1951ある法務中尉の災難1
―――自分の判断は、一体何が間違いだったというのだろう……
軍政総監部内に与えられた自室の壁にかけられた鏡を見つめながら、私は長い間そう考え続けていた。
私達がフィリピン諸島の中核であるルソン島、その北端に位置するアパリに到着したのは、この地域が上陸した日本軍によって占領されてから数カ月経ってからの事だった。
日本陸軍を主力とする国際連盟軍は、ルソン島中央部のマニラ平原北西部に位置するリンガエン湾に上陸していたのだが、これに先んじて側面援護を行う為にアパリが占領されて航空基地が開設されていたのだ。
私達が到着した頃には、単なる上陸作戦の側面援護ではなく、ルソン島全体の航空作戦を行う為にアパリの航空基地を巡って膨大な物資が流れ込んでいた。原型となっていたのは米軍が建設した基地だったのだが、機械化された工兵部隊を投入して大規模な複合基地へと進化していたのだ。
だが、航空基地の兵站拠点となるアパリの光景は異様なものだった。物資を日本本土やバシー海峡を挟んだ台湾から運んできているのは、ありふれた内航用の貨物船だったのだが、荷役の様子は従来とは一変していたのだ。
千トンにも満たない貨物船は、戦時標準規格船として第二次欧州大戦中に大量建造された型式だった。有事の際に性能を揃えた船舶を大量建造するために設計が最適化されたものだったのだが、使い勝手の良さから以前からこのクラスの貨物船は多用されていた。
国際連盟軍主力が上陸した穏やかなリンガエン湾内部には、大規模な港湾施設が米国統治下で建設されていたのだが、カガヤン川の河口に位置するアパリでは地形上一万トン級の大型貨物船が接岸するのは難しいという話だった。
だから、内地扱いの台湾からなら差し渡し三百キロほどしか無いバシー海峡を越えて内航用の貨物船が続々とアパリに向かっていたのだが、実は私達をルソン島に送ってくれたのもこの中の一隻だったのだ。
私達は運良く日本本土からアパリまで物資を移送する貨物船の一隻に便乗することが出来た。東京の兵部省からルソン島に赴任する便を探している間に丁度便乗できそうな船便を事務の人間が見つけてきてくれたのだ。
戦時標準規格とはいえ、私達を乗せた貨物船は内航用のものだからこの型式の船が先の大戦でも欧州まで行くことは殆ど無かったのだが、離島間などで発生する雑多な輸送に対応する為に、原型の設計は若干の旅客輸送にも対応していた。その旅客スペースが人員輸送に用いられていたのだ。
だが、私達は危うく寄港先の広島から出港する貨物船に乗り遅れるところだった。東京から急行でたどり着いた広島駅から港に移動するのが手間取ってしまっていたのだ。
広島駅から陸軍が管轄する軍事用の宇品港までは国鉄宇品線が敷設されていた。私達も広島駅で山陽本線から宇品線に乗り継ごうとしたのだが、実際には宇品線は貨物専用線に指定されて旅客の輸送は廃止されていたのだ。
有事の際には一般の旅客営業を停止して軍専用線に切り替えられるとは私達も聞いていだのだが、軍人でさえ乗せられない貨物専用線になっているとは知らなかった。だから宇品港までは市電で移動したのだが、そこから軍用区画に入るのに手間取る羽目になっていた。
しかし、この時はまだ私達は高を括っていた。貨物船の荷役は大掛かりな仕事で時間がかかると聞いていたからだ。一万トン級の大型貨物船などは荷役に1週間位はかかると言うから、内航用の貨物船でも列車が遅れたぐらいの遅延は問題ないだろうと考えていたのだ。
ところが、迷いながら宇品港でたどり着いた便乗船のタラップ前では、予想に反して乗員が焦った様子で私達を待ち構えていたのだ。
唖然とした私達から乗員は行李を強引に奪い取るように運んでくれたのだが、実のところ私達自身でさえ持ち上げる勢いだった。そして甲板に上り詰めた私達が振り返ると、早くも貨物船のタラップは引き上げられていた。
便乗したのはあまり大きくはない船だったが、それだけに大型船にはない勢いのようなものが感じられていた。あるいは小回りの良さがそのような雰囲気を生んでいたのかもしれない。
文字通り追い立てられる用に、私達が乗り込んだ船は桟橋を離れていった。沖には既に次に桟橋に付ける船が待機していたからだ。
このクラスは曳船の支援無しで離岸が出来るらしいが、人手は不足しているようだった。私達の行李を客室に放り込んだ乗員も最低限の説明だけをすると慌ただしく立ち去っていったからだ。
客室と言っても船橋と一体化した単一の上部構造物内に設けられていたから、普段は物置代わりに使われているらしい。意外と寝具は清潔だったが、その寝床を確保する為に脇にどけられて固縛された雑多な荷物の上に私達の行李も載せられていた。
客室で待っていてもしょうがなかった。私達はお上りさんのように周りを見回しながら船橋に上がっていた。小さな船だから、迷う必要はなかったのだが、部外者の入室にも乗員達は無頓着だった。
小さい船とはいえ流石に船橋からの視界は良好だった。明かりがなくとも降り注ぐ陽射しで海面が輝いて眩しい程だった。宇品の桟橋を離岸した貨物船は、広島湾内を回頭していた。
近くを行き交う船は多かった。大型の貨物船も多く、便乗した貨物船は湾内を行き交う船舶の中ではまだ小さい方だったが、それでも大型船の隙間を縫うように移動する小舟程軽快には動けそうもなかった。
船長らしい姿はすぐに見つかったが、湾内の航行に緊迫した様子だったから安易に声をかけるのはためらわれていた。見張りや操舵員と一体になったかの様な仕事振りだった。海図を確認しながら周囲の状況に合わせて微妙な舵取りが続いていたのだ。
一段落したのは、厳島を右手にして広島湾内から疎らに島影を望む安芸灘に抜け出した頃だったが、気がつくとは早くも宇品出港から1時間程は経っていた。
それに緊張感は緩んだものの、船橋を離れる乗員はいなかった。まだ警戒しなければならない海域が続くらしいのだが、ようやく私達に気がついた様に船長が振り返っていた。
意外な事に、貨物船の乗員は船長を含めて海軍の制服を着ていた。ただし、それも草臥れた第三種の開襟姿で、甲板員などは汚れるためか軍衣ではなく何処にでもありそうな作業着のものも多かった。
私達は慌ててこちらに振り返った船長に敬礼しながら申告しようとしていた。相手は明らかに上級者だったからだ。疲労の陰が隠せない様子の船長が着込んだ軍衣の肩には大尉の階級章が縫い付けられていたのだ。
尤も、相手は予想外に物腰が低かった。おそらくは船長も徴用された民間船の乗員なのだろう。
「便乗される法務官殿ですな。特設運送艦第三山城丸艦長の伊東です。居室の方は使えそうでしたか。最近まで砲術長たちが使っていた部屋だから、数日過ごすのに問題は無いと思うが……」
そう言うと世間話のように伊東大尉は続けた。若く見えたが、やはり艦長は以前からこの貨物船の船長を務めていたところを、船ごと海軍に徴用されていたらしい。
だが、奇妙なこともあった。特設運送艦は、実質的には単に徴用された貨物船だった。この船にも見たところ武装も施されていないようだし、伊東大尉が言うように砲術長が必要な部署があるとは思えなかったのだ。
あるいはこの船も上陸作戦時には敵前での輸送に従事していたのかもしれない。それで危険な海域を航行するときに限って自衛戦闘用の対空機関砲程度を装備して兵科の将兵を乗せていたのではないか。
そう考えてみると、船橋付近には焼け焦げた様な不自然な跡もあった。分厚く塗り固められた塗料が高温にあぶられて剥がれかけていたのだ。あれも戦闘の跡だったのかもしれない。
もしかすると取り付けに手間取る機関砲ではなく、手摺に固縛できる軽機関銃のようなものを装備していたのかもしれないが、その程度の武装に「砲術長」を備えるのは過剰な気もしていた。とてもではないが、こんな小さな貨物船が勇壮に戦う姿は想像できなかったということだ。
私達は首を傾げていたのだが、伊東大尉は気にすることなく続けた。相手が陸軍の軍属とはいえ、大尉はあまり戦闘経験の事は話したがらなかったから、なにか機密に関わるような事があるのかもしれない。もちろんこちらも素知らぬ顔をするしかなかった。
伊東大尉が言うには、実は私達は運が良かったらしい。このクラスの船が本土まで赴く事は中々機会が無いというのだ。普段は1万トン級の貨物船ばかりが日本本土と台南の後方拠点間の輸送を担っており、その一方でこのクラスの貨物船は台南とアパリ間の短距離輸送に専念しているらしい。
第三山城丸の整備と荷役の機会が偶々かち合った事で、広島からアパリまでの直行便が出来ていたものの、普段であれば貨物船に便乗できたとしても何度か乗り換えさせられる上に、本土と台湾を結ぶ便は貨物輸送に特化しているからまともな客室など期待出来ないという話だった。
この話にも私達は違和感を覚えていた。それでは日本本土から送り込まれる貨物は一度台湾で全て陸上に荷揚げされることになるから、態々膨大な時間をかけて再度船積みされる事になる。
アパリの港湾設備が貧弱だという話は聞いていたが、それならば尚の事このクラスの小型貨物船で直接日本本土とアパリ間で直通便を構築すればよいのではないか。
私達の疑問が解消されたのはかなり経ってからの事だった。説明を続けていた伊東大尉は、しばらくして見張り員の報告を受けると操艦指揮に戻っていたからだ。
既に第三山城丸は狭隘なクダコ水道に差し掛かっていた。水道を越えた後は警戒も再度緩んでいたが、佐多岬を左手に進みながら九州沖に差し掛かると既に船団が待ち構えていた。
別府湾で待機していた船団は伊東大尉が言ったとおりに大型貨物船ばかりで構築されていた。急いで予備から現役に復帰したのであろう1万トン級の汎用輸送船である戦時標準規格船2型ばかりではなく、貨物輸送に特化した同3型の姿も多かった。
私達はその3型貨物船の多くが甲板上に大きな箱のようなものを積み重ねていたのに気がついていたのだが、船団を組んでみると角度が悪く第三山城丸の位置からでは詳細は分からなかった。
航路途上で離脱するからか、第三山城丸は船団の中でも最後尾に位置していた。随分と数の多い船団に見えたが、実際にはここで待機していたのは、瀬戸内海から出港する船のみらしい。それに護衛艦艇の数もまばらだった。
太平洋側の横浜や名古屋から出港した船の多くは、米軍の本土空襲を警戒しつつ四国沖を通過して豊後水道の出口付近で合流するらしいし、海軍の哨戒航空隊が配置された佐伯では船団に随伴する護衛艦艇も準備されているということだった。
ただし、厳密に船団の航行計画が管理されていたせいか、別府湾だけではなく各所で待機し続ける船は少ないようだ。というよりも、同じ時期に荷役を終えて出港した船だけで船団を構築するような計画になっていたのだ。
宇品で乗船を急かされるのも当然だった。私達のせいで遥か欧州まで向かう船団の航行計画が狂ってしまうかもしれないのだ。それに日本本土近海を除いて独航は禁じられていたから、船団との合流が遅れれば第三山城丸は長期間待機させられていたかもしれなかった。
日本本土と英国本土を結ぶ第二次欧州大戦以来の護送船団が構築されたのは、米軍による通商破壊戦を警戒した為だった。大戦時と違いが大きいのは、各国の急速な経済発展や戦況を反映したのか、船団の出発地、目的地が様々に分かれている事だった。
私達が乗り込んだ第三山城丸は、別府湾から佐伯沖で合流した輸送船や護衛艦艇を加えて沖縄諸島沖合を南下していったが、その間もウラジオストックや日本海沖から出港した船団や、満州共和国の玄関口である大連からの船団が次の寄港地である台湾での合流を目指してそれぞれ航行していた。
日本軍によって厳重に防備体制が敷かれていた台湾を盾にするように台湾海峡で合流した巨大な船団は、今も戦闘が続くフィリピン諸島を横目で見ながら南シナ海を南下していったのだが、第三山城丸は船団から離れて高雄で僚船と合流するとアパリへの航路をとっていた。
結局、私達が奇妙な荷役のことを知ったのはアパリ到着の直前のことだった。本来もっと早くに気がつくべきだった。南シナ海を進んでいった大船団を短時間で編成するには、最初に荷役の効率化が必要だったのだ。
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