表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
728/840

1951マニラ平原機動戦1

 その戦車の基本的な足回りの構造は、M3中戦車を踏襲していた。転輪2つを一組としたボギー式のサスペンションなどは、部品単位で互換性があるのではないか。

 速度性能を重要視した為か、履帯幅は狭いからそれを支える転輪などはM3中戦車やM6重戦車とは形状や寸法が異なるはずだが、サスペンション構造物内に収められたバネなどは同一仕様なのかもしれない。

 ただし、重量はだいぶ抑えられている筈だった。改良の結果60トン級に達したM6重戦車はもちろん、その半分しかないM3中戦車と比べてもサスペンションの沈み具合や装備数からすると自重は軽いのだろう。



 むしろ技術体系という意味では逆なのかもしれない。サンメリーダ村内の鉄道脇に設けられている集積地に勢揃いしたM4軽戦車の姿を見つめながら、マレル少尉はそう考えていた。

 元々米陸軍が採用した軽中重からなる三種類の戦車は、ここ半世紀もの間押さえつけられていた国防費、特に陸上兵器に関する開発予算をやりくりしながら開発されていた。

 本来は完全新規設計で開発を進めたかった車両であっても、従来型の改造で済ませた戦車は少なくないという噂はマレル少尉も何度か聞いていた。旧大陸で起こった2度の大戦を横目で見ていただけだった米国内では、戦車開発の意欲は低かったからだ。

 その上騎兵科と歩兵科の戦車開発に関わる主導権争いも発生していた。騎兵科の装備を戦闘車と呼称することで歩兵科主導の戦車開発と無関係に進めていた時期も長かったらしい。


 そうした軋轢がありながらも、ある時期からは騎兵科の装備する偵察と追撃戦を行うために開発された戦闘車も、戦車の一種類である軽戦車として整備が進められるようになっていた。

 現行米戦車のサスペンションもM2軽戦車で確立された構造に改良を加えていったものだった。要するに基本的な設計を完成させた後は、その数やサスペンションに繋がる転輪などの違いだけで部品、構造を共通化出来るというのだ。


 この手法によって、米戦車は戦車にとって重要な部品である足回りにおいて開発期間の短縮と取得価格の低減を実現させたらしいが、これまではあまりその合理性も発揮されていなかった。

 ルーズベルト政権時代に集中的に予算が割り振られた海軍や、カーチス政権時の陸軍航空隊などと比べると陸上部隊は傍流にあったから、その乏しい予算で購入できる程度の数では、生産性への配慮が具体的な数値となって現れなかったのだ。


 開戦以後は米本土でも予算がつけられて戦車も大量生産体制に入っているらしいが、戦車をいくら北米で増産したところで、戦場まで運び込まなければ意味は無かった。

 その点では本土にほど近い日本軍よりも、広大な太平洋を渡って来なければならない米軍の方が状況は格段に不利だった。特に重量のある重戦車の補充などは遅々として進んでいなかったようだ。重量級の戦車を輸送できる貴重な重量貨物用の貨物船の手当も難しいのだろう。



 それ以前に、本当に小改造だけで戦車のような頑丈でも繊細な機械に必要な性能を与えることは可能なのか。マレル少尉は疑問に考え始めていた。英国や日本軍の戦車は戦時中でも大規模に刷新されていたからだ。

 海岸線の戦闘で散々にマレル少尉達第24歩兵連隊を叩いた日本軍の戦車も何種類かに分かれていた。開戦前から配られている識別表によれば、主力となる中戦車は三式中戦車と四五式戦車のようだった。


 どちらもM3中戦車を越える重量級の中戦車だったが、米軍内では四五式戦車の立ち位置に以前から疑念が持たれていた。日本軍内部でも書類上の制式名称からして中戦車とは別の扱いを受けているし重量も大きいようだが、その備砲は同一であることが確認されていたからだ。

 第二次欧州大戦末期に同車を装備する日本軍と交戦したソ連軍からの情報だから、四五式戦車の備砲に関する情報確度は高いのではないか。当時のソ連軍によれば四五式戦車が装備する主砲は、長砲身3インチ級であるのは間違いなかった。


 米軍内部では、四五式戦車はソ連軍初期の重戦車であるKV―1に類似した存在ではないかと考えられていた。これに相当する米軍のM6重戦車も当初は長砲身3インチ級砲を装備していたからだ。

 既に三式中戦車が存在する中で四五式戦車を開発していたのは、日本軍内部でも四五式戦車を重戦車に類別しきれていない可能性もあるだろう。つまり中戦車とも扱いづらい重戦車とも言い難い中間的な戦車ではないかと考えられていたのだ。


 だが、実際に目前で四五式戦車が火を吹くところを見せられたマレル少尉は、識別表の記載そのものを疑い始めていた。狭い市街地内に設けられた陣地内で身動きが取れないところを側面から襲われたとはいえ、四五式戦車の群れはM6重戦車ですら楽々と撃破していったのだ。

 次々と放たれる戦車砲の榴弾に倒された兵も少なくなかった。目の前、僅かな距離で四肢を吹き飛ばされた兵の姿を思い出したマレル少尉は、思わず身震いしていた。



 三式中戦車と四五式戦車は額面上似ているようでも、その性能は一変しているのではないか。米軍上層部が予想していたように重戦車的な運用を四五式戦車が強いられているとも思えなかった。

 おそらく運用上では両車の扱いに差異はないはずだったが、性能は大きく向上しているようだ。その原因があるとすれば、思い切って設計開発上の困難は承知の上で一挙に新技術を投入したからだ。マレル少尉はそう考えていた。


 例えば、米軍戦車の多くが装備しているボギー式サスペンションは、その原型となるM2軽戦車の開発から数えれば既に15年近く前の設計だった。

 その間にも可動範囲の増大や、装備するばね特性の変更など部分的な改良は施されていたのだが、二度目の欧州大戦で急速に進化した欧州列強の戦車に関する技術革新を全て吸収しきれる程ではなかったはずだ。


 それにM3中戦車では、ソ連製の105ミリ砲を装備した新型になると装甲などの強化も加えた自重の増加が限界に達していると判断されていた。そこでM3中戦車でも最新型ではサスペンションユニットは刷新されていた。

 ところが、この新型サスペンションはばねの配置等が変わっているらしいが、車体の互換性維持などからその寸法は従来型からの大きな逸脱は許されなかったようだ。

 これに対して日本軍では転輪なども平気で更新していた。サスペンションは欧州大戦開戦当時とは原理からして変わっているらしいが、これが米軍上層部が言うように無節操で兵站に負担を掛けるだけの行為なのか、日本人なりの合理性の結果なのかは専門知識の無いマレル少尉には判断は出来なかった。



 ただし、米軍の戦車が全て戦訓を反映していないかというと、そうでもないようだった。ある意味でマレル少尉達の目前で待機しているM4軽戦車は、旧大陸での戦闘を受けて設計開発されたものだったのだ。

 米軍戦車の例に漏れずM4軽戦車にはM3軽戦車という原型車が存在していた。というよりも、M2軽戦車からM4軽戦車までの米軍軽戦車には、技術的な断裂は存在していなかった。ただ段階的に改良が施された結果、外観まで大きく変化したM4軽戦車にまで進化していたのだ。


 だが、M3軽戦車には他の米軍戦車には無いある意味における特徴があった。旧大陸における実戦経験をこの軽戦車は有していたのだ。

 米国は賢明にも2度の旧大陸の戦争で中立を保っていたから、本来は米国製戦車が旧大陸で実戦を経験しているはずが無く、それは事実でもあった。M3軽戦車が米国で生産された仕様のまま実戦に投入されたわけではなかったからだ。



 第二次欧州大戦でも米国自体は中立を宣言していたのだが、欧州の向こう側には悪辣なドイツ人の奇襲を受けた友好国ソ連が存在していた。

 もう十年近く前の話だからマレル少尉も良くは覚えていないが、当時のルーズベルト政権は親ソ派の傾向が強かったから、中立に反する武器に該当するものを除く物資の売却供与を行う国内法を成立させると、米東海岸からソ連領ムルマンスクを往復する船団に大量の物資を載せて運航させていた。


 ドイツや欧州諸国は戦争遂行に使用される物資の供与は中立国違反ではないかとの懸念を表明していたが、国際連盟にとって戦争の大半の期間はソ連は敵国の敵国という敵対関係とは言いかねる微妙な関係にあったから、表向き米国との敵対行動は控えていた。

 ドイツも大国の中で最後の中立国である米国を刺激することを恐れていたのか、米国の商船で構成された輸送船団に直接手を加えるのを躊躇っていたようだ。


 当初完全に原材料や食料品などに限られていた援ソ物資だったが、米国政府は次第にその範囲を拡大させていった。大量のトラックなどは国内自動車産業への発注という意味もあったのかもしれないが、この物資の中にはM3軽戦車を原型としたものもあったのだ。

 勿論だが、中戦車や重戦車ほど厳しくなくとも、全周砲塔を有する軽戦車の原型そのままではどう解釈しても兵器そのものだった。

 そこで米政府は、もともと軽量級だったM3軽戦車から全周砲塔を取り払うだけではなく、原型車両では車体左右や車体前面に装備されていた機関銃を排除した型式をわざわざ設計すると、非武装の大型トラクターという建前でソ連への輸出を強引に実現化していたのだ。

 実際には、砲塔を取り除かれて米国から輸出されたM3軽戦車は、ムルマンスクで陸揚げされた端からソ連製軽戦車の砲塔をマウントアダプターを介して載せられると、米ソ混成の軽戦車として戦場に投入されていたのだ。



 マレル少尉が士官学校の教官から聞いた話では、当時のソ連軍に軽戦車が不足していたと言うわけではないらしいが、この辺りは騎兵科と歩兵科で解釈が全く異なっていた。

 軽戦車を管轄する騎兵科の中では、ソ連製砲塔を装備したM3軽戦車は大活躍したということになっているのだが、マレル少尉の教官のように歩兵科将校の解釈はまた別だった。


 当時のソ連軍では、M3軽戦車に砲塔を譲り渡した自国製の軽戦車などは車体を自走砲に転用されていたというのだ。

 本来のM3軽戦車に装備された37ミリ砲よりも強力な45ミリ砲を装備した混成軽戦車だったが、ソ連製の軽戦車車体を流用した自走砲は、開放式で固定された戦闘室とはいえ遥かに格上な75ミリ野砲を装備していたというのだ。


 結局は機動力より戦場で要求されるのは火力だと教官は結んでいたのだが、マレル少尉にはそれはそれであまりに強引な結論であると考えていた。

 確かにソ連軍は自国製軽戦車を火力支援用の車両に転用していたのだが、その代わりに米ソ混成戦車は純粋な偵察用軽戦車としてだけではなく、主砲を対空機関砲に換装した対空戦車型まで生産されてソ連軍内で重宝がられていたようなのだ。

 大口径火砲の火力が歩兵に求められたのは確かだが、軽戦車も軽戦車なりの戦いを行っていた、ということではないか。むしろソ連軽戦車の空白をM3軽戦車はよく埋める事ができたとも言えるだろう。損耗も多かったが、結局ソ連軍は終戦まで混成軽戦車を使い続けていたからだ。



 そしてソ連軍における実戦経験は、米国軽戦車にも影響を及ぼしていた。ソ連が言うところの大祖国戦争の戦訓を、M3軽戦車の後継として開発されていたM4軽戦車に反映する事ができたというのだ。

 ―――だが、その貴重な戦訓がもたらした物というのがこの手すりということなのだろうか……

 部下と共に集積所に赴いたマレル少尉は、なんとも言えない複雑な表情で角張ったM4軽戦車の砲塔に頑丈に溶接された手すりを眺めていた。

M4軽戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/m4ltk.html

M3中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/m3mtk.html

M6重戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/m6htk.html

ブラックプリンス戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/blackprinceinfantrytank.html

三式中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/03tkm.html

四五式戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/45tk.html

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
(´・ω・`)あぁ…戦車跨乗兵だったかぁ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ