1951マニラ平原機動戦5
第二次欧州大戦の開戦から2年程が過ぎた北アフリカ戦線から本格的に参戦した日本軍は、英軍と共に戦艦の艦砲射撃までも投入した徹底した火力戦でドイツ軍の機動を抑え込んでいた。
北アフリカ戦線が終結した後も、航空優勢を背景とした火力戦によって欧州本土に上陸した国際連盟軍は着実に進撃していた。
当時の欧州戦線で行われていた徹底した火力戦は、師団砲兵や軍直轄砲兵隊などだけではなく、航空支援や艦砲射撃、中には列車砲まで含んだあらゆる火力の発揮を統制する砲兵団司令部の存在が前提にあった。
場合によっては歩兵中隊が持つ自前の火力であるはずの曲射歩兵砲、迫撃砲まで統制下に置くことから分かるように砲兵団司令部の権限は極めて強かった。
元々火力戦を得意とするソ連軍を仮想敵としていた日本陸軍は、火力の集中によってこれに対抗しようとシベリアーロシア帝国などと共に研究を重ねていたからだ。
そのため指揮下の砲兵観測連隊から派遣された前進観測班からの情報を元に、砲兵団司令部は火力戦に限っては上級司令部から順々に下りる指揮統制の権限を越えて、各階級司令部隷下の砲兵部隊に射撃目標の指示を行う権限が与えられていたのだ。
これにより最前線から上げられた情報を元に行う集中射撃で敵軍の弱点を突く事が出来る筈だった。その目論見は概ね欧州戦線でも成功していたと言えなくもないが、その一方である程度期待されていた砲弾の消費を抑制する効果は薄かった。
第二次欧州大戦における砲弾の消費量はやはり莫大なものになった。日本軍の大抵の指揮官は、昨今工業化によって著しく命の値段が上がっている日本人兵士の血を一滴でも流すよりも、後方で大量生産体制に入っている砲弾を消費する方を選んでいたのだ。
それに第二次欧州大戦では、前線で大量消費される砲弾に加えて各種燃料の輸送量も格段に増加していた。戦車だけではなく、馬匹に代わって自動車も大量に使用されるようになっていたからだ。
さらに言えば、時代を経る毎に燃料と弾薬を消費する対象も増えていた。第一次欧州大戦開戦頃には偵察機の操縦士が拳銃を撃ち合うというどこか牧歌的でちぐはぐなものでしかなかった航空兵器は、大戦終結頃には既に塹壕を銃撃したり、都市への爆撃を敢行する重武装の機体も珍しく無かったのだ。
航空機の高性能化に伴う肥大化は第二次欧州大戦でも止まらなかった。日米英などが保有する現代の超重爆撃機の中には離陸重量が百トン前後に達する巨人機も存在していたのだが、この巨躯を空中に浮かび上がらせる為には、燃料弾薬合わせてトン単位では効かない物資が必要だった。
米軍の超重爆撃機であるB-36などであれば、一個中隊が一度出撃するだけでも、戦車一個中隊に相当する重量の物資を消費するであろうという推測まであったほどだ。
勿論戦闘機や軽爆撃機はこれに比べれば遥かに消費量は少ないが、それでもジェットエンジンの燃費は悪いし、大出力化によって戦闘機でも数トンの爆装を施されて出撃する事は珍しく無かったのだ。
ルソン島でもそうした戦闘が続いていた。緒戦で奪取したアパリには主に空軍の主力軽爆撃機である五一式などが配備されていたのだが、より前線に近いバギオ基地には新鋭の五〇式を含むジェット戦闘機が配備されて、マニラ要塞に所属するのだろう米軍航空基地と熾烈な航空撃滅戦を繰り返していた。
当初は小野田大佐もバギオ基地経由で方面軍司令部に向かうつもりだったのだが、基地機能の安全性などから船便に変更していたのだ。
お互いの航空基地を潰し合う航空撃滅戦は、過酷な消耗戦だった。勝敗を決めるのは航空機の性能だけではなく、その機能を発揮させる為の基地設営隊や工兵隊の能力、規模も重要な因子だったからだ。
極端なことを言えば、航空戦闘で勝利を収めても、帰還した際に敵機によって滑走路が潰されていれば機体は喪失して敗北したも同然なのだ。
機械化された工兵隊や防空部隊など地上部隊や、撃墜されなかったとしても短時間の連続出撃によってたちまち劣化してしまう航空機の消耗は激しかった。そしてそれ以上に消費する物資は莫大な量になっていた。
賽の河原に石を積み上げるような行為だが、そう簡単に手を引く事は出来なかった。航空撃滅戦では、先に手を引いたほうが追撃を受けて一方的に叩かれるのが目に見えているからだ。
それに制空権を奪われた地上部隊がたどる道は大抵は悲惨なものだった。単に航空部隊から攻撃を受けるだけではないからだ。
地上部隊に随伴する機動力のある対空部隊だけでは、上空で観測する偵察機の行動すら妨害するのが手一杯だった。よほど隠蔽に時間をかけでもしない限り貴重な長距離砲兵等も、正確な観測を元にした対砲兵射撃を受けて短時間のうちに壊滅してしまうかもしれない。
今は日本軍を主力とする国際連盟軍が米軍に対して攻勢をかけている形だが、米軍としても制空権の確保には死力を尽くすのではないか。
尤も、相手がマニラ要塞となると制空権を確保した後も抵抗する可能性はあった。マニラ周辺には防御工事が施された対空砲、それも固定配置の大口径砲などが配備されているのも確認されていたからだ。
最終的に完成したかどうかは分からないが、先の第二次欧州大戦でドイツ軍が本土防空の為に分散配置していたコンクリート造りの高射砲塔を真似た対空砲陣地も建設されていたようだ。
このようにマニラ要塞自身に野戦部隊による自衛戦闘の域を越えた対空火力が備わっているものだから、航空部隊が壊滅しても戦闘を継続することは不可能ではないだろう。
これを打ち砕くにはさらなる物資、つまりは砲弾や爆弾の類が必要となるだろう。勿論火砲や戦車、あるいは爆撃機を使うにせよそれらの危険物をマニラ要塞に叩きつけるところまで運ぶのには燃料も欠かせなかった。
小野田大佐は運転手の下士官の言うことを半ば聞き流しながら、ため息をついていた。考えていたのはこの戦争で垂れ流しにされる膨大な物資量だった。
大佐は砲兵科だったから砲弾の消費に関してはある程度の知識は持っているはずだったが、二度の欧州大戦でも最終的な使用量は見積もりを遥かに越えていたのだ。
小野田大佐が士官教育を受けたのは欧州大戦の戦間期にあたっていた。世界的にも軍縮期にあたっていたから、砲弾を大量消費する砲兵部隊に対する周囲からの視線は冷たかった。
むしろその時期はいかに砲弾の消費を抑えて華麗な機動戦で敵部隊を無力化するか、そういう視線から戦車や航空機に注目された時期だった。
ただし、他国に比べれば日本軍は砲兵部隊を維持していた方だった。部隊規模や火砲そのものだけではなく、有事の際に砲弾製造工場に転用できそうな工場の調査維持なども行っていた。
実際、この戦争においても大戦集結後に民需に転用されていた工場などで砲弾の製造や炸薬の充填といった軍需への再転換が順調に行われていたのだ。
最前線からの要求を完全に満たすことは出来ないにしても、日本本土や周辺友好国による軍需品の生産体制は整いつつあった。先の第二次欧州大戦における国家総動員体制は、記録や制度だけではなく、各層作業者の記憶もまだ新しかったからだろう。
問題はむしろ生産体制ではなく、輸送手段にあった。先の第二次欧州大戦の際に不足をきたしたのもそこだったからだ。
フランス本土の大部分を友軍が維持していた第一次欧州大戦とは異なり、第二次欧州大戦では戦場で消費される分だけではなく、ほぼ欧州で単独で戦っていた英国本土の民間人向けの物資輸送もあったからだが、意外なことに生産量や輸送船の数は需要を満たすだけの数はあったと言える。
確かに英国本土ではあらゆる物資は不足しており、戦時体制のさなかで貴族達の土地や館の接収、女性労働力の拡大といった有事措置が取られていたのだが、そのような状態でも例えば英国本土の戦車生産量はドイツを上回っていたのだ。
だが、戦地で消費される分に加えて国家総動員体制に入った英国の生産体制を維持するためには、莫大な量の物資を英国本土に運び込む必要があった。
勿論日本同様に島国である英国本土に物資を輸送するには海上から運び込むしかないのだが、この時とられた護送船団方式には意外な欠点が存在していた。
独航を禁じて船団を組むと同時に護衛部隊を組み込む護送船団方式は、本来はドイツ軍の通商破壊戦に対応するためのものだった。開戦と同時に第一次欧州大戦と同様に通商破壊戦に乗り出したドイツ軍は、一時期は遥かインド洋に至るまで通商破壊艦を送り込んでいたのだ。
仮装巡洋艦や正規の大型戦闘艦などの水上艦による通商破壊戦は散発的で大きな損害は無かったが、ドイツ海軍は潜水艦隊を主力として大西洋で通商破壊戦を国際連盟軍との講和まで戦い続けていた。
国際連盟軍も対潜兵器や戦術を洗練させてドイツ海軍潜水艦隊に対抗していったが、その一環として大戦中を通じて護送船団の規模は膨れ上がっていった。大戦初期の独航船は兎も角、終盤においては遥かアジア圏から英本土まで一気に百隻もの輸送船で構成された大船団が運航されて行ったのだ。
船団規模の増大は、護衛艦艇の節約、あるいは密度を向上させるためのものだった。ある特定の海域を単位時間あたりに通過する輸送船が一定であったとして、通商破壊戦に投入されたドイツ海軍潜水艦による被発見率を低下させ、魚雷戦の機会を奪うためのものだった。
大戦終盤になると、各種電波警戒機や対潜哨戒機の充実などによってドイツ海軍の潜水艦は長時間の潜水行動を余儀なくされていた。そして海中からの索敵能力が限定される状況では、独航貨物船でも巨大船団でも発見率はそう変わらなかった。
それに潜水艦に備えて不定期に回頭する之字運動を行う輸送船を潜水艦が正面から捉えるのは困難だった。自然と襲撃の際は船団側面から狙われる可能性が高くなるが、船団を前後左右に並んで構成した場合、横に並ぶ輸送船の数を増やすだけ側面から見える船団の面積を縮小することが可能だった。
仮に10隻の輸送船を縦に並べるのではなく横に10隻並べた場合、側面から襲撃する潜水艦から狙えるのは最外縁の2隻のみとなるのだ。
側面面積の縮小は、同時に側面援護を行う護衛艦艇の削減も可能だった。
大戦初期はこれで数が足りない護衛艦艇を節約していたのだが、松型駆逐艦など長距離護衛艦艇の数が増大していった大戦末期では、船団の直接護衛から離れて襲撃してきたドイツ海軍潜水艦を長時間追尾する専任艦を指定するなど護衛部隊の柔軟性を強化する方向に向かっていたようだ。
対独講和後にドイツ海軍などから接収した資料から、統合参謀部では護送船団方式の有効性を襲撃艦の視線からも再確認していたのだが、その一方で船団の巨大化は弊害も招いていた。
最終的な船団の目的地は英本土だったが、出発地もその多くは日本本土だった。
アジア圏の植民地や満州共和国から出発する輸送船も途中で次々と船団に合流していったのだが、むしろ日本本土が国家総動員体制に入る頃には、アジア圏植民地などから送られてくる原材料を日本本土の軍需工場で加工して船積みされることも多かったのだ。
問題が発生したのは、百隻もの輸送船に対して短時間のうちに荷役作業が集中したことだった。
この時期、大型の1万トン級貨物船の船倉一杯に荷役する作業は、おおよそ一週間かかっていた。しかも外航用の大型貨物船が入港できる大規模港は日本本土でも限られていた。
平時はそれでも十分だったのだが、有事における輸送量の増大に対応するには荷役作業は専門性が高く、急遽雇用した非熟練作業者では作業効率が悪かった。
その結果、大規模船団を出発期日までに構築するために特定の港に出入港作業が集中して、荷役作業能力は飽和してしまっていたのだ。
日本本土では戦地の需要を満たすだけの物資を生産出来ていたというのに、荷役作業の限界からこれ以上の船団の巨大化などが遮られていたのだ。
今ルソン島でも用いられているコンテナ輸送という手段は、本来第二次欧州大戦の戦訓を受けてさらなる巨大船団を構築する為の手段として考案されたものだったのだ。
五一式爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/51lb.html
五〇式戦闘機の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/50af.html
松型駆逐艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ddmatu.html