勇談なのか判断に迷う話を残していたが、それに比べれば地上を進出するしかない今回はまだましなのかもしれないとすら考え始めていた。
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