1951マニラ平原機動戦10
―――よくこんな所まで辿り着けたものだ……
リンガエン湾に設けられた日本軍の物資集積所らしい場所に降り立ったマレル少尉は、だが直後にがくりと膝を折り曲げてしまっていた。咄嗟に手を伸ばさなければそのまま倒れ込んでいたかもしれなかった。
士官としての矜持で何とかマレル少尉は体を起こしたのだが、周りの下士官兵の中には体を折って情けない表情で胃袋の中身を吐いているものも少なくなかった。先程から漂っていた潮の匂いとは明らかに違う臭いがしていた。
饐えた臭いでマレル少尉も思わず吐き気を覚えたが、周囲を見渡した少尉は慌てて倒れ込んでいる兵士を引き摺っていた。M4軽戦車の角張った砲塔から苦々しい顔をしたマーロー大尉が弱りきった様子の歩兵達を見下ろしていたからだ。
ここまで何度か遭遇した警戒部隊らしきものに発砲はしたものの、マレル少尉達を乗せたM4軽戦車隊はサンメリーダ村の集積所を出発してから日本軍と大規模な戦闘を経験すること無くリンガエン湾奥までたどり着いていた。
日本軍の上陸以後に両軍が包囲を図るべく両翼を展開していた結果、リンガエン湾からマニラまでの間を分断する幅50キロ近くにも及ぶ前線が誕生していた。
単純にサンメリーダ村から真っ直ぐにリンガエン湾奥を目指していれば、日本軍の有力な前線部隊と接触してそれ以上は進めなかったはずだった。マレル少尉が奇跡と思っても不思議はなかったのだ。
だが、米日両軍が対峙する長大な戦線は、耕作地が広がる中央平原に広がるものだった。第1騎兵師団は、このなだらかな中央平原を避けてサンバレス山脈近くを突っ走る事で前線を回避して北進していたのだ。
軽戦車を中核とした第1騎兵師団の高い機動力を活かす為に選択されたのであろうこの進行ルート選択は、今のところ功を奏していた。
大軍を上陸させた日本軍も前線を構築するので手一杯なのか、翼端を越えた所に位置するサンバレス山脈方面には山麓付近に僅かな警戒部隊を配置する程度であったからだ。
後方のマニラ市街地に司令部を置いている極東米軍が最前線の現状を正確に把握しているかどうかは分からないが、時折M4軽戦車の車内から聞こえてくる無線士の陽気な声からすると、おそらく第1騎兵師団の指揮官達はこの快進撃を成功と判断しているのだろう。
上陸直後を除けば、日本軍は火力戦を前提とした遅々とした侵攻を続けていたから、それに比べれば第1騎兵師団の進攻速度は迅速なものに見えるのだろう。
尤もマレル少尉にはそこまで楽観的な気分にはなれなかった。この快進撃は、サンバレス山脈伝いの進攻路が大軍の通過に適していないと日本軍が判断していたからというだけではないか。
文字通り予想外の方向からマレル少尉達は出現したわけだが、M4軽戦車の背に揺られてきたほんの僅かな間の経験からすると、日本軍の判断が誤っているとは思えなかった。
サンバレス山脈を縦断する道は殆ど獣道のような悪路だった。戦車のような装軌車両でなければ迅速に突破することは難しいのではないか。
それに混乱から立ち直った日本軍が大規模な反撃を開始する可能性も無視出来なかった。戦線から突出したマレル少尉達挺身部隊にも直接の危険があるだろうが、それよりも後方の連絡線を遮断される可能性の方が高かった。
マレル少尉達が辿ってきた様に山脈を縦走するよりも、鞍部を通過する街道沿いに展開して第1騎兵師団が利用する連絡線を遮断する方が遥かに容易だからだ。
奇襲によって突出部を実際に作り出すよりも、その後に開口部を維持する方が遥かに困難な筈だが、第1騎兵師団や極東米軍司令部はその事を充分に認識しているのだろうか。マレル少尉は疲労した脳裏の片隅でそう考えていた。
―――そもそも、このルートでは大規模な増援を送り込むことなど不可能だ……
マレル少尉は気合で起き上がりながらそう判断していた。彼らを乗せたM4軽戦車の乗り心地は最悪だったからだ。
砲塔に頑丈に溶接された手すりは、装具を含めれば最大で百キロ程にもなるだろう兵士達の荷重を受け止めてもびくともしなかった。単にそれだけの重量がかかるだけではない。悪路走行で上下左右に飛び跳ねる兵士達の動荷重を受け止める必要があったのだ。
だが、上下左右に激しく振動するM4軽戦車にしがみついたマレル少尉達は行軍ですべての体力を使い果たしてしまっていた。
M4軽戦車のサスペンションはM3中戦車のものと同型だというが、M4の方が軽量である為か、あるいはサスペンションの特性が高機動の戦車に合っていないのか、地形追随性能はあまり高くなかった。
これまでの記憶にあるM3中戦車の動作時の姿は地面に吸い付くようにして滑らかに起伏を乗り越えていたはずだが、速度を出しているせいもあるのだろうが、M4軽戦車はここまで即席のデサント兵達をしがみつかせているのを忘れたように飛び跳ねるようにして走破して来たのだ。
騎兵師団が馬の代わりに軽戦車に乗るのも理解できなくは無かった。確かに山岳地帯における軽戦車の動きは馬と変わらなかったのだ。
結果的にM4軽戦車は車体の軽さと、その車重に比べれば高いエンジン出力によって強引にリンガエン湾まで走破していたのだが、同じような事を軽戦車以外で行えるかどうかは分からなかった。それに強引な突破の皺寄せはデサント兵となったマレル少尉達に向かっていた。
あの振動では兵士達の膂力だけで戦車にしがみつけていたものはいなかっただろう。手摺に縛り付けた安全帯がなければ、M4軽戦車の背から叩き落されて、リンガエン湾まで点々と路上に転がる黒人兵の姿が見られたのではないか。
そこまでは行かなくとも、路上に胃液をぶちまけている情けない姿の兵士達がとても短時間で戦力になるとは思えなかった。M4軽戦車の車上では、振動に加えて騒音と高温までが兵士達を容赦なく襲っていたからだ。
旧大陸奥部で5年前にソ独戦が繰り広げられていた戦場はおそらく寒々としたところなのだろう。第1騎兵師団のタンクデサント戦術はソ連軍の戦訓を反映したものだというが、極寒のソ連軍とルソン島の米軍では環境が違いすぎるのではないか。
冬季ならば戦車の車上は暖を求めた兵達で取り合いになるかもしれないが、車体に見合わない大出力エンジンを詰め込んだM4軽戦車の機関室からは容赦なく熱風が兵士達の肌を突き刺していた。
山岳部には鞍部を吹き抜ける涼しい風も吹いていた筈だが、間道を突き進んでいたせいかそれともエンジンの熱量に負けたのか、M4軽戦車の車上は灼熱地獄のままだった。
この環境は兵士達の体力を短時間のうちに奪っていた。最初はサンメリーダ村近くで築城工事に駆り出されていた兵士達も汗だくだったのだが、次第に汗も出なくなっていた。高温の風になぶられるものだから、あっという間に汗が乾くと体からは水分が失われていたのだ。
マレル少尉達は、まるで黒人兵の干物の様な状況でリンガエン湾にたどり着いていた。敵地で孤立しているも同然の状況にも関わらず、少尉はもう一度帰路でM4軽戦車の背に乗ってロデオを繰り返すのにうんざりとしていた。
マレル少尉は次々と乗り込んでいたM4軽戦車から降りる、というよりも降ろされている部下達の様子を確認していた。思ったとおり、失われたのは体力だけではなかった。
見たところ乗車時から大きく欠員している様子はないから脱落者は少ない筈だが、それは咄嗟の降車時に遅れを取るのを承知で安全帯による自身の固縛を徹底させていたからだ。
身体そのものはそれで守れたものの、失われた装具は多そうだった。銃も持たずに呆然としている兵も少なくなかったのだ。
こんな所で再編成を行う時間はなかった。おそらく日本軍からすれば、マレル少尉達を乗せた軽戦車隊は唐突にリンガエン湾に現れた様に見えている筈だった。
旧大陸のフランス戦のときのように、電撃戦と報道されていた機械化部隊による急進撃が成功したわけだが、いつも戦争ばかりをしている日本軍が長い間混乱しているとは思えない。
前線の日本軍主力に配備されているのであろう、あのロザリオで遭遇した重戦車を含むまともな戦力が引き返してくれば軽戦車など一蹴されてしまうのではないか。
行動を急ぐ必要があった。軽戦車隊を率いているマーロー大尉もそのことは理解していた。同時に戦闘地域でマレル少尉達が軽戦車に乗ったままでは戦力にならないことも理解していた。だから日本軍の陣地前で彼らを降ろして純粋な歩兵部隊として戦車に追随させようとしていたのだ。
その間も草臥れている様子の歩兵達を尻目にして僅かな起伏に隠れたM4軽戦車中隊は行軍で乱れていた陣形を再構築していた。大威力の榴弾を放つM4A2を中心に配置しつつ、強敵が現れた時はいつでも高初速砲を備えたM4A1で敵部隊側面に進出できるように流動的な陣形を構築していたのだ。
突撃に備えた軽戦車隊が狙うのは敵司令部だった。日本軍がリンガエン湾奥に物資集積所を構築しつつある事を察知したマニラの極東米軍から状況を知らされた増援部隊の第1騎兵師団司令部は、物資集積所に隣接しているのであろう日本軍の上級司令部を標的に選んでいたのだ。
ここから先は時間との勝負だった。第1騎兵師団の司令部も自分達の機動による衝撃が長続きするとは考えていないだろう。師団全力で橋頭堡を確保しつつ日本軍の中枢を叩いた後は離脱するつもりのはずだ。
―――要はここで大暴れすればいいということか。
憔悴した顔でそう考えていたマレル少尉の目前に無言で鉄塊が差し出されていた。慌てて顔を上げると、マーロー大尉が不機嫌そうな表情でサブマシンガンを差し出していた。
反射的にマレル少尉はサブマシンガンを受け取っていたのだが、少尉が思っていたよりも銃は重かった。周りの軽戦車からも次々と同じ銃が降ろされて立っている兵士達に渡されていた。
車内から更に弾倉を受け取ったマーロー大尉は、それも無造作にマレル少尉に突き出しながら言った。
「これも預けておくぞ。銃をなくした奴らに渡しておけ。予備弾倉はあるが、トミーガンの発射速度は高いから気をつけろ。どうせ火力は我々戦車隊が担当するんだ。セレクターは無駄弾を撃たないように単発にしておけ。兎に角貴様らは戦車の後に続いて、小癪な日本人を近づけさせなければ良いんだ」
そうさっさと言うと、マーロー大尉は自車の上に乗ると、今度は腰に手を当ててポーズを取って兵士達全員に向かって言った。
「バッファローソルジャーの兵士諸君、狩りの時間だ。良い日本人は死んだ日本人だけだ。見つけ次第殺せ。我が騎兵隊についてこい」
マーロー大尉は、景気のいいことを言ったつもりだろうが、そのセリフは過去にインディアンに向かって言われた言葉だった。それを有色人種連隊の前で言う大尉は無神経な気がしていた。
マレル少尉は、恐る恐る近くにいた唯一のインディアンであるドラゴ一等兵の顔をのぞき見ていたが、伍長勤務を務める一等兵は少尉の視線に気がつくとつまらなそうな顔で首をすくめただけだった。
「別に俺は何も思いませんよ。一応はあの大尉は黒人兵にも気を使うだけの良識はあるわけだ。でも、あの大尉殿も長生きしないと思いますよ」
仲の良かった戦友が戦死してから元々陰気だったドラゴ一等兵は神がかるような雰囲気を醸し出すようにもなっていた。その一等兵の予言のような言葉に、マレル少尉は急に手にしたサブマシンガンの重量が更に増した気がしていた。
M3中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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M4軽戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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