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1951ある法務中尉の災難2

 台南の高雄を出港した数隻の内航用貨物船は、海防艦の先導でバシー海峡を越えていた。直接護衛は鵜来型海防艦が数隻と貧弱なものだったのだが、上空を行き交う哨戒機の数は多かった。海軍の対潜哨戒機の他に空軍も哨戒機を放って周辺海域の警戒を行っているようだった。

 ルソン島北部のアパリ航空基地に向かう航路だけではなく、島内中央部のマニラ平原を進攻する主力部隊への補給線もこの海域に依存しているからだろう。



 ―――つまりそれだけアパリの航空基地は国際連盟軍にとって重要ということか……

 台湾から離陸して北から飛来する機体と、その逆にアパリから北上する哨戒機を眺めながら私達はそう考えていたのだが、第三山城丸の乗員達にはそんな感慨に浸るような余裕は無かった。


 バブヤン諸島を巡る頃には、早々と第三山城丸の船倉区画に被せられていた防水布が剥がされていた。その頃になって宇品での乗船が遅れていた結果、私達がこの船の荷役作業を見るのはこれが初めてだということに気がついていた。

 防水布に隠されていたのは、もっと大型の貨物船が積み込んでいた箱状の貨物だった。

「もしかして、これが報道されているコンテナというものなのですか……」

 船橋で私達は首を傾げながらそう尋ねたが、出港時と同じく慌ただしい雰囲気になっていた伊東大尉は叱責するように言った。

「法務官、アパリ入港は本船が1番手になります。時間がありませんから、下船の準備をしてください。乗員は多忙ですから改めての挨拶は結構です」

 私達にそう言うと、乗員に次々と命令を出していく伊東大尉は、もうこちらに背中を向けていた。その様子に鼻白みながらも私達は下船の準備を始めていた。


 下船と言っても赴任命令が急だったものだから、行李の他は身一つしかない。部屋を出た私達はタラップ近くで行李を抱えて待機していた。バブヤン諸島南端を回り込むと、アパリの街はすぐに見えていた。

 興味深げな私達の視線の先には、河口近くから勢いよく接近する曳船の姿があったが、それは軍用の大型曳船だった。外洋で大型艦を牽引出来そうな曳船は、川の流れに逆らって強引に主機出力を落とした第三山城丸を桟橋に近づけていた。


 だが、桟橋が近付くとそれが誤解であることに気がついていた。アパリの桟橋に直接係留されていたのは、この第三山城丸位の大きさはありそうな大型の台船だった。

 ただの台船では無かった。甲板上には大型艦の艤装工事にも使えそうな大容量のクレーンが設置されていたのだ。しかもその奥には同じような台船が他にも待機していた。


 唖然として私達がその様子を見ていると、台船の背後の空き地に例のコンテナと呼ばれる箱が積み上げられているのに気がついていた。しかも、その周辺にはレールも敷かれているようだった。空の貨車を引いた機関車が待機していたのだ。

 その直後に衝撃が走ると、早くも台船と第三山城丸は接舷していた。手慣れた様子の双方の甲板員達が係留作業を済ませると、台船の上のクレーンが動き出していたが、その頃にはついでのように降ろされたタラップを伝って私達は台船の上に降り立っていた。

 回転するクレーン基部や慌ただしく働く甲板員の邪魔にならないように恐る恐る私達は行李を掴んで移動していたのだが、その頭上を次々とコンテナが降ろされていった。



 台船は、敷設された線路と水平に係留されていた。それにそのクレーンの先端には、よく見ると四角い枠が取り付けられていた。しかも枠の外形はコンテナに一致していた。

 クレーン先端が船倉に降ろされると、甲板員達が群がって僅かな時間でコンテナの天板に枠を固定していた。おそらくは最初からクレーン枠とコンテナの双方を結合する金物が仕込まれているのだろう。

 甲板員達が手にした工具は小さく作業は早かったから時間を短縮するために専用の器具が開発された可能性が高かった。


 クレーンとコンテナが繋がれた合図が甲板員から送られると、クレーンはコンテナを船倉から持ち上げて陸地に向けて旋回していた。

 陸地で待ち構えていたのは空の貨車だった。長尺貨物用の長物車だと思ったのだが、台船から桟橋によじ登って近くで見てみると、貨車の天板にも金物が配置されているのが見えていた。

 待ち構えていたのはどうやらコンテナ輸送専用に開発された貨車のようだった。車体側の錆具合などから新造ではなく既存型式からの改造品と思われるが、高温多湿なルソン島の環境では持ち込んだ新造の車両でもすぐさま錆びていっただけかもしれない。



 陸地側にも貨車とともに待ち構えていた作業員がいた。彼らも船倉区画と同様にコンテナを貨車の上に乗せると手早く金具を操作して固縛していった。最後にコンテナの上に登ってクレーンとの接続を外すと、クレーンと貨物列車双方が動き出していた。

 機関車が汽笛を短く鳴らすと、僅かに貨車が動いていた。正確に1両分だけ前進していたのだろう。その頃にはクレーンはもう第三山城丸の船倉に首を突っ込んで次のコンテナを固定していた。

 あとはその繰り返しだった。私達が見ている前であっという間に1隻分のコンテナを積み終えると、ちっぽけな機関車は今度は長い汽笛を鳴らして発車していった。


 列車が離れると、クレーンは次に帰りの便らしい空き地に積み重ねられていたコンテナの列を第三山城丸の船倉に運び込んでいた。中身が空なのか、積み下ろしされたものよりも更に軽々と運ばれたコンテナは、短時間で船倉内に収められていた。

 一隻分だとすると異様な程素早い荷役作業だった。桟橋の上で唖然としていた私達の目の前で、早々と係留を解いた第三山城丸は台船から離れていった。伊藤大尉の言うことは嘘ではなかった。別れを言うほどの暇もなく、次々とコンテナ積載用に改造された戦時標準規格船は荷役を終えていったのだ。



 荷役の光景に見とれていた私達は、次の列車が来る前に慌てて線路を横切って桟橋を離れようとしていたが、よく見ると足元のこの線路も異様なものだった。

 先程の貨車は、鉄道省規格の標準軌であるように思えた。そもそもコンテナの寸法は、鉄道貨車に搭載できる最大限の大きさという観点で決められたと新聞で読んだ気がしていた。そうなるとコンテナを運び込むのは日本本土と同じ国鉄の規格でなければ不具合が出るのだろう。

 そもそもルソン島の鉄道網がどの程度整備されているかは知らないが、こんな僻地に米国が敷設した鉄道が存在するとは思えなかった。

 おそらくは貨車も機関車も日本本土から苦労して持ち込まれたものなのだろう。日本陸軍には占領地内の軍用鉄道の建設作業を行う鉄道連隊が編制されていたから、運用もこの部隊が行っているのではないか。


 ただし、表面的な寸法は日本本土同様の鉄道省規格である標準軌なのだが、よく見ると線路の規格そのものは耐荷重値などが落とされた低規格であるように見えた。

 むしろ、戦地に建設される鉄道といえば、通常は簡易な軽便鉄道となるのが常識的な考えだった。アパリに建設された鉄道では、線路幅などはコンテナ専用貨車を運行するために幅広にとっているものの、建設工事自体は軽便鉄道のそれに則ったものでしかなかったのだろう。

 自動貨車などと比べれば輸送効率は高いのだろうが、今のようにコンテナを満載した貨車が頻繁に行き来するのであれば、線路にかかる負荷も高いのではないか。

 貨物船一隻ごとに貨物列車が用意されているのは、長編成の列車を繋ぐために時間をかけるよりも早々と貨物を港から移送するためかとも思ったが、実際には大重量となる長編成貨物列車の通過に線路が耐えきれないだけなのかもしれなかった。



 日本本土でも、鉄道省が管理する幹線やこれに準じる重要支線などとは違って、簡易な規格で建設された鉄道は少なく無かった。

 鉄道輸送の効率化のために明治期に私有鉄道の買収を推し進めていた鉄道省ですら吸収を躊躇した雑多な私有鉄道だけではなく、拓殖鉄道、森林鉄道などのそもそも通常の旅客輸送を前提としていない鉄道だった。

 しかも、それらの簡易な鉄道はそれぞれ法的根拠や所管の省庁も異なっていた。僻地における拓殖促進を目的とした拓殖鉄道であれば北海道庁や台湾省になるし、木材を森林の奥深くから輸送する森林鉄道であれば農林省の営林署長が運行の責任者となっていたのだ。

 鉄道省の直接管轄下にないそうした軽便鉄道の多くは、運行や安全規則はいい加減なものだった。脱線や衝突事故は日常茶飯事だったが、運行する車両自体が簡易なものが多かったから復旧は早かった。それに軽便鉄道の多くでは旅客や貨物が少量で正規の手段では経費を賄えないのだ。


 流石に鉄道連隊が運行するこの路線は、もう少し本格的なものであるようだった。貨車の規格は、鉄道省のそれに準じるものであるのは間違いなかった。本土から持ち込んで、あの台船のクレーンで陸揚げしていったのだろう。

 意外なほど数が多い機関車の方は、本土の幹線では構内の入れ替え作業などに使用されている小型機のようだった。動輪の数は少ないし、独立したテンダー車を牽引しないタンク機関車だったが、炭庫や水タンクの容量は申し訳程度のものでしかなかった。

 この型式では頻繁な補給を必要とするはずだが、港と航空基地間を繋ぐだけの短距離鉄道だからさほど問題とはならないのだろう。

 それに構内での入れ替え作業用の機関車だから、速度は遅くとも場合によっては本線を走ってきた列車と繋がれることもあるし、当然車軸も標準軌で設計されていた。


 確か、この型式は先の第二次欧州大戦時に戦時規格として開発設計されたものだった。ただし、日本国内の輸送量増大という需要に対応したものではなく、ある意味ではもっと広い視野で開発が進められた車両だった。

 この機関車は日本国内の幹線では構内入れ替え用の小型機でしかないのだが、戦地への急速投入や、発達途上のアジア諸国への輸出も視野に入れて開発されていた。

 基本形は鉄道省規格の標準軌だったが、車軸の変更が容易にできるように予め設計されていたから、製造段階で車軸を入れ替えれば狭軌の線路上でも運用できた。欧州列強が無秩序に建設していったアジア諸国の鉄道は規格が乱立していたからだ。

 原型が速度の出ない小型機であったのも、線路の耐荷重を含む周辺の規格が貧弱なアジア圏の鉄道網で汎用的に使うなら軽量級の機関車とせざるを得なかったのだろう。


 戦時標準規格として開発が進められていた機関車だったが、本格的な生産は戦後になっていた。当初の予想とは少しばかり違ったが、独立による輸送需要の増加を満たす為にアジア諸国からの追加発注が相次いでいたのだ。

 当初は汎用的な規格だったが、早くも国情に合わせた仕様の変更も多いらしいと私達も聞いていた。航続距離増大のために車内炭庫を廃してテンダー車を連結したり、速度増加の為にボイラーの交換を行った型式もあるらしいが、ここまで来ると基本設計からしてもはや別物なのではないか。

 もしかすると、このアパリに大量に投入されたこの機関車も元々は輸出用に製造されていたものであったのかもしれない。



 いずれにせよ、このアパリではコンテナ輸送という画期的な手段を用いて効率を極めた輸送体制が確立されているようだった。私達は未来的とも言える光景に目を奪われていたのだが、次々と行き交う短編成の貨物列車を見てようやく気がついていた。

 ―――これではまた貨物専用線で便乗もできないのではないか。

 おそらくは宇品線も同じような光景が、もっと大規模になって繰り広げられていたのだろう。そう考えながらが行李を引き摺って目的地を探し求めていたのだが、私達はそこで意外な言葉を聞いていた。

戦時標準規格船一型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji.html

鵜来型海防艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/esukuru.html

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