1951マニラ平原機動戦4
ふと熱風を感じて小野田大佐は顔を見上げていた。周りの光景に特に変わったところはなかったが、便乗した内火艇の舵が僅かに切られていた。それで風向きと進行方向の合成でエンジン排気からなる熱風が大佐の顔をなぶっていたようだった。
南洋の日差しは容赦なく小野田大佐の肌を焼いていたが、風があるからこれまで体感温度は低かったのだが、その分僅かに風が遮られるだけで蒸し暑さは我慢できなくなるほどになっていた。
陸地が近づいていた。内火艇はルソン島北西部のリンガエン湾奥深くに達していた。日本軍による上陸作戦が行われたのはこの近くだったが、小野田大佐の目的地であるフィリピン方面軍司令部はその先にあった。
ルソン島に上陸したフィリピン方面軍は、当初の揚陸指揮艦上から、上陸地点からやや内陸部のロザリオに司令部を動かしていた。
前進した各師団が構成する前線と適度な距離ができた事と、機動旅団によって制圧されたバギオ基地との連絡が容易であったことから、上陸直後に戦場となったその街が司令部の移動先に選ばれたらしい。
統合参謀部から視察でルソン島を訪れた小野田大佐も、上陸作戦の行程を辿ってロザリオの方面軍司令部に向かう予定だった。便乗した貨物船に迎えに来た内火艇も上陸岸に向かって航行を続けていた。
だが、上陸岸が近づいてくると、小野田大佐は違和感を覚え始めていた。米領フィリピンにおける行政の中心地であるルソン島を無力化すべく上陸したフィリピン方面軍は、日本陸軍の正規師団のみで5個師団、これに軍、方面軍直轄部隊や他国軍を合わせれば10個師団相当にも達する大規模部隊の筈だった。
それに占領された上陸岸付近のバギオ航空基地に進出してきた空軍部隊への補給もリンガエン湾を経由している筈だが、それにしては上陸岸に整備されていた桟橋などの港湾設備は貧弱だった。とてもではないが、10個師団相当の大部隊を支える兵站地に直結しているとは思えなかった。
上陸岸に選ばれるくらいだから遠浅の地形なのか、座礁式の輸送艦などの姿は何隻か見えていたが、輸送艦では大重量の車両でもない限り荷揚げの効率は悪いはずだ。
数少ない重量物輸送船で運ばなければならない戦車や自走砲などは、重量があるから短距離輸送なら一々港でクレーンで吊るより船首から道板を展開する輸送艦に載せて自走させた方が早いのだ。
欧州戦線でも、小野田大佐は何度か司令部参謀として上陸岸を見ていたが、何れの上陸岸でも上陸直後から機械化工兵部隊を集中投入して仮設桟橋を構築していた。上陸直後の補充、補給作業を継続して行うには荷揚げ能力がどれだけあっても足りないからだ。
もちろん近くには埋め立てで作られたと思しき桟橋も存在していたが、内火艇か上陸支援や警備に使用される装甲艇、駆逐艇の係留がせいぜいではないか。喫水の深い外洋型の船舶が係留するのは難しそうだった。
首を傾げていた小野田大佐だったが、真相はすぐに判明していた。真相というほどのものではなかった。単に兵站地としての機能は占領下のリンガエン湾中央部に存在する既存の港湾部に移っていたというのだ。
中央平原の東北端に位置するリンガエン湾は、左右岸共に大きく伸びていたから湾内は荒天となることも少なく天然の良港となる条件を満たしていた。実際にスペインから米国に統治者が代わっても港湾部の整備は続けられていたようだった。
その整備された港湾部はすでに日本軍の占領下にあった。というよりも、上陸直後の無理攻めのような内陸部への連続した進攻は、港湾部の安全を確保する、つまり早々に米軍火砲の管制下から遠ざける為のものでもあったようだ。
上陸戦闘で苦戦した第2師団を押し潰すように連続投入したことに加えて、本来後詰だったはずの第7師団を早々に部隊が揃わない中から旅団規模で逐次投入した作戦は、当初の予定に無かったこともあって後方の統合参謀部などからの評価は低かった。
しかし、前線における補給体制の確立という一面から見ると、リンガエン湾一帯を占拠して安定させるという効果があった事は否めなかった。
上陸岸は、遠浅の地形であったから、座礁式の輸送艦を運用するには有利でも、喫水の深い大型船を連続して入港させるには無理があった。そこで港湾施設を早々に占拠して荷揚げや兵站地の機能はそちらに集約したらしい。
しかし、内火艇から桟橋で乗り換えた乗用車の運転手によれば、既存の港湾設備もそれなりに改造されていたようだ。その運転手は司令部付きの下士官だから、上陸直後の慌ただしい時期から伝令としてあちらこちらに走り回っている間に随分と多くのことを見聞きしていたようだった。
下士官によれば、桟橋などの既存の港湾設備は徹底して拡張されていた。当初は桟橋に係留可能だったのは、日本国内でも内航用の貨物船として多用されている600トン級の汎用貨物船程度だったのだが、台湾から持ち込んだ浚渫船団で桟橋周辺と水道を掘り起こしていたようだ。
浚渫作業と言っても桟橋を使用しながらの工事だった筈だ。内航貨物船であればそれほど多くの荷を運べるわけではないから、上陸した部隊への補給で手一杯だった筈だ。内陸部への本格的な戦果拡張が進まなかったのも、砲弾や燃料などの兵站地への集積が進まなかったからではないか。
ところが、桟橋の拡張工事後は一挙に1万トン級の大型貨物船が連続して入港出来るように改良されたらしい。しかも、同時に撤退する米軍によって放棄されていた鉄道とつながる引込線まで新規に建設されていた。
引込線は、拡張された桟橋の中まで延長されていた。そうなると桟橋は殆ど造り変えられる勢いで拡張されていたのだろう。拡幅された箇所には引込線のレールの外側に更に移動式のクレーンが設けられていたからだ。
やはり本土から持ち込まれていた船台の大重量クレーンによって移動式のクレーンが設置されていた。このクレーンはコンテナ輸送に特化したものらしく、1万トン級のコンテナ改造船から短時間のうちに物資を荷揚げする事が出来るようだ。
上陸岸の桟橋が軽視されるのも当然だった。遠浅の地形では相当の工数をかけないとこれ程の規模の荷揚げ能力は期待出来ないのだ。
それに桟橋の拡張はまだ続いていた。弾薬や糧食、被服などの物資はコンテナ輸送という欧州大戦時には存在しなかった荷役方法で輸送量の問題が解決し始めているようだが、燃料という液体貨物は輸送が難しかったからだ。
コンテナの規格に収めた小積みの燃料タンクで今は輸送しているようだが、コンテナごと自動貨車に載せて兵站地から最前線に各部隊付きの補給部隊で輸送するならばともかく、兵站地に大量集積するにはそれでは効率が悪かった。
今では、港湾施設近くに設定された兵站地に穴を掘って、地下式の燃料タンクと桟橋から繋がる燃料管を敷設するという計画もあるようだ。桟橋につけた油槽船から直接燃料油をタンクに送り込むのだ。
元々砲兵将校である小野田大佐は、マニラ要塞攻略においても膨大な砲弾の消費を見積もっていた。時間をかけて構築された永久陣地を破壊するには、大口径砲弾を連続して撃ち込むほか無いからだ。
シベリアーロシア帝国や満州共和国に配備されている大口径の列車砲を輸送してくる計画もあったのだが、輸送が困難であることに加えて、現地に敷設されてる鉄道の規格が貧弱であることから断念されていた。
大重量の列車砲編成を前線まで持って来るには鉄道を再敷設する程の覚悟が必要だったし、そんな無理をして列車砲を持ち込む前に、鉄道連隊は米軍が放置していった既存鉄道網の補修と荷役された物資を前線近くに設けられた兵站主地までの移送作業などで多忙でとても列車砲を運用できる余裕は無かった。
日本帝国が参戦した戦争における当初の補給計画と現実に輸送された物資の内訳を分析すると、ここ半世紀程の間に大きな変化が発生していた。
日清戦争の頃は、輸送される物資の大半は糧秣だった。将兵の食事だけではなく、各部隊が引き連れていた大量の馬匹に与える飼葉も必要だったからだ。おそらく列強の他国が同規模の戦争を行った際も同程度だったのではないか。
だが、日露戦争や第一次欧州大戦の頃になると、塹壕や要塞によって機動戦を封じられた為なのか、砲弾の使用量が莫大に跳ね上がっていた。多くの将軍や参謀達が夢見た華麗な機動戦を再開するには、まず徹底した火力戦で戦線に穴を開けなければならなくなっていたのだ。
それに第一次欧州大戦の開戦までに各国が整備を行っていた長砲身の野砲は、塹壕戦で使用するには力不足だった。
高初速で広い範囲にばら撒かれた榴散弾は、開豁地を無防備に機動する歩兵部隊に対しては絶大な効果を発揮したのだが、一つ一つの弾片が小さいから塹壕に籠もられると容易に防がれてしまうからだ。
野砲は弾道が低伸するものだから、榴散弾ではなく破片が比較的大きな榴弾を使用しても炸裂した弾片が作り出す被害半径が前後に伸びた楕円状となって、塹壕に真上から降って内部に被害を加える可能性は低かった。
結局この当時は塹壕を突破するために莫大な砲弾が消費されたものの、決定的な勝利は得られずに戦争は長期間していった。
この戦訓を受けて、第二次欧州大戦頃には師団砲兵の主力を高初速野砲から初速は遅くとも仰角を大きく取れて山なりの弾道を取れる榴弾砲に切り替えるか併用しようとしていた軍もあった。
ところが、これも戦間期の予算不足や部内の理解が得られなかったことから、理想的な姿にまとめられた砲兵隊を有していた軍隊など何処にも存在していなかったのだ。
火力戦への理解が乏しかったのは、塹壕戦を突破して機動戦に移行するための新兵器として開発されていた戦車に過剰な期待がかけられていたからでもあった。
当初は塹壕を突破する能力だけを求められていた戦車だったが、次第に速度や使い勝手が増していく中で、脆弱な騎兵に代わって戦車そのものが機動戦の担い手としても期待されるようになっていた。
皮肉な事に塹壕戦ではその効果が疑われていた高初速の野砲は、戦線を突破した戦車への最後の対抗手段として期待されるようになっていった。地面に掘られた塹壕には無力だった高初速による低伸弾道は、水平に機動する戦車には極めて有効だったのだ。
その一方で、前線で対戦車砲として使用するには長砲身の3インチ級砲である野砲は兵の膂力で扱うには重量が限界に達しており、僅かな移動ですら車両の支援が必要では咄嗟時の射撃に制限があるため、過剰な火力と判断されて当時は主力とはなり得なかった。
そして始まった第二次欧州大戦初期は、まさに機動戦論者の予想通りに進んでいたかのようにも思えていた。ドイツ軍は戦車部隊の機動力と火力を駆使して、ポーランドに続いて西欧諸国を短時間のうちに下したように見えていたからだ。
だが、言ってみれば緒戦の勢いは、単に準備万端で開戦に挑んだドイツと戦争準備が整わなかった他国との違いに過ぎなかった。それが証明されたのは北アフリカの砂漠だった。
特1号型輸送艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/lsttoku1.html
駆逐艇の設定は下記アドレスで公開中です。
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