1951ルソン島沖潜入戦4
麻倉大佐が非公式に艦内巡視に回っているのを、乗員達の多くは熊の散歩と呼んでいた。言うまでもなくずんぐりとした大佐の体格からの連想だった。
その散歩を終えた麻倉大佐は、巡視の最後に発令所に戻るとまっすぐに海図盤に近付いていた。艦長に気がついた副長からの敬礼にぞんざいに答礼すると、大佐は海図をのぞき込んでいたが、発令所を出てから新たに書き込まれた情報は少なかった。
もちろん巡視中に呼び出しがなかったのだから、動きがないのは当たり前だった。浮上して特務陸戦隊を送り出した伊406潜水艦は、湾内の定点にとどまっていたからだ。
だが、油断は禁物だった。日本海軍の潜水艦としては伊406は最大級の艦だったが、浅瀬で潜望鏡深度を保ったまま懸吊し続けるのは、常に微妙な調整が必要だったからだ。
設定した深度を保持する自動懸吊装置も搭載されていたが、麻倉大佐は咄嗟の時の挙動が信じられなかったし、湾内の複雑な潮の流れもあるので手動で操艦させていたのだ。
伊406は大型潜水艦であるだけあって、発令所も昨今の潜水艦にしては機材の配置には余裕があった。現在は警戒直体制で配置についている乗員も少ないから、むしろ広すぎるくらいに感じられていた。
発令所で配置についている乗員の表情を一人一人確認するように、麻倉大佐は視線を巡らせていた。長期間の、しかも変則的な深度の潜航を強いられている伊406乗組員の状態を把握しておきたかったからだ。
第二次欧州大戦後に就役した伊406は、同型艦と同じく従来の潜水艦よりも格段に乗員定数が増やされていた。第6艦隊の再編成に伴って予備役艦となった乗員が回されてこなければ、戦後の軍縮体制では大きく定数を割ることになっていたのではないか。
それに最近になって乗員定数表が改定されて大型潜水艦にも正規の軍艦同様に専任の副長が充てられるようになっていた。一部潜水艦の指揮官が艦長となって大佐が任じられるようになったのもこの時だった。
潜水隊司令が形骸化しているのとは逆に単艦行動の増大で個艦指揮能力の改善が図られていたのだが、制度上の改訂は行われていたものの、現実はまだ追いついていなかった。伊406の副長も兼任だったから先任将校と実質的に代わりは無かった。
制度上の改正が未だ効果を発揮する所にまで達していなかったが、麻倉大佐が見たところ少なくとも発令所乗員の顔を見る限りでは伊406乗員に士気の低下などは見られなかった。その一方で気負っている様子も誰にも確認できなかった。
発令所の全員が淡々と職務をこなしていることに満足した麻倉大佐はにんまりと笑みを浮かべていたが、その光景はまるで幼児が抱きかかえるのに相応しい熊の縫いぐるみのようだった。
作戦行動中の運動量が少なくなってしまう潜水艦勤務者の摂取カロリー基準は、第二次欧州大戦中に水上艦勤務と比べると半減していた。
とてもではないが麻倉大佐のような体格が本来は維持出来るはずも無いのだが、いわゆるドン亀と呼ばれる潜水艦勤務が長いにも関わらず何故か大佐がやせていく気配は無かった。
乗員達の間では、艦長は上陸中におそろしく高効率で食いだめをしているのだという噂まで流れていた。麻倉大佐が密かに間食を持ち込んでいるのだとは考えない所に人徳が現れていたといえなくもなかったが、伊406潜の複雑な艦内構造であれば間食を何処かに隠すのは難しくはないかもしれなかった。
伊406潜は、元々水上攻撃機を搭載する潜水空母とも呼べるような特殊な大型潜水艦として設計された伊400型潜水艦の6番艦として建造されていたものだった。
この潜水空母計画は、当初伊400型を十数隻も建造して仮想敵である米国の交通の要衝となるパナマ運河を攻撃するというものだったらしい。同型潜水艦の航空機搭載量は3機を見込んでいたから、同型を集結させれば空母一隻分の攻撃隊に相当すると考えられていたようだった。
それが、第二次欧州大戦の推移からいつの間にか攻撃目標がパナマ運河からキール運河になり、結局伊406潜が進水する前に華々しい攻撃計画は中止されてしまっていた。
中止の理由は定かではないが、航空技術の急速な発展により水上機の性能が相対的に低下した為だとか、電探の発達により浮上して悠長に水上攻撃機を組み立てる余裕が無くなった為だという理由が噂されていた。
同時に開発されていた専用の水上攻撃機も開発段階で中止されていたらしいというが、その経緯には些かの疑惑もあった。計画の中止が決定される頃には先行して建造されていた艦はすでに艤装段階だったからだ。
実際にはこの潜水空母計画はもっと早い時期に見切りをつけられていたのではないか。先行して民間企業で開発させていた水上攻撃機が計画を破棄された時点で母艦自体の存在も宙に浮いていたのだろう。
しかし、当時は中型潜水艦である呂43潜の潜水艦長だった麻倉大佐は、潜水空母計画の中止は単に貴重な潜水艦建造用ドックを欧州戦線における当座の戦局に寄与しない巨艦に占有させるのがもったいなくなったという程度のことだったのではないかと考えていた。
元々伊400の潜水空母計画は、軍令部による純粋に軍事的な要求ではなく、政治的な事情で進められているという部分が強かったようだ。噂では当時の総理大臣が熱心に研究を推し進めていたらしい。
そして激化する欧州正面に有効な戦力を整備する為に不要艦艇の建造中止を調査した結果、伊400型は建造が中止されることになったというのが事実であるようだ。
当時の日本海軍は伊400型のような小回りの利かない巨艦や、いまだに性能の怪しげだった水上高速潜水艦である伊201型などを時間をかけて建造するくらいならば、呂35型のような信頼性と量産性に優れた艦を建造した方が戦局に寄与すると考えていたのだ。
そもそも欧州内への反撃作戦が現実化させていた国際連盟軍は、陸上に攻撃することができない潜水艦よりも輸送船や護衛艦の建造に集中していた。大戦中は海中型である呂43潜に乗り込んでいた当時の麻倉大佐は、まさか自分が伊400型の潜水艦長に就任するとは当時は考えたこともなかった。
だが建造中に最低限の船穀工事を済ませて船渠から引き出された伊406潜は、建造当初の伊400型の設計図から大戦終結後に大きく改修されて奇妙な艦に仕上がっていた。
潜水空母計画は中止されたものの、伊400潜はすでに初期建造艦は進水を終えており、さらに数隻が起工されていた。これらを解体するのには相当の手間がかかるし、何よりも大戦中に不要な新鋭艦を解体する為に船渠を態々空けるはずも無かった。
それに潜水空母という特殊な機構を除いても、伊400型潜水艦は通商破壊戦に向いた航続距離など優れた性能を持ち合わせていた。そこで大部分の建造工程を終えていた伊400型は、多少の改装を施した上で水上機ではなく新兵器の母艦として改装されて再就役していたのだ。
艤装工事段階で一時的に建造が中止されていた伊400型潜水艦の多くは、第二次欧州大戦終結後に水上機用に上甲板に埋め込まれていた射出機を使用する噴進弾発射母艦に改造されていた。
かつての水上機搭載用の水密格納庫も噴進弾格納庫に転用されていたから、射出される機体が有人の水上機から無人の噴進弾に切り替えられていただけということになる。
実際いくつか細かな艤装の変更はあったものの、外観から伊400型の初期計画との大きな差異を見出すことは難しかった。搭載機の変更に関わりない大戦中に開発されたものや、戦訓を受けて改正された艤装があったくらいだ。
この搭載機の変換は母艦側である伊400型にとっても有利と働く筈だった。パナマ運河など生還率の低い航空攻撃に投入するといっても、発艦した水上機を回収するために母艦は敵地近くで長時間無防備に浮上しなければならないからだ。
攻撃された立場で考えれば、小癪な敵攻撃隊、それも水上機を発艦させた母艦を探し出すために空荷の攻撃隊を追跡しようとするのは必然だった。場合によっては母艦の安全を確保する為に帰還機を見殺しにする非情な判断を指揮官が強いられることもあり得たのではないか。
だが、有人機であればこそ貴重な機材と共に訓練された要員を回収しなければならないのだが、無人の噴進弾であればその理由はなくなる。
噴進弾の場合は炸薬が満載された弾頭を積み込んだ自爆機となるのだから、そもそも片道飛行で帰還することすらなかった。搭載する全機を射出させ次第、脇目もふらずに逃げの一手を決め込んでしまえばいいのだ。
これは潜水艦にとって理想的な攻撃手段かとも思えた。実際に伊400型は今回の戦争でもグアム島への夜間攻撃に投入されていた。夜陰に乗じて米軍の対潜哨戒網をくぐり抜けて、通り魔のようにグアム島に無人の航空攻撃を加えるのだ。
だが、麻倉大佐が聞いたところでは、理想と違って伊400型の新たな運用は思った程の戦果を上げていないようだった。理由はいくつか考えられていたが、その一つは噴進弾の射出行程にあった。
現在実戦に投入されている日本軍の噴進弾には様々な種類があった。目標や作戦毎に使い分けられているわけではなく、単に同時並行で開発されていた同種の兵器が一斉に投入されたというだけの話だった。
技術開発が開始されたばかりの噴進弾がどのように進化していくかを正確に見極めるのは難しかった。それだけ開発方針が定まっていないということでもあるが、推進方法に関しても種類が別れているらしい。
有人機の様に航続距離を重視してジェットエンジンを搭載したものもあったが、大部分の噴進弾は積み込んだ推進剤を燃焼させて噴射させるロケットエンジンを搭載していた。
伊400型がグアム島への攻撃に投入していたのも大部分はロケットエンジン方式の噴進弾だったが、潜水艦からこれを運用するのは難しいらしい。大重量の噴進弾に十分な推力を与えるためにロケットエンジンの出力は大きく、自然と盛大な噴流を巻き起こしていたからだ。
伊400型の水上機格納庫は上甲板に設けられていた。潜水艦としては長大な上部構造物に耐圧殻壁を設けて格納庫としていたのだが、搭載機を射出する際には格納庫扉を開けて前方の射出機上に据え付ける必要があった。
その後射出されていくのだが、水上偵察機のプロペラが巻き起こす後方流程度ならばともかく、噴進弾の高熱、高速の噴流から格納庫内部を保護するためには頑丈な耐圧扉を一々射出の為に閉鎖する必要があったし、射出要員も爆風の影響を逃れるために収容する必要があった。
噴進弾の発射時に生じる噴流は派手なものだった。しかも伊400型に搭載された噴進弾は水上機に匹敵する寸法の大重量のものだった。
飛翔形態が通常の航空機とは著しく異なることから翼面は小さく組み立ては楽だというが、それだけに揚力で空中に留まるというよりも、推力で強引に突き進むと言ったほうが正しいのだろう。
折角闇夜に乗じて敵哨戒網を突破したとしても、盛大な噴流の炎で自位置を盛大に暴露する羽目になっていたのだ。これでは連続発射は困難だった。噴進流が収まってから水密扉を開いて再度組立作業を行わなければならないのにこれは理不尽極まりないやり方だった。
水上機と比べて翼面が小さい分断面積が押さえられることから、噴進弾母艦に改造された伊400型では格納庫内の収容数を増やしていたそうだが、その数は完全に宝の持ち腐れとなっていた。
潜水艦を用いて噴進弾で隠密で襲撃を敢行するのであれば、潜水空母である伊400型よりも僅か1機の小型水上偵察機を運用する格納庫しか持たない在来の巡洋潜水艦の方が使い勝手が良いのではないかという声も上がっているらしい。
もっとも戦果が上がっていないと考えられている理由は他にもあった。それは誘導方式に起因するものだった。
呂33型潜水艦の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/ssro33.html