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1951ある法務中尉の災難5

 ―――要するに問題は占領地帯の人口が過大であるということか……

 そう結論付けた田中法務中尉に私達は揃って同意していた。


 日本軍によって占領されているアパリ周辺は、元々カガヤン・バレー地方北部の積み出し港として機能していた。農村部がそうであるようにアパリ都市部のみで自給自足できる体制ではなかったのだろう。

 それがアパリ周辺の航空基地外縁陣地で内陸部と遮断された事で外部からの人員、物資の流入が途絶えたことで都市としての機能に深刻な影響が出始めていたのだ。


 アパリ上陸作戦の作戦計画立案時においては、現地に残留する住民の存在にはさほど考慮されていた形跡はなかった。都市部が存在することは分かっていたが、現地を統治する政庁の占領などを除けば民政に関しては後回しにされているか無視されていた。

 そもそも当初の日本軍の予想では、上陸部隊による圧迫を受けて撤退するであろうこの地域の米軍に従って大部分の住人はカガヤン・バレー地方奥地に避難していくだろうと考えられていたのだ。


 ところが、第5師団の迅速な作戦行動によるものか、予想に反して米軍に取り残された現地民の大半はアパリ周辺に残留してしまっていた。当初は鉄道建設工事で単純労働者としての雇用が行えたものの、効率的なコンテナ輸送の実現が皮肉な事に単純労働の機会を奪っていたのだ。

 今のところ失業者の群れは治安悪化の根本的な原因とはなっていなかったが、潜在的な不満は生じているようだった。仕事もなく街を屯する現地民の存在は、いつ組織的な抗日運動に結びつくか分からなかった。

 後方の日本本土や満州共和国から送られてくる物資は豊富だったから、空軍の航空基地や第2師団などの駐留部隊に加えて残留する住民の腹を満たすほどの食料はある筈だが、これを労働の対価として以外に効率よく分け与える手段の構築は難しかった。



 私達は次に効率よくアパリに居住する現地民の削減を実現化する手段を考え始めていた。

 当然だが第2師団による物理的な排除は問題外だった。マニラ平原の主戦線程ではないが、アパリにもある程度の報道陣は入っているから、日本軍による計画的な住人虐殺を隠蔽することは出来ないだろう。第一、師団長や幹部達が同意しなければ計画的な住人の削減など実施不可能だった。

 では、偶発的な住人との衝突はどうだろうか。私達は日常業務の合間に、その可能性を検討し始めていた。

 可能性そのものは無視できなかったし、計画的に暴動を引き起こすのも不可能ではなかった。住民の間にあえて不満を募らせて大規模な暴動を引き起こすのだ。

 この場合、住民の蜂起は報道関係者、特に外国、さらに言えば中立国の報道の前で行わなければならなかった。占領地帯における不法な武装蜂起を制圧するという形で日本軍の正統性を知らしめるためだった。


 だが、検討を行ってからすぐに住民を単純に抗日運動に駆り立たせる形での蜂起計画には欠点があることに気がついていた。

 独立運動が盛んなスールー海方面などでは有力な独立派組織が武装闘争を繰り返しているというのだが、米国による支配体制が安定していたアパリ周辺では原住民による政治活動は抑えられていた。

 当然住民たちが保有する兵器武具の類も乏しいのだから、農機具や即製の棍棒程度しか持たない民衆を完全武装の歩兵隊が制圧する姿は、過剰な対応と写ってしまうのではないか、私達はそう考えていたのだ。


 良案が出ずに、私達はしばらくは師団法務官としての日常業務を続けていたのだが、次第に住民達同士での衝突は可能ではないかと考え始めていた。基本計画は住民達による武装蜂起計画のものを流用できるはずだった。

 要は住民同士の間に矛盾する情報を流すことで不和を意図的に作り出すのだが、その頃になると私達に与えられた私室の隅に一人の男が座り込むようになっていた。男はルイスという名前の、仕事を求めてアパリに流れ着いた若者だった。

 この頃になると、次第に軍法会議においても占領地体内に居住する民間人を対象とした軍律法廷が開かれる機会が多くなっていた。多くは多少の拘束で開放される程度の微罪だったが、田中法務中尉は不平不満を抱く現地住民の若者の姿を法廷内で慎重に観察していた。


 部屋の隅にうずくまっていただけだったルイスは、次第に意思を持って動き始めていた。現地住民と田中法務中尉が接触する度に、ルイスの立ち居振る舞いは洗練されて次第にどこにでもいる現地住民の顔立ちや仕草に変わっていった。

 そしてルイスは私達となった。夜ごとに現地住民のたまり場に現れたルイスは、住民の間に入り込むと巧みに噂を流していた。同時に軽犯罪の刑期を終えて臨時の営倉であるコンテナから釈放される住民に接触した私達は、立場が異なる彼らの間にも微妙に反する情報を植え付けていった。

 アパリ市街地で、抗日運動と反米感情のもつれから大規模な住民の抗争が発生したのはそれから間もなくのことだった。




 発生していたのは奇妙な暴動だった。鎮圧作戦の指揮をとっていた海保少佐は、眉をしかめながら一度司令部宿舎に戻っていた。足音高く宿舎内を歩く少佐を慌てた様子の将兵が避けていった。

 アパリ全域で暴動が発生しているのに、ある部屋の前には、第2師団から借り出した補助憲兵ではなく貴重な正規の憲兵下士官兵をつけていた。口が堅い子飼いの部下をつけなければ、暴動の発生原因を秘匿出来そうもなかったからだ。


 緊張した様子で敬礼する部下に頷きながら、前置きなしで海保少佐は扉を開けていた。室内にいるのは田中法務中尉だった。そのはずだった。

 田中法務中尉は帝大在学中に高等文官試験に合格した俊才のはずだったが、今はその面影もなく呆けたようにぶつぶつと呟きながら壁の一点を見つめ続けていた。

 鏡でも覗き込んでいるかのような中尉の仕草に釣られる様に海保少佐も視線を壁に向けたが、効率ばかりを重視した宿舎内には、鏡どころか気の利いた壁紙も掛けられていないから、ただの打ち放された白い壁が広がっているだけだった。


 なにか不気味なものを感じて海保少佐は部屋前で立哨していた下士官に顔を向けていた。

「ずっと中尉はあの調子なのか……」

 下士官もちらりと視線を室内に向けてから、薄気味悪そうに頷いていた。

「部屋に入られてからはずっとあの調子です。最初のうちは何人かで話すような大きな声とか、英語……いや現地語が混じったピジン英語も混じっていたのですが、ここしばらくは壁を見つめ続けているようです。なにか喋ってはいるようなんですが、積極的には聞きにいっていません。

 しかし、少佐殿。本当にあの法務官殿が一人でこの暴動を起こしたというのですか……自分らには真面目な学生さんに毛の生えた人にしか見えませんでしたが……」



 下士官の疑問を無視するように海保少佐は続けて尋ねていた。

「ピジン英語といったな。軍曹が聞いて現地語におかしいところはなかったか」

 言語体系に現地人の語彙を加えたのがピジン語と言われる言語だった。現地住民と外来のものとの間で意思疎通を図るためにそのような言語が作られていったのだが、ルソン島では、従来のタガログ語の単語を支配者層である米国人が使用する英語の体系に組み込んだピジン英語が使われていた。

 現地住民しかいない農村部ではどうだか分からないが、米国人や英語話者の現地人が多い都市部ではピジン英語も広く使われているのだろう。現地人の下級官僚程度ならばともかく、米国人に接触する商売人達までが正規の英語を話せるとは思えなかった。


 英語を基礎としていると言っても、最低限の意思疎通を図るために作られた言語だから、使用される単語の数も少なくピジン英語の取得は難しくなかった。

 というよりもピジン語は言語体系として確立されたものではないのだが、現地住民と接触する機会の多い下士官兵の中には英語よりもピジン英語に慣れたものも少なくなかった。

 その一人である下士官が頷くのを見ながら、海保少佐は再び視線を田中法務中尉に向けていた。高等文官試験は、中央官庁の指導者層を選抜する狭き門だった。当然英語は正規の教育を受けた体系だったものを学習していた筈だから、ピジン英語を違和感なく使いこなすのは逆に困難なのではないか。


 田中法務中尉は書類では特に言語能力に優れるとは書かれていなかったなと思い出しながら海保少佐は下士官に尋ねていた。

「中尉を診た軍医は何と言っていたんだ。口止めはしておいたんだろうな」

「この騒ぎで師団病院も大騒ぎですからね。そもそも軍医殿は暴動と法務官殿を結びつけては考えておらんようでした。

 ただ……軍医と言っても専門は負傷兵を切った張ったしてばかりの外科ですから良くは分からんかったようです。戦闘による砲弾病というわけでもないですしね。ただ、多重人格の症状に近いとは言っておられましたが……」

「多重人格、ね……昔の狐憑きだってそんなもんだったのかもしれんな……

 暴動を主導していた現地の人間を何人かとっ捕まえてみたが、ルイスという名前の若者に扇動されたのは確かなようだ。しかも、暴れまわっている連中の右と左と両方に接触している形跡があった。それでいて誰もルイスが仲間だと疑ってはいないようだ」

「まさか、それが法務官殿の変装だと言うんですか……確かに不審な外出から帰ってきて拘束された時は、そんな名前を言ってましたが……」


 海保少佐は苦々しい顔で首を振っていた。

「中尉の中ではそれは変装じゃなく別の人格だということなのだろう。だが多重人格とかいう病気の事はあんまり知らんが、自由に中の人間を変えられるなんて話は聞いたことがないな……

 まぁいい。どのみち第2師団はまた法務官抜きで移動するはめになったな」


 扉を閉めながら、怪訝そうな顔の下士官に海保少佐は苦笑を向けていた。

「あるいは、中尉の思惑はうまく行ったと言えるのかもしれん。中尉さえいなくなれば、騒ぎを扇動した人間は文字通りこの世から姿を消す……というより最初から幻だったわけだが、この騒ぎでアパリを離れようとする市民は少なくないようだ。

 結果的にアパリの人口は我が軍にとって適切な数に収まりそうだが、アパリ駐留部隊はそもそも再度の再編成を行う事になっていたんだ。リンガエン上陸の損害から再編成を終えた第2師団はマニラ戦線に復帰する。その代わりに独立編成の旅団規模の混成部隊が守備隊として来ることになった。

 それだけではなく、守備隊の混成旅団と共に軍政総監部の要員も増員される予定だ。高級人事は俺にもわからんが、混成旅団長に軍政部長を兼任させるとは思えないから、ようやく我々の上司も専任になるだろう。

 もしかすると、予備役の将官か文民が軍政の責任者となるかもしれんな。兵部省や内務省あたりでは、アパリをこれから増えてくるだろう占領地の試験場にしたいという雰囲気があるそうだ。

 憲兵隊の増員も認められるというから、そもそも治安維持に関しても人口に見合った規模になったはずなんだ。それに派遣される中には農林省の指導員も含まれるという話だ」


 首を傾げた下士官に海保少佐は首をすくめていた。

「あんまり便利なものでコンテナ輸送に頼っていたが、本来食料に関しては我が軍は出来るだけ現地自活の方針だからな。まぁ欧州じゃ戦略機動の連続で畑仕事などしとる暇は無かったが……

 だが、アパリ駐留は長引きそうだから、現地の植生や農地の状況を農林省の専門家の力を借りて見極めて畑を作る方針だったそうだ。考えてみれば現地の住民も百姓になってもらえれば人口問題も解決していたんだな」

 裏目に出続けていた田中法務中尉に気の毒そうな視線を向けた下士官の肩を叩きながら、海保少佐は暴動鎮圧に戻っていった。

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おお、コンテナの物流革命によって仕事がなくなった……という産業の高度化の負の側面の話かと思ったら、まさかの「幽霊」の話とは! 思えばこういうホラーみのある話は今までなかったから、とても新鮮でした。新し…
ギリ予想範囲から外れた解決方法(自然発生した暴動を利用すると思っていた)と、完全に予想外の手段(?)。 驚きました。
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