1951マニラ平原機動戦12
米軍による突然の反攻作戦にフィリピン方面軍司令部は混乱していた。司令部が使用している天幕に案内された小野田大佐はそのことを実感していた。
上陸開始からこれまでフィリピン方面軍は概ね順調に進軍していた。段階的に増強されていたから、隷下2個軍の戦力も充実していた。
上陸第一波として投入された第1軍などは、ほぼ同時に複数箇所で作戦を開始していたものだから隷下部隊の戦力も分散していたのだが、戦闘序列が整理された今では前線に戦力を集中させていた。
上陸戦闘後の相次ぐ強引な戦闘投入で消耗していた第1軍隷下の第2師団も、ルソン島北端のアパリ防衛を第5師団と交代していた間に進められた再編成で重装備などの補充を受けていた。
その第2師団も本土から送り込まれた独立守備隊にアパリ防衛を引き継ぐとルソン島中央平原の戦線に復帰していた。今では方面軍に配属された一線級師団の大半が最前線に張り付けられて、野戦重砲兵連隊や砲兵情報連隊の配属を受けた砲兵団の援護のもと着実に東進していたのだ。
ところが、米軍の動きは重装備の機動歩兵師団を前面に展開していた日本軍の前線に人知れずに生じていたすきをつくものだった。翼面が開放されていた南部の山脈沿いに進軍することで前線をすり抜けていたのだ。
事前に密かに用意されていたルソン島内の兵用地誌に関する研究などから、フィリピン方面軍は常識的にみて山脈地帯は大軍の通過は不可能として軽視していたのだが、米軍は軽戦車を中核とする機動部隊で強引に通していたのだ。
状況は大きく異なるが、米軍の進撃は第二次欧州大戦序盤に行われたドイツ軍の対仏侵攻時を思わせる手際の良さだった。あの頃は日本軍は正式参戦前で観戦武官の扱いで英本土で情報を収集している程度だったが、当時はドイツ軍機械化部隊の鮮やかな勝利に目を奪われたものは軍内外で多かった。
主力部隊をベルギー国境付近に展開させていた当時のフランス本国軍及び英国派遣軍は、海岸線に向けて突進するドイツ軍によって首都パリと切り離されてなすすべもなく英本土に撤退するしかなく、その際に喪われた装備、人員は決して少なくなかったのだ。
だが、当初は電撃戦と呼ばれた鮮やかなドイツ軍の機動戦に翻弄された英国軍や、後に正式に参戦した日本軍は、部外のものが考えているほど機動戦には重きをおいていなかった。
第一次欧州大戦と同様にアジア圏とつながる分厚い後方連絡線を背景とした徹底した火力戦こそが国際連盟軍の取るべき戦術であると判断していたからだ。それにその時点でも古くから工業化が進んでいた英国本土の生産量はドイツとその占領地域を上回っていたのだ。
実際、国際連盟軍にとって本格的な反抗の幕開けとなった北アフリカ戦線中盤の展開より後は、限定的に前線で行われる少規模部隊による反撃を除いてドイツ軍の機動戦が成功することはなかった。
仮に機械化部隊が大胆な機動を試みたとしても、海上を制した国際連盟軍は圧倒的な火力でドイツ軍機甲部隊を削り取っていったのだ。
大戦終結間際に発生したフランス共産党のテロに巻き込まれて死亡した英国人の著名な軍事評論家などは、膨大な物資を消費する一方で決定的な勝利が得られない古臭い火力戦を批判していたが、国際連盟軍の高級軍人達が取り合うことはなかった。
アジア植民地などから徴募された部隊で増員されていたとはいえ、島国である英国と日本を主力とする国際連盟軍は、貴重な兵士の血を流すよりも砲弾を浪費する方を選んでいたからだ。
火力戦が再開された北アフリカ戦線では、小野田大佐も連絡将校として英軍司令部に派遣されていた。気難しがり屋のモントゴメリー将軍も、本国の政治家などからの拙速な反抗指示を握りつぶしながら、膨大な砲弾の蓄積を持って反抗を開始していたのだ。
反抗開始直前に行われていたドイツ軍の機動戦も、徹底した火力の投入によって機動と後続の進出を阻止することでその撃退に成功していたと言って良かっただろう。
そういえば、あの時の英国軍司令部も参謀たちは随分とうろたえていたような気がしていた。小野田大佐は十年近く前のことを思い出しながらモントゴメリー将軍と同じ立場に立たされた方面軍司令官の姿を探していた。
上座の露口大将は流石に参謀達の混乱に巻き込まれずに泰然としていた。第二次欧州大戦では第7師団長や軍司令官を歴任していたから、満州共和国軍などと混成となる方面軍司令官としては最適の人物だった。
だが、しばらく露口大将の様子を伺っていた小野田大佐はふと不安にかられていた。大将の動きは思ったよりも鈍かった。まだそれほどの年とは思えないが、長く続いた第二次欧州大戦の激戦が露口大将から積極性を奪っていた可能性もあった。
むしろ傍らの参謀が過剰なほどの身振り手振りを見せているものだから、まるで露口大将が置物のように見えていたのだ。
―――辻井参謀、か……
小野田大佐は、露口大将の方を向いていた参謀がわずかに振り返った時に見せた顔を覚えていた。
辻井参謀は軍内部では有名な人間だった。砲兵科将校である小野田大佐は特に個人的な隔意などは覚えていないが、一時期は血気盛んな若手の歩兵科将校などは参謀を見つけ次第斬ると公言するものも少なくなかったらしい。
元々辻井参謀も主兵である歩兵科の将校だった。幼年学校出身の生え抜き将校だったのだ。それが一部の歩兵科将校から蛇蝎の如く嫌悪されるようになったのは、参謀が機甲科に転科してからの出来事が原因だった。
馬を捨てて実質的に軽戦車となる装甲車を運用していた騎兵科と、以前から戦車を運用していた歩兵科の一部部隊を統合して誕生した機甲科は、表向き新時代の機械化部隊を構成する精鋭集団と宣伝されていた。
だが、陸軍内部においては機甲科将校団の主導権争いが激しくなっていた。これは膨大な予算が動く新設された機械化部隊の方向性を争うものと言っても良かった。つまり歩兵を支援する重装甲だが鈍足の歩兵戦車か、機動戦を行う軽戦車のどちらを導入するかという問題でもあったのだ。
機甲科設立当初は同じ九五式でも軽、重戦車の並行採用など玉虫色だった戦車開発は、安価な歩兵戦車である九七式中戦車の採用時には、現役歩兵科将校の支援を受けた旧歩兵科出身者が主導権を握っているように見えていた。
実はこの頃の辻井参謀は、2案が並列していた九七式中戦車の開発方針を歩兵戦車側に主導する立場にあったらしい。というよりも、それまで戦車部隊の勤務経験がほとんど無かった辻井参謀の機甲科転科は、歩兵科将校による主導権争いのために送り込まれていたのではないかという声もあったのだ。
ところが、九七式中戦車の採用直後に日本軍の戦車開発を取り巻く状況は一変していた。従来の歩兵戦車だけではなく、装甲、火力よりも機動力を重視した軽戦車もまた能力不足とされてしまっていたのだ。
日本軍の戦車開発方針を一変させた切っ掛けは、シベリアーロシア帝国経由で伝わってきたソ連軍の次期主力戦車に関する情報だった。その数値は恐るべきものだった。
ソ連軍が開発中の戦車は、3インチ級野砲弾道の高初速砲とその主砲弾を跳ね返す装甲を有する一方で、機動戦に対応した大出力エンジンを搭載している、はずだった。
それから十年以上がたった今では、その数値は明らかに過剰なものだと分かっていた。仮にその性能全てを発揮した戦車が存在するとすれば、四五式戦車やブラックプリンス戦車など日英の現行主力戦車にも匹敵するものになってしまうはずだが、ソ連に限らず当時の技術で実現可能とは思えなかった。
勿論、後に出現したソ連軍戦車に該当するものはなかった。第二次欧州大戦中にソ連軍主力として盛んに生産されていたT-34戦車が一部それらしく見えるが、情報によるものは後に明らかになったTー34の性能を遥かに上回っていた。
実際には、日本軍内部に激震を走らせたその情報は、当時ソ連国内で設計開発が進められていたTー34やKV重戦車に加えて各種軽戦車など複数の戦車に関するものが入り乱れてしまったものだったのだろう。
つまり重戦車と軽戦車の情報が入り乱れてしまったことで、重装甲と大火力に機動性を併せ持った無敵の万能戦車という幻の存在が出来上がってしまっていたのだ。
後から真相を知ってしまえば笑い話で済むが、当時の日本軍やシベリアーロシア帝国軍は一種の恐慌状態に陥っていた。後のドイツ軍重戦車のように生産数が少なく戦場でめったに遭遇しないのならばともかく、その幻の戦車は次期主力としていずれどこにでも顔を表すと思われていたからだ。
数少ない超重戦車や、軍団直轄の大口径カノン砲による直接照準射撃で対抗するには想定上も難しかった。15センチ砲の直撃に耐えられる戦車は今でも存在しないだろうが、広大な戦場にあまねくそれらの運用の難しい特殊な兵器を配置する事は出来ないからだ。
結局、相手の中戦車に対抗するには、各師団に配属される対戦車隊や中戦車自体を抜本的に強化するしかなかった。
この一大方針転換によりそれまで主力だった40から50ミリ級の対戦車砲は日英露などでは火力不足と認識されるようになっていた。英国の6ポンド砲や17ポンド砲といった第二次欧州大戦中に主力となった対戦車砲の開発が開始されたのはこの時期だった。
日本軍の一式47ミリ速射砲もより大威力の57ミリ砲に取って代わられたし、より大口径で、もはや人力では運用出来ない化け物のような大口径対戦車砲の新規開発も進められていた。
勿論中戦車も例外では無かった。理想で言えばソ連軍次期主力戦車に匹敵する高性能戦車が必要だったが、予想される敵戦車実用化時期に間に合わせる為には理想ばかりを追い求めて時期を失するのは避けなければならなかった。
一夜にして旧式化した九七式中戦車の後継として開発されたのが北アフリカ戦線で日本軍主力となった一式中戦車だったが、その開発経緯は複雑なものだった。元々同車は高価であることを理由に九七式中戦車開発時に不採用となったチハ車の焼き直しだったからだ。
九五式軽戦車、重戦車の採用後に、日本初の国産量産戦車となった八九式中戦車の正当な後継として採用されたのが九七式中戦車だったが、同車開発時に最終的に採用されたのは大阪砲兵工廠製のチニ車だったが、発展余裕を持たされたより高性能な車輌となるチハ車も競合開発されていた。
一式中戦車はこの不採用となったチハ車を原型としていたのだが、原型となるチハ車が持ち合わせていた発展余裕をすべて食い尽くす勢いで性能が盛り込まれていった結果、原型車両とは似ても似つかないものになっていった。
原型車輌が搭載していたのは、基本的に八九式中戦車搭載砲と同規格の短砲身57ミリ砲だったが、密かにチハ車開発担当者は榴弾威力は低下するものの貫通力の高い長砲身47ミリ砲に換装する余裕を砲塔に持たせていた。速射砲と同規格の高初速砲であれば、対戦車能力は格段に上昇するからだ。
短砲身大口径砲と長砲身小口径砲では、うまく設計を行えば車体に掛かる反動を同程度とすることが出来るから、砲塔の寸法を大きく変えずに砲の換装が可能だったのだ。
ところが、最終的に一式中戦車に搭載された主砲は更に一回り大きい長砲身57ミリ砲だった。日本軍の対戦車砲が47ミリ速射砲から一挙に57ミリ級に強化されていたから、それと砲弾などの互換性を持たされた戦車砲も続いていたのだ。
装甲の強化は限定的だったが、それでも車体重量の増加は大きく懸架装置の見直しと共に機関出力も大きく増強されていた。しかも戦車用のエンジンを新規開発する余裕もなかったことだから、航空機用の水冷エンジンを転用してきていたのだ。
一式中戦車は従来の戦車よりも対戦車能力が格段に強化された事で、もはや九七式中戦車にような歩兵戦車とはかけ離れた存在へと進化していったのだが、意外なことに元歩兵将校であった辻井参謀は、この機動戦向け戦車の構想を阻害するどころか、むしろ主導する立場にあったのだ。
だが、それは古巣の歩兵科将校から見れば裏切り行為にほかならなかった。
九五式軽戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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