1951マニラ平原機動戦6
ここ半世紀ほどの間に軍艦の大型化を促す戦術上の要求と造船技術の革新が急速に進んでいた。
今世紀初頭に勃発した日露戦争における戦艦は基準排水量1万トン級の船体に12インチ級砲を4門程度主砲として搭載していたのだが、現在ではその船体寸法は巡洋艦のものでしかなかった。
むしろ、軍縮条約の無効化後に新世代の重巡洋艦として設計された石鎚型重巡洋艦などは主砲口径以外の要目上の数値は半世紀前の戦艦を凌駕していた。主砲に関しても、旧世代の12インチ砲4門と高初速かつ発射速度の高い8インチ砲12門ではよほどのことがない限り優位に立てるだろう。
これは日本海軍だけの話ではなかった。大戦前後にこれほどの大型重巡洋艦を建造していたのは日米海軍だけかもしれないが、半世紀前の戦艦はどこも似たような要目でしか無かった。
勿論同じ艦種でも海軍の主力である戦艦の差異はもっと大きかった。統合参謀部の中でも軍機の壁に遮られていたが、公試中だという最新鋭の水戸型戦艦などは基準排水量で10万トンに達しているらしいという噂だった。
その一方で、商船の大型化は軍艦程には進んでいなかった。主機など個々の艤装品に関する技術的な進化はあったものの、船倉区画の寸法には大きな変化は無かったと言える。
正確に言えば、客船、特に大陸間を横断する豪華客船などは軍艦同様に国家の威信を賭けて性能やその内装の豪華絢爛さを競っても居たのだが、商船の中でも大部分を占める汎用貨物船の大型化は足踏みしている状況だった。
客船に乗り込む人間達は自分たちの足で移動できるのに対して、貨物は勝手に動いてくれないから大型化によって船倉区画が広がってもその分荷役作業時間がかかってしまうからだ。
海軍の艦艇はともかく、陸軍の砲兵将校である小野田大佐には商船の構造はよくわからないが、原因の一つが沖仲仕と呼ばれる専門の港湾労働者による経験と勘によって行われる非効率な荷役作業にあるのは間違い無いだろう。
港湾部の倉庫から、桟橋や場合によっては艀などを経由して貨物船の船倉に積み込み、あるいは積み下ろしする作業の大半は人力で行われていた。
勿論桟橋のクレーンや甲板に設けられたデリックも使用されるが、船倉の奥深くがデリックの旋回範囲外になる船も多いから、細かな荷物の多くは船倉内でも人力で移動していた。
数千トンの貨物を人力で動かすには、多くの工数が必要だった。荷役時間を短縮するには単位時間あたり数多くの作業員を投入するしか無いが、沖仲仕は入港船が無ければ仕事が途絶えてしまう不安定な職業だった。
差配を行う元請け層はともかく、自然と不安定な就業を余儀なくされる末端の作業員はその日暮らしの日雇い労働者が多く、結果として沖仲仕という業界はどこの港、どこの国でもやくざ者が取り仕切る薄暗い稼業となっていった。
そのせいなのか輸送途上の貨物から物品を抜き出して盗むという荷抜き行為も頻繁に行われているらしい。どの程度結託して行われているかどうかは分からないが、薄暗い船倉の奥深くで密かに少量の荷を懐に入れても他のものに気が付かれる事は滅多にないのではないか。
そうした窃盗行為が発覚することはめったに無かった。立場の曖昧な沖仲仕同士の結束は強く、しかも荷抜き行為自体が不安定な雇用形態故の約得と考えられているらしく、外部に詳細が伝わる事は少なかった。
仮に「やり過ぎ」て犯罪行為が外部に発覚するような場合でも、まず最初に仲間内での制裁が待っているらしい。沖仲仕という業界全体の信用を失墜する行為と考えられるからだが、言い方を変えれば組織に迷惑をかけない程度の荷抜きは業界全体で庇うということになる。
そうした荷抜きによる商品の欠落は常態化していたから、世慣れた輸出入業者などはある程度の荷抜き分は必要経費とさえ考えているのではないか。
そうした港湾部の特殊な労働環境を把握しているものは軍内部では少なかった。あるいは軍隊の輸送においても平時の糧食の移送などでは荷抜きも行われている可能性はあるが、弾薬などの軍用貨物を荷抜きする者はいないだろう。
小野田大佐も、統合参謀部勤務になってから他省から出港している兵部省のコンテナ化政策における担当者から説明を受けてから始めて聞いた話だった。本来は船団を短時間で構築するためのコンテナ化だったが、効果はそれだけに留まらないという文脈の中で聞いたのだ。
統合参謀部の小野田大佐には兵部省内の事情しか分からないが、どうもコンテナ輸送計画の大元締め、というよりも発案者は企画院であるようだった。
総理大臣直属の調査機関であり、職員の多くが中央省庁からの出向者という特殊な組織である企画院でなければ、鉄道省や逓信省など省庁間で管轄が入り乱れるコンテナ化政策を推進することは出来なかったのだろう。
統合参謀部に根回しに来た兵部省の担当者も企画院と気脈を通じている様子があった。
その担当者によれば、現状の沖仲仕が担当する港湾部の荷役作業は、不安定である上に輸送にかかる費用の中でかなりの額を占めてしまっているという統計結果があるようだ。
大勢の沖仲仕達を短時間に集中して行うものだから工数は大きくなるし、出入港まで貨物を保管する倉庫の賃料も無視できないほど大きいからだ。航路や投入される貨物船の寸法によっては、貨物船の運行費用よりも荷役費の方が高く付く場合もあるようだ。
例えば、日本本土から中国本土をつなぐ航路の場合、最短となる長崎と上海を結ぶ便の所要時間はほぼ一日分でしか無かった。ここに一万トン級の貨物船を投入しても、単純計算すれば一週間のうち航行に費やされるのは僅か一日で、それ以外の日はすべて荷役作業に取られることになってしまうのだ。
勿論こんな不経済な航路を設定する船会社があるはずはなかった。荷役作業に時間のかかる大型貨物船は、自然と元々航行期間の長い長距離航路に限られるということになるだろう。
矛盾することになるが、元々コンテナ化政策は第二次欧州大戦で得られた戦訓から、有事の際に長距離護送船団を構築する期間を短縮するためのものであるはずだった。
長距離の航路であれば、従来から行われている効率の悪い荷役作業でも大型貨物船の船倉を満たすことが出来るのだが、多数の輸送船で船団を構築するには一隻当たりの荷役作業を短縮する必要があったのだ。
コンテナという英語の言葉を訳せば単に容器を意味するのだが、他に良い呼び名がなかったためか国際連盟加盟諸国による規格化作業の際にこの名称も正式化されたという話だった。
それ以前にも貨物をひとまとめに箱に入れておくという思想そのものはあったのだが、規格化されてもある会社独自のものにとどまっており、複数の組織で跨るほどの規模にはならなかった。
コンテナ規格が明瞭に定められたのは、当初からこれが長距離護送船団、つまり広大なユーラシア大陸の左右端に存在するアジア圏と欧州を有事の際につなぐ航路に投入する事を前提としていたからだ。
これほど送り手と受け取り手が離れているのだから、規格化を行わないと周辺機材が適合しないだろう。平時ならばともかく、有事の際に迅速に船団を離散集合させるには強制的な規格化が必要だったのだ。
だが、目端の利くものはコンテナの規格化が船団構築といった限られた範囲だけではなく、それどころか海運だけではなく、輸送という作業の形態そのものに大きな影響を与えるのではないかと考えているようだった。
コンテナ輸送という話を説明された当初、小野田大佐はとてもそのような思いは抱けなかった。荷役作業の効率化という意義は理解するものの、同時に数多くの短所も存在するのではないかと考えていたからだ。
端的に言ってしまえば、コンテナとは規格化された外寸の鉄箱に過ぎなかった。コンテナにはあらかじめ固縛用の金物が取り付けられており、貨物船船倉区画や鉄道貨車にはこの金物を利用して短時間で固定することが可能だった。
発想としては、舶用輸送においてはコンテナとは貨物船の船倉区画を細分化して取り外せるようにしたもの、とも言えるようだ。従来は一隻一隻事に複雑に形状が異なる船倉区画に合わせて手作業で貨物が収容、固縛されていたのだが、その作業をあらかじめ設備の整った出荷元で行う事が出来るというのだ。
コンテナそのものは厳密に寸法などが規格化されていたから、港湾部では事前に重量などから計算された位置の船倉区画にコンテナそのものを固定していけば済むことになる。
勿論12メートルもある鋼鉄製のコンテナは自重だけで数トンもあるのだから、貨物を満載すれば大型のクレーンを用いるしか無いのだが、それでも金物の工夫などですべて人力で行うよりも遥かに短時間で大型貨物船の船倉区画を満杯にすることが可能だった。
だが、この時同じように船倉区画を満杯に出来たとしても、時間を掛けて人力で荷役作業を行う従来のやり方よりも実際に収容された貨物の量は少なくなるはずだった。
箱状の構造物に固定用金物が頑丈に取り付けられたコンテナ自体の重量や嵩も無視できないし、従来の船倉扉上にコンテナを重ねて固定するだけの半コンテナ改装船ならばともかく、船倉区画を完全にコンテナ搭載用に作り変えた完全コンテナ船の場合は付加物による影響も大きいはずだ。
この場合は船倉区画内に多段積みされたコンテナを確実に固定するための構造物が必要となるのだが、ある程度は船体強度を分担する構造材として見ることが出来たとしても、船倉区画内に余計な付加物が加えられることに変わりはなかった。
企画院や兵部省の担当者は船舶輸送から鉄道などとの円滑な貨物引き渡しなどの利点も上げていたが、純粋に貨物船の運航に従事するだけの船会社としては船倉区画の実質的な減少に二の足を踏むのではないか。
それにコンテナ化には莫大な費用が必要だった。単に貨物船の船倉区画を改造するだけではなく、コンテナを吊り上げる為のクレーンやコンテナ搭載用の鉄道貨車、自動貨車などの周辺機材の整備も同時に行わなければならないからだ。
コンテナ規格は鉄道輸送可能な寸法から12メートルという長尺なものになっていたから、特に自動貨車は新規に設計された牽引車でなければならなかった。
利便性を高める為に定められたコンテナに合わせる為に周辺に大きな影響が出てしまうのだ。これで民間商船のコンテナ化が進まなければ使い道のない周辺機材だけが錆を浮かせるだけになってしまうだろう。
当分はコンテナ規格は軍事用途に限られる事になるだろう。最近まで小野田大佐はそう考えていた。あるいは、早々に統合参謀部に話が来ていたのもその絡みがあったからではないか。
費用に関しては民間の輸送業と比べれば軍事用途には余裕があると言えなくも無かった。大規模な兵站線を構築する場合は、当初から輸送中の損失を見込んでおくのが常識的だったからだ。
経理部からすれば、船舶輸送時の荷抜きが無くなる上に、コンテナという容器自体が簡易な倉庫代わりにもなるコンテナ輸送は利点が多いと考えられていたようだ。
ただし、鉄道に加えてコンテナを搭載する牽引車は大量に導入しなければならないし、大重量の牽引車を末端の部隊付きの段列が運用するのは難しかった。
実際にはコンテナ輸送は軍兵站管区内から師団輜重部隊が輸送する兵站末地までの輸送にとどまり、連隊や大隊の段列は従来通りの運用になるのではないか。
尤も当初からコンテナ化においては、輸送だけではなくもっと積極的な使い方も考案されていた。実は小野田大佐も輸送そのものではなく、そちらの検討に参加していた。砲兵科の大佐と無関係では無かったからだ。
船倉区画や鉄道貨車へのコンテナの固定には底面の金物を使用するのだが、この金物とコンテナ規格に合わせた形で簡易な追加兵装が可能ではないかと考えられていたのだ。
この兵装コンテナは、戦利艦を改造して実験艦として運用されていた重巡洋艦八雲で試験が行われていたものだったが、既にこの戦争では意外な姿で実戦を経験していた。
石鎚型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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