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1951マニラ平原機動戦8

 第二次欧州大戦終結後は、戦勝国となった国際連盟軍参加諸国でも大規模な軍縮が開始されていた。戦時中に肥大化した組織を平時編成に縮小し、余剰兵器も予備に編入するか売却が図られていた。

 戦時中であれば万難を廃して応急修理を試みたであろう損傷艦なども、停戦後は予想される余寿命が修理費に釣り合わなければ躊躇されずに解体されていったし、新造艦でも建造が中止されるか、工期を伸ばされた艦艇なども多かった。



 日本陸軍も例外ではなく、欧州派遣部隊の多くを急速に本土に復員させる一方で、輸送費のかかる戦車や火砲などの重装備は現地に残される例もあった。欧州戦線に開設されていた兵器廠で点検修理を行った上で保管されるか、大戦で疲弊した欧州諸国軍に供与、売却されたものも多かったのだ。

 終戦から五年以上経った今でも大戦時に持ち込まれた余剰兵器は欧州にまだ多く残っており、ユトランド半島に駐留する日英混成のデンマーク軍団は、兵器廠から持ち出された修理品などで重装備の装備率がひどく高くなっていた程だ。


 デンマーク軍団に配属された第13、第17の2個師団は、第二次欧州大戦前の平時編制においては師団司令部以下最低限の要員しか配属されていない予備師団だったのだが、今では機動歩兵化と余剰火器の増備によって戦前の姿とは似つかない重装備部隊に変化していた。

 その一方で、軍縮化が進む中では大戦後に派遣された第17師団と交代して本土に帰還した師団の中には、逆に戦時編制を解かれて基幹要員のみの予備師団となっていたものもあったのだ



 だが、軍縮体制の中でも戦訓を反映した主力装備の維持、刷新は必要だった。講和がなったドイツを取り込んだ国際連盟は、ソ連とその同盟国である米国の脅威に備えなければならなかったからだ。

 主力装備に予算が集中する一方で、2線級扱いされる防衛部隊の整備は等閑に付されていた。新設の日本航空軍は本土防空も主任務の一つと考えていたが、海軍の防備部隊などは旧式装備が目立っていた。

 コンテナによる汎用艇の装備換装という案が出てきたのはこうした事情を背景にしていた。専用に建造された艦艇に比べれば効率は悪いが、平時においては曳船として使用している汎用艇を、有事の際に装備を換装して防備部隊に編入するのだ。


 実はこうした汎用性の重視という開発方針は陸軍でも採用されていた。コンテナ化とは関わりなく、基本的な形状となる装甲運搬車を原型とした汎用車体から装甲兵車や自走砲を開発するというものだった。

 この方針で開発された四八式装甲運搬車とその派生型は、大戦中に進化した戦車用の懸架装置などの新技術を取り入れて整備用部品などに共通性をもたせるとともに、戦時中に雑多に進化してしまった多くの装備を、基礎のみでも統一化する事で生産性を向上させるのも狙いだった。


 四八式装甲運搬車の派生型は、当然生産段階から仕様が定まっていたが、小野田大佐は有事の際に装備を転換するという汎用艇の設計思想に注目していた。コンテナに噴進弾を詰め込めれば、上陸支援艦艇を短時間で揃えられるのではないかと考えていたのだ。

 目をつけたのは、一時期上陸支援艦に改装する計画もあった二等輸送艦だった。同じ座礁式の上陸艦艇でも、戦車一個小隊程度の輸送能力がある二等輸送艦であれば特型大発動艇よりも格段に搭載量が確保できるからだ。

 それに操船機能が貧弱で長距離航行が難しい各種大発動艇は母艦がなければ長時間の運用は難しいが、曲がりなりにも独立した艦橋や居住区を持つ二等輸送艦は外洋航行能力もあった。


 正確に言えば、小野田大佐が噴進弾を用いた上陸支援艦として目をつけていたのは二等輸送艦ではなく、その原型となった戦時標準規格船1型そのものの方だった。

 戦時標準規格船1型は、その名に反して本来は戦時中の大量建造を意図したものではなかった。第二次欧州大戦開戦よりもずっと以前に規格が定められた1型は、どちらかというとブロック建造や電気溶接などの新技術を助成金と引き換えに同型船を建造する民間造船所に導入させるためのものだったのだ。

 戦時中は海運の増大に伴って実際に建造数が増大していたのだが、中小の造船所でも建造できるように設計されていた1型は外観はありふれた内航用の貨物船だった。

 以前から海上トラックなどと俗称されている600トン級の貨物船は、大手ではなくやはり中小の船会社でも運航可能な使い勝手の良い寸法のものだったのだ。



 その戦時標準規格船1型に外観は類似していたものの、二等輸送艦の水面下で見えない箇所の構造は差異が大きかった。

 船倉区画に収容された上陸部隊を迅速に陸揚げさせるために、船首には観音開きの扉が設けられていた。もっと小型の大発動艇などは船首に陸地とつながる道板を直接取り付けていたが、二等輸送艦や更に大型の特1号型輸送艦などは船首構造内に折りたたみ式の道板を格納していた。

 抵抗の大きい道板を露出させずに通常形態の船舶に類似した形状の船首形状とするためだったが、それだけでは連続した上陸作業に投入することは出来なかった。


 自ら陸地に座礁して上陸させる二等輸送艦などの形態は、満載状態では喫水が深くなりすぎるから上陸作戦時における実質的な搭載量は船体寸法に比して小さかった。

 特1型輸送艦は、場合によっては歩兵部隊などを上陸岸まで輸送した後に舷側に追加搭載した上陸艇を発進させることで座礁時の搭載量を減らしていたが、二等輸送艦の船体はそのような措置が取れるほど大きくは無かった。


 だが、搭載量を減らした所で自らの推進力で海岸線に座礁させる際には、船体に大きな負荷が掛かる事は変わりなかった。

 それに外洋航行能力を確保するために小なりとはいえ二等輸送艦は操船区画や機関部などを集中配置した船尾楼の他に独立した船首楼を設けていたから、船首尾楼と船体中央部間で生じる浮力の不釣り合いからなる船体変形を防ぐためにも中央部船倉区画は船底を中心に構造が強化されていた。

 船殻構造材を肉厚にした上に横桁の間隔を狭めたことで船倉区画への影響は抑えていたのだが、寸法に比して構造材の分排水量が増大していたことは否めなかった。



 喫水線は若干深くなるものの、純粋に貨物を搭載するだけなら輸送艦の原型となる戦時標準規格船1型の方が当然だが向いていた。その上元々1型にはコンテナ船改装の計画が立てられていた。

 小野田大佐達統合参謀部の参謀達の多くは、もっと大型の戦時標準規格船3型などをコンテナ搭載船に改装すれば十分な輸送量が確保できるのではないかと考えていたのだが、広く日本国内、更には国際連盟諸国全体の輸送手段としてコンテナを使用する場合はそれでは不足が生じるらしい。

 一万トン級の大型貨物船をコンテナ輸送専用に改造した場合は確かに大量のコンテナを一挙に輸送することが出来るはずだが、当時の日本国内でコンテナ化対応の港湾部は少なかった。


 実験的に広島の陸軍船舶司令部に隣接する宇品港がコンテナ対応に改装されていた他は、名古屋港にコンテナ区画が新設されていた程度だったが、コンテナの搭載時間からすると対応港を増やすよりも大規模化の方が長距離輸送の効率が良いのではないかと企画院では推測していたようだ。

 大型曳船でコンテナ搭載時に想定されているように、従来の荷役作業同様に一旦艀にコンテナを搭載して直接入港せずに沖合で待機する貨物船の船倉に収容するという方法もあるが、それではコンテナ化による圧倒的な荷役時間の短縮という効果は発揮できなかった。


 コンテナ化対応の港湾部では、設備の揃った埠頭に直接接岸しての荷下ろし作業が必要だったのだが、大型貨物船を接岸させるにはある程度の水深がなければならなかった。

 名古屋港の新設区画などでは計画的に大規模な浚渫工事を行ったうえで埋め立てで埠頭を新設したらしいが、小規模な港湾部ではそもそも地形を変更するほど大規模な土木工事を行わなければ大型船を直接着岸させる事が出来ないところも多いのではないか。

 戦時標準規格船1型のコンテナ化は、こうした地方の小規模港に対応するためのものだった。要するに将来的に大型貨物船の定期航路を中核港に集約させる一方で、中核港から小規模港への輸送を小型船で行うのだ。

 船型の小さな1型の船倉に搭載可能なコンテナの数はさほど多くはならないが、大規模港から小規模港への中間輸送と割り切れば十分な数なのではないか。



 この戦時標準規格船1型のコンテナ船改造工事計画を知った小野田大佐は、同型船への噴進弾搭載を思いついていた。

 純粋な船舶として見ると不自然な構造で船倉区画に制限のある上陸艇よりも一般的な内航貨物船である同船の方が搭載量は多いし、建造時に得られる助成金によって一挙に内航貨物船を代替していった1型は現在就役している数も多いからだ。

 しかも大型のコンテナ専用船と違って、1型はコンテナの固縛などに時間がかかるものの、コンテナ固定金物を覆う事で普段は汎用貨物船としても運航されるらしい。

 その簡易さと助成金に釣られてコンテナ搭載改装を希望する船会社は少なくなかったから、上陸支援艦に必要な数を揃えるのも容易だったのだ。


 有事に特設艦として徴用されるのが前提のコンテナ化対応戦時標準規格船1型だったが、これに搭載を予定していた噴進弾コンテナの方も簡易なものだった。

 噴進弾を搭載するコンテナは、発射まで繊細な弾体を保護する為に簡易な天蓋こそつけられたものの、当初八雲で実験されていたコンテナと殆ど変更はなかった。噴進弾は、発射を告げる電気信号が送られると、真っ直ぐ前に向けられた架台の方向に一斉に飛んでいくだけなのだ。


 しかも搭載された噴進弾本体は、旧式化された航空兵装の転用品だった。1型改造船は内航貨物船とはいえ上陸艇に比べれば喫水が深いから上陸岸の最後までは上陸部隊に随伴出来ないが、噴進弾の推力が頼りないものだから自然と山なりの弾道となって上陸艇の頭上を安全に超越していく筈だった。

 噴進弾を積み込んだコンテナの下には、小野田大佐が考案していた冷却水を張る過加熱防止用のコンテナが積まれていた。これで船倉区画内で発生する熱量は船体に影響を及ぼすほどではなくなるはずだった。

 ただし、このコンテナの搭載理由は冷却用途だけではなかった。単に最下段に噴進弾搭載コンテナを積み込んだ場合、船倉内壁が近過ぎて発射直後で弾道が不安定な噴進弾がぶれると船倉内壁に衝突してしまうから、噴進弾搭載コンテナを船倉開口近くまで位置を上げる必要があったのだ。



 このとき想定されていたコンテナ改造噴進弾搭載艦の運用構想は単純なものだった。

 徴用された内航貨物船は、排水量などから規定上は特設砲艦となるのだが、実際には二段の噴進弾用のコンテナを積み込むだけで、船体内の改造工事は噴進弾コンテナに繋がる発射信号用の電路追加程度でしかなかった。この程度であれば追加の改造工事は極短時間で済むのではないか。

 それに大規模な上陸作戦にしか使い道はないのだから、使用機会はさほど多くは無いと考えられていたのだ。


 実際にリンガエン湾への上陸作戦に投入された後は噴進弾搭載特設砲艦が再度実戦に投入される機会はなかったのだが、小野田大佐にはそれは単に機会がなかっただけとは思えなかった。

 コンテナ搭載改造船は、ほぼそのすべてが輸送任務に投入されており、特設砲艦として運用するような余裕はなくなっていたのだ。

八雲型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cayakumo.html

戦時標準規格船一型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji.html

四八式装甲運搬車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/48apc.html

大発動艇の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/lvl.html

特1号型輸送艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/lsttoku1.html

戦時標準規格船三型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji3.html


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