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1951ある法務中尉の災難4

 第二次欧州大戦において、日本本土から遥か離れた戦地を統制することが出来なかった大本営は、軍令面における最高司令部の機能を新設された統合参謀部に移行する形で解体されていた。

 それと同時に陸軍航空隊と海軍航空隊のうち、前線の師団司令部などの指揮下で動く直協機や、艦隊に配備された空母艦載機部隊といった特殊な立ち位置の部隊を除く基地航空隊が合流して空軍が新設されたのだが、同時に軍政機構にも大規模な再編制が行われていた。


 これまでの例に倣えば陸海軍省に並行して空軍省とでも言うべき機関が新設されていた可能性もあったが、実際には陸海軍省は明治の一時期に使われていた兵部省の名で空軍を管轄する部門と共に統合されていた。

 この時、軍事警察である憲兵隊も三軍共通の統合憲兵隊に再編制されて兵部大臣の管轄とされたのだが、統合憲兵隊の再編制に置いては別の思惑もあったと私達も聞いていた。



 統合も何も、発足当時の憲兵隊は単一の陸軍の組織でしか無かった。但し、陸軍大臣の指揮下で軍事警察として働く一方で、海軍内の軍事警察に関しては海軍大臣の指揮下で陸軍所属の憲兵隊が動員されていたのだ。

 海軍独自の警察機構である警務隊が発足したのは、シベリア出兵における皇女救出に関わる件で、シベリアーロシア帝国に師団級の大規模部隊となるシベリア特別陸戦隊を海軍が常駐する羽目になっていたからだ。

 単に長期化する外国への駐留における隊員達の綱紀粛正を図る軍事警察の機能だけではなく、明瞭な敵国であるソビエト連邦の脅威にさらされている同国内において防諜機能が充実した独自の組織が必要だったのだ。


 兵部省と同様の経緯で発足した統合憲兵隊に関しては、この海軍警務隊の独立経緯が影響しているのではないか、そう考えるものは少なくなかったようだ。

 憲兵隊の再統合を主導した一部の憲兵将校の中には、海軍警務隊の機能として重要視されていた防諜機能や一般警察機能の充実を図ろうとしていたものがいたからだ。

 元々憲兵隊は、防諜や治安維持などの任務によっては内務大臣や司法大臣の指揮を受けるものとされていたのだが、彼らはこの方向で組織を強化しようとしていたのだろう。

 こうなると統合憲兵隊は陸海空軍に続く第四の軍とも言える組織となっていたのだろうが、実際には内務省や司法省と再編制された後も統合憲兵隊の関係は従来と法的にも殆ど変わらなかった。


 統合憲兵隊において軍内部の警察としての機能が重要視されたのは、そもそも都市部を除いた農村部などの治安維持組織が弱く、平時から一般警察業務を行わなくてはならない欧州の国家憲兵隊に対して、日本国内では比較的地方の府県においても府県警察部の機能が充実しているためではないか。

 そもそも段階的に近代警察機構を構築していった欧州列強などは、長い歴史の中で成立過程が異なる警察機構が乱立していたのだが、明治維新によって新政府が誕生した日本帝国は、当時最先端の欧州諸国を参考にして強力な内務省の指導で地方警察機構を構築していた。

 だから軍による警察業務は不要だったのだが、兵部省や陸海空軍の内部関係者からも統合憲兵隊の権限拡大に関しては懸念の声が上がっていたようだ。元々統合憲兵隊の一般警察機能に関してはきな臭い噂が流れていた。内務省警保局や警視庁の一部が介入しようとしていたというのだ。



 統合憲兵隊の発足に前後して日本帝国本土では急激な民主化運動が広まっていった。以前から工業化が進んでいた日本では工場労働者など中産階級の増大が顕著であったのだが、これに第二次欧州大戦終結における国家総動員法体制の停止が引き金となって起こったものと解釈されていた。

 民主化による影響は大きかった。地方行政の改革と、権限の拡大が行われていたからだ。

 有事体制の最中に早くも東京府は東京都に再編成されていたのだが、北海道庁、樺太庁の廃止による行政単位となる北海道、樺太県の新設や、台湾の内地化による総督府の廃止など地方行政組織の変化と中央からの権限の移譲は急速に進んでいた。


 俗に「民主化」と呼ばれる政策の中には、特別高等警察やその上部組織である内務省警保局の権限縮小といったものが含まれていた。これまで高圧的に国民の間に広がる危険な思想を取り締まっていた特別高等警察は、その規模を縮小して各警察組織内の公安部に再編制されていたのだ。

 尤もこの再編制は有事体制の中であまりに肥大化していた警保局の機能を分散させて効率化を図るためでもあった。実働部隊である特別高等警察に加えて出版物取締りの一環で著作権に関わる行政まで警保局が行うようになっていた結果、組織の規模が内務省内の一部局としては釣り合わなくなっていたのだ。


 他にも民主化政策による再編制を受けた省庁は多かったのだが、警保局内部では特に危機感が強かったようだ。日本各地に散らばる公安部、公安課を束ねる警保局保安課の規模が縮小されたことで、全国に広がる中央集権的な公安活動の効率性が途絶える事になるのではないかと考えたのだろう。

 彼等が目を付けたのが新たな治安維持勢力となり得る統合憲兵隊だった。日本全土に分散する憲兵隊の情報網と軍が有する機動性を併せ持つ実働部隊に転用しようとしていたのだ。

 元々憲兵隊は内務省との関係が深いし、人事面での交流も広く行われていた。彼らは警保局が主導する形で統合憲兵隊を欧州の国家憲兵に類する組織に再編成しようとしていたのではないか。



 統合憲兵隊の設立や運用には、こうした軍内外諸勢力からの干渉が多かったようだが、いかにも叩き上げといった印象の海保少佐が上層部の政治的な思惑に関わっているとは思えなかった。

 私達は書類を持って私室に移動していた。師団司令部と軍政総監部が同居する建物は、アパリ中心部の元々行政機関が使用していた建物を中心としていくつかの宿を徴用した施設群だったが、司令部に近い建屋にまとまって将校の宿泊施設も設けられていた。

 中尉に与えられる私室としては充実した部屋だったが、実際にはここも執務室の延長なのだろう。普段は憲兵隊と共同の執務室で勤務するものの、法務官として必要な機密性の高い書類を取り扱う時は私室を使えという事ではないか。


 私達が分担して読み込んでいたのは、第2師団がアパリに移動して来てから開廷された軍法会議の記録だった。それ以前の憲兵隊による勤務記録から見ても、軍警察官僚としての海保少佐の有能さが伺えるものだった。

 警察権の曖昧な外地、特に占領地帯における憲兵隊の権限は大きかった。軍内警察業務だけではなく、占領地内の敵性市民に対する一般警察業務も行わなければならないからだ。

 再編制直後の統合憲兵隊を自分達の思惑通りに改造出来なかった国内の勢力は、ここぞとばかりに占領地に展開した憲兵隊への介入を図っていただろう。そうした介入をやり過ごしながら、海保少佐は冷静に任務をこなしていった事が書類の奥からも読み取れたのだ。



 海保少佐が言ったとおり、師団の定数などからすると第2師団に所属する下士官兵の起こした事件の数は平時と比べて増大していた。田中法務中尉の着任直前にアパリを離れた第5師団の法務官は大分苦労させられたのではないか。

 その一方で件数に比して軍法会議で下された処分は軽いものが多かった。臨時の営倉入りも期間は事件の軽重からすると短いだろう。或いは、担当した法務官には他師団の下士官兵を裁くことに躊躇があったのかもしれない。

 むしろ第5師団の将兵の方が刑罰は重いほどだったのだが、彼らの大半は既にアパリから離れていた。営倉入りは移動した先のリンガエン湾で改めて行われるか、輸送艦で移動中に原隊から隔離される事で禁固刑の期間に充当されると判断されたのだろう。


 迅速に行わなければならない両師団の移動計画からしてやむを得ない措置だったのだろうが、営倉入りした第2師団の兵達からすれば、喧嘩両成敗のはずが相手だけが逃げ延びたと受け取ったのではないか。

 それに、書類を時系列的に並べて分析すると共に他の書類と付き合わせると、海保少佐が最初に言った効率的なコンテナ輸送によって生じている弊害が見えて来た気がしていた。


 ある時期から師団の下士官兵だけではなく敵性住民の摘発や暴動の鎮圧が増えていた。暴動と言ってもまだ散発的なもので単に喧嘩沙汰と変わらないようだった。

 その時期は第5師団主力の移動が終了していた頃だから、喧嘩相手の他師団の兵がいなくなって第2師団の将兵が大人しくなったと解釈することも可能だったが、現地人の不平不満が大きくなっていた事と直接の関係はなさそうだった。



 別の書類は、アパリの港から航空基地まで敷設された鉄道の建設計画に関するものだった。技術的な書類も別にあったが、そちらは私達の推測通りに鉄道省規格を簡素化したもので施工されたというものだった。

 ただし、路線は簡易でも引込線はやたらと多かった。コンテナを満載した列車を効率よく運用するために待機や荷役で引き込まれる列車が多いのだろう。結果的に敷設された鉄道の総路線長は規模に対して長かったようだ。


 レールや車両などは日本本土から持ち込んだにせよ、アパリ周辺では膨大な工数を消費して敷設工事が行われた筈だった。私達が手にした書類はその証拠だった。それは雇用した現地人の労務記録だったからだ。

 投入された人工は、建設開始から多かった。鉄道連隊は相当前から乗り込んで基本的な測量などの準備を終えていたのだろう。その建設計画に従って複数の工区で同時に敷設工事が行われたのだ。

 工事監督や精度が必要な重要な作業には鉄道連隊の将兵や鉄道省などから派遣されてきた軍属の技術者が配置されていたようだが、単純労働には多くの現地人達も雇用されていた。


 最初に敷設された路線は当然だがアパリの港湾部周辺だった。おそらくコンテナ輸送専用に改造されたあのクレーン台船もその頃に回航されてきたのだろう。アパリ港湾部には一時的に山とコンテナが積み込まれたのではないか。

 初期に運びこまれたコンテナは、糧秣や装備品などの第2師団の再編成や占領地帯の宣撫工作用の物資だったようだ。そして鉄道敷設工事に駆り出された現地人には、軍票や食料の現物支給の形で給与が渡されていたのだろう。

 つまり米国という支配者がいなくなった現地人の人心を、鉄道敷設という公共事業で繋ぎ止めていたのだと言える。



 ところが、師団の交代が一段落したのと時を同じくして単純労働が多い鉄道建設の仕事は一段落していた。機械化工兵部隊の集中投入によって造成された航空基地群と荷役を行うアパリ港湾部を網の目のようにして繋ぐ鉄道網が短時間の内に構築されていたのだ。

 米軍が混乱しているすきをついた形の大工事だったが、その代わりに雇用されていた現地人労働者は一気に暇を持て余すようになっていた。一度建設してしまえば、線路の補修や運航といった作業は鉄道連隊の人員で充分に回せてしまうからだ。


 軍政総監部では港湾部で発生するであろう膨大な物資の荷卸作業に雇い入れれば良いと考えていたようだが、実際にはアパリ港で行われているのは効率を極めたコンテナ輸送であり、そこには未熟練労働者の群れはもはや必要無かったのである。

 結果的に失業者だらけになってしまったアパリの現地住民は、潜在的な脅威となりつつあったのだ。

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