1951マニラ平原機動戦9
噴進弾を搭載する戦時標準規格船1型を原型とする特設砲艦の構造が簡素化された最大の理由は、改造工事の費用を圧縮するためだった。
統合参謀部の権限を持ってしても上陸戦にしか使い道のない特殊な支援艦をそう簡単には用意できないからだったが、この簡素化による運用上の制限は大きかった。
特設砲艦として徴用されてから商船固有の乗員に追加して乗り込む乗員も、最低限の数の兵科将兵だけだった。本来は特設艦船令によって追加される兵装ごとに追加される定員数が決められているのだが、コンテナ搭載噴進弾には前例がないから定数を定めることが出来なかったのだ。
特例として指揮官も本来の船長がそのまま招集されていた程だったから、運航に必要なものを除いた余剰乗員は存在していなかった。これでは兵科将兵も普段は噴進弾の管理作業くらいで手一杯だろうから、戦闘中の再装填など到底不可能だった。
機構的にも噴進弾を再装填するには実質的にはコンテナごと交換するしかないから、発射が可能なのは上陸戦闘において一回限りと考えるべきだった。
しかも噴進弾を積み込んだ特設砲艦には最低限の照準を定める能力すらなかった。方位盤も射撃盤もないから噴進弾が飛んでいく船首方向を敵に向ける以外の事は出来ないだろう。
それ以前に測距儀すらないのだから狙いを付けるという動作自体が不可能だった。加速の鈍い噴進弾は山なりの弾道となるから、正確な測距を行わなければ海岸の敵陣地という狙った一点に弾頭を落とせないのだ。
検討の結果、特設砲艦の運用は異例なものとなっていた。射撃指揮装置を備えた正規の戦闘艦を随伴させて、その指揮のもとで射撃を行うのだ。
リンガエン湾上陸戦においては、正規に配属された戦隊から引き抜かれた重巡洋艦八雲が特設砲艦群の指揮を委ねられていた。開戦前まで実験艦として運用されていた八雲には、電波警戒機や電気式計算機を備えた最新鋭の射撃指揮装置が据え付けられていたからだ。
艦上に複数備えられていた射撃指揮装置を用いて、八雲は自艦と狙うべき海岸線、そして自艦と特設砲艦群の相対関係を同時に観測していた。
理屈の上では弾道を変更する余地の無い特設砲艦が射撃対象を狙える位置は海上のある一点しか存在しないのだが、実際には狙うのは一点ではなく海岸に沿って構築されているはずの敵陣地を結んだ一線だった。
実運用では海岸線に対して特設砲艦群は船首を向けているから、距離を観測していた八雲からの指示で一斉に噴進弾を発射すれば、海岸線に沿った広い範囲に着弾する、筈だった。
計画当初から噴進弾の射撃精度には大きな期待はされていなかった。ただでさえ観測対象を見つけ難い対地攻撃となる艦砲射撃は射撃指揮が難しいし、八雲は対地に加えて特設砲艦に対しても同時に観測を行うから誤差が累積してしまうからだ。
さらに言えば、商船乗員には難しい編隊機動を行っている最中の特設砲艦群が正確に艦首を海岸線に向けられるかどうかも疑問の余地があった。
正規の艦艇では到底ありえない特設砲艦を束ねた特設戦隊の特殊な運用に関しては、統合参謀部内ですら計画段階から主に海軍出身士官からの批判的な意見が多かった。
開戦を受けて実際にリンガエン湾上陸作戦支援の為に日本全国から特設砲艦が徴用された際も、かき集められた貨物船に山城だの扶桑だのと開戦時にトラック諸島で沈められた旧式戦艦と同名の船があったせいか、幽霊戦隊と揶揄する声もあったのだ。
噴進弾搭載コンテナ船計画に反対する彼らが計画の阻止にまで至らなかったのは、徴用された特設砲艦の他に戦隊に配属されるのが八雲だけだったからなのだろう。
元々ドイツ海軍の重巡洋艦プリンツ・オイゲンとして就役していた八雲は、講和後に賠償艦として引き渡されていたのだが、その頃には既に日本海軍はドイツ水上艦に対する技術的な興味を失っていた。
方位盤や高射砲に至るまで三軸式安定装置の上に設置された対空火力や、高圧蒸気を使用した高効率の機関部などが戦時中は注目されていたのだが、実際にはそれらは技術的な問題を抱えたまま実戦投入された実験段階と変わりないものでしかなかった。
単なる技術資料としては価値があるものの、先端技術を裏付けなく投入した兵装は故障が頻発する実用品とはかけ離れたものでしかなかった。
旧プリンツ・オイゲンも技術調査はおざなりなものとなっていたのだが、大戦中に大型艦を相次いで就役させていた米海軍との巡洋艦保有比を問題視した帝国議会は、これを是正させる手段としてプリンツ・オイゲンの戦力化を海軍に要請していた。
そして、大戦終結の民主化運動によって権限が拡大していた帝国議会の意向を完全に無視できるほど日本海軍はプリンツ・オイゲンの運用に関して確たる方針を持ち合わせてはいなかった。
結局プリンツ・オイゲンは重巡洋艦八雲として連合艦隊に編入されたのだが、兵装を日本仕様に改めたとはいえ実際には同型艦のないただ一隻のみのドイツ艦を純粋な戦力と考えているものはいなかった。
八雲が艦政本部や兵部省直属の研究所からの要請で実験艦として運用されていたのも、艦隊からは正規の戦闘艦としては扱われていなかったからだろう。
今回の上陸作戦では八雲は本来の所属を離れて陸軍の援護を行う特設戦隊に配属されていたのだが、実験艦として航空艤装を流用した噴進弾発射機を備えていた同艦は、方針が二転三転して上陸作戦前に第17戦隊に合流していた。
対艦誘導弾を集中装備した第17戦隊は、有力な敵艦隊が確認された為にリンガエン湾周辺の水上戦闘が終結して制海権を確保する迄は、有力な戦力である八雲を手放さなかったのだ。
上陸作戦に前後して八雲は対水上戦闘から対地攻撃まで次々と駆り出される事になっていた。そのような慌ただしい状況で戦艦比叡などによる艦砲射撃に続いて噴進弾の射撃が行われたのだが、特設砲艦による噴進弾攻撃自体は成功したと言ってよかった。
実戦を経験した八雲による射撃統制が巧みであったのか、特設砲艦による噴進弾攻撃は上陸艇が海岸線に並んで無防備な姿を晒していたその一瞬の間に、敵地上部隊を制圧するのに成功していたからだ。
実戦において確認された戦果は、これまで軽視されていた特設砲艦に対する評価を改めるのに十分なものだったが、特設砲艦として再度1型船が噴進弾を搭載する機会は当分無さそうだった。
大規模な上陸作戦の機会が当分考えられないというのがその理由の一つだったが、特設砲艦の方でもその余裕が無くなっていた。戦隊に所属していた特設砲艦は追加されていた乗員を慌ただしく下艦させると、今度は純粋な輸送船となる特設運送艦として台湾等とルソン島間の輸送任務についていたからだ。
開戦以後の僅かな間に日本本土周辺では軍民を問わず物流のコンテナ化が急速に進んでいた。コンテナ自体や周辺機材も慌ただしく増産がかけられていた。戦地への急速輸送に投入されたことで、コンテナ化の利点がこれ以上ないほどはっきりとした形で実績として現れていたからだ。
コンテナ化政策に懐疑的な目を向けるものが多かった開戦前とは状況が一変していた。実は、小野田大佐もコンテナを用いた簡易な噴進弾搭載艦を考案していたものの、これが物流の要となるのは遠い将来の事と考えていたのだ。
これまで、コンテナ輸送導入に対する最大の障害となるのは周辺機材を揃えるための膨大な費用の捻出と、仕事を失う沖仲仕達からの反発だと考えられていたのだが、この障害は共に開戦による急速な国家総動員体制によって吹き飛ばされていたのだ。
沖仲仕達の反発は根拠のない話ではなかった。表沙汰にはなっていないが、開戦前から行われていた名古屋港の拡張工事では、早くも沖仲仕、というよりも彼らを束ねる犯罪組織の妨害があったらしい。
素早く投入された公安警察の捜査によって妨害は排除されていたのだが、従来施設の転用ではなくコンテナ区画は完全に新規の開発計画であったにも関わらず、目ざといものはコンテナ化がいずれ自分達の首を絞める事を理解していたようだ。
自分達の利害に直結する為か、流通に関しては半ば傍観者であった小野田大佐達等よりもよほど正確にやくざ者達の方が状況を把握していたのだ。
そして開戦によって彼らの懸念は現実のものとなっていた。転向した上層部の一部を除いて沖仲仕達は物流のコンテナ化が急速に進むことで失職しているという話だった。あるいは、元々日雇い形態なのだから失職という言葉自体が正しくなかったのかも知れない。
上層部から見捨てられた末端の沖仲仕たちの一部は労働争議というべきか単に暴徒化していたのだが、仕事を失った彼らに対する視線は同情を込めたものではなくどこまでも冷ややかなものだった。
宣戦布告と共に行われた核攻撃で長く日本海軍の象徴とも謳われた戦艦長門を含む戦艦群を失い、続く野蛮な戦略爆撃で古都鎌倉を焼かれたことで日本人の大半は主戦論に傾いており、それに反する者は容赦なく非国民と罵られていたのだ。
コンテナに合わせた周辺設備の整備が進んだのは惜しみない戦時予算の投入によるものだったが、沖仲仕達の反発も共感を生むこと無く社会から黙殺されていった。
海運ではなく鉄道網でも貨車への積み込み作業などの仕事がコンテナ化によって減らされる事になるが、不安定な沖仲仕達と違って鉄道省の職員なら他の業務に転属させれば済む話だった。
結局、コンテナ化対応によって不利益を被った沖仲仕達の存在は戦争中であるが故の犠牲として忘れ去られようとしていたのだ。
障害が無くなったことでコンテナ対応の大規模港の拡張は急速に進んでいた。従来の桟橋も限定的なコンテナ化対応工事を受けて、本州全域から鉄路輸送されてきたコンテナを台湾を含む国内外に輸送する出入り口となっていた。
宇品や名古屋港などから輸送されたコンテナは、一部は直接リンガエン湾に輸送されるが、少なくない数が一旦台湾に集積されていた。コンテナ化で積み下ろし自体の時間が圧倒的に短縮される為に、中間の集積地に積み降ろしても全行程の輸送費に占める割合が小さくなるのだ。
そして台湾に設けられた兵站集積地で集積され仕分けされたコンテナは、小規模港に対応した戦時標準規格船1型改造船でルソン島に持ち込まれていたのだ。
今回の視察でも直接は見られなかったが、噴進弾搭載の上陸支援艦として一旦は特設砲艦籍に編入された輸送船も、特設運送船として大量のコンテナをバシー海峡を越えてピストン輸送している筈だった。
海岸線近くの兵站地でも、多くのコンテナが簡易な倉庫兼用として集積されているのだろう。
いつの間にか小野田大佐を載せた車は方面軍司令部のあるロザリオ市街地に差し掛かっていた。運転手の下士官も生返事ばかりの大佐に次第に静かになっていたのだが、急に呟くように何事か声を上げていた。
小野田大佐も怪訝そうな顔で下士官の視線を追いかけていた。海岸線よりもロザリオ市街地は一段高くなっていたのだが、熱帯の植生が濃いのか木々に覆われて視界はさほど良くなかった。
その方向は例のコンテナが集積されている兵站地が存在しているはずだった。ところが、直接視界には入らなかったものの、その方向には薄い煙が上空に立ち上がっているのが見えていたのだ。
―――米軍が爆撃でも行ったのだろうか……
小野田大佐はそんな事を考えていたのだが、事態はもっと深刻だった。ようやくたどり着いたロザリオの方面軍司令部は混乱の渦中にあった。ルソン島の戦線全域で米軍の動きがあったのだった。
戦時標準規格船一型の設定は下記アドレスで公開中です。
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八雲型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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