1951ルソン島沖潜入戦3
戦時中に独立が確約されていたフランス領インドシナや、段階的な自治権の交付が早々と決まっていた英国の植民地と違って、オランダ領東インド諸島は第二次欧州大戦終結後も苛烈な植民地支配が続いていた。
だが、この歪な統治体制こそが独立運動の呼び水となっていることにオランダ本国政府は気がついていなかった。
植民地化から数世紀を経て肥大化したアジア圏の植民地を統治するには、欧州本土からの移民や派遣される官僚たちだけでは不可能だった。現地人から下級官僚や技術者を育成しなければ政府機関の維持すら難しくなっていたのだ。
だが、現地人の知識人階級が増大するにつれて、抑圧された植民地と豊かな宗主国間に生じる矛盾を知った彼らの間から独立の機運が高まっていた。それに加えて昨今は過激な独立闘争を主張する中に共産主義者が浸透していた。
独立、民族の解放といった学の無い貧困層にとっても分かりやすい単純な言葉を連ねた共産主義者は都市労働者の間に勢力を伸ばしていったのだが、英仏の植民地が独立を確約されたことで過激な独立派は岐路に立たされていたと言ってよいだろう。
民族主義者は植民地政府を改編される新独立国の政府機関に潜り込もうとしていたし、共産主義者は独立闘争を階級闘争に切り替えて農村部などに本拠地を移そうとしていた。
だが、農村部への共産主義勢力の浸透は進まなかった。手探りで誕生したばかりの独立国内で貧富の差からなる階級闘争を起こしたところで現実味がなかったのだろう。
それに独立派を吸収した現地政府は積極的に共産主義者の弾圧を開始していた。共産主義勢力と手を切ることで独立を確約するというのが旧宗主国との密約だったからだ。
多数の逮捕者を出したアジア圏各地の共産党は、最後に残された欧州列強の大規模植民地であるオランダ領東インド諸島へと逃げ延びていった。
現地植民地政府による苛烈な支配が東インド諸島の独立運動を激化させていたのだが、この独立派の内部に浸透して共産主義勢力の影響力を伸ばそうとしていたのだ。
もしも武力を伴う大規模な独立紛争によって共産主義勢力が支配する地域が誕生すれば、そこを聖地として勢力を拡大していずれは逃げ出したマラヤ連邦などに帰還することを夢見ていたのではないか。
それに、その頃には新独立国でも経済成長によって都市部に富が集中して、農村部での階級闘争が現実化するとも考えていたのかもしれない。
尉官でしかない神咲大尉にはどうやったのかは知らないが、これらの正確な情報を入手した日英はシベリアーロシア帝国や満州共和国などを巻き込みつつ密かにオランダ領東インド諸島への介入を決意していた。
どの国にとってもソ連を総本山とする共産主義勢力こそが主敵であるという共通認識があり、アジア圏と欧州を結ぶ航路を扼す位置にあるオランダ領東インド諸島の共産化は悪夢だったからだ。
日英は情報関係者の分析に基づいたこのような事態を避けるために、民衆からの広範な支持が共産主義ではなく、民族の解放という純粋な独立運動自体に向いている間に宗主国から独立させてしまおうとしていたのだ。
介入を決意した日英は、密かにオランダ領東インド諸島に割拠する独立派への接触を開始していた。接触する対象は慎重に調査されていた、らしい。東インド諸島に潜伏する共産主義勢力と袂を分つ可能性が高い組織が選ばれていたようだった。
例えば、スマトラ島北部の旧アチェ王国はムスリムであるスルタンが治めるイスラム国家であり、オランダの支配に最後まで抵抗した地域だった。独立運動への民衆の期待は高いし、宗教的にも共産主義には抵抗があったらしく、共産主義勢力の浸透は進んでいなかった。
それにアチェ地方はマラッカ海峡の北部出入り口側に面する地域に存在していたから、アチェ地方の安定化は日英などにとっても望ましかった。
宗派は違うとはいえ、同じムスリムということから、アチェ地方の独立運動家との接触はイラン王国軍が介在していた。同国軍の最精鋭特殊戦部隊である空挺大隊の隊員が英国資本の航空会社を利用してアチェ地方に潜入していたのだ。
この介入工作前にマラヤ連邦内に英国資本で設立した航空会社や、日満の政府筋がいくつかの欺瞞工作を経由して作った海運会社は、実際にはアジア圏への政治介入の為に作られた会社だった。
払い下げられた軍用輸送機や改造商船を運用するのは表向き民間企業だったが、実際には資本関係に政府や軍関係が巧妙に入り込んでいた。これらの会社によって、現地で連絡のついた抵抗運動に引き渡す為の銃火器、弾薬などの物資が輸送されていたのだ。
介入の証拠を残さないために、このとき引き渡された銃火器は、慎重に「消毒」されたものばかりだった。
日本製の旧式銃なども少なくなかったが、装備転換を受けた部隊から返納された後に再整備される過程で行方不明になって製造所の情報などが抹消されたものや、欧州で不要となった旧ドイツ軍装備なども多かった。
そうした支援の見返りとして、アチェ独立派は旧英仏植民地の新独立国などと同様に独立運動から共産主義勢力を排除する事と情報の提供を要求されていた。
この時期の東インド諸島の勢力は、日英の介入によって現地人の独立派と植民地政府機関、そして共産主義勢力の三つ巴となっていたと言ってよいのではないか。
だが、日英などの支援があったとはいえ、それまでは散発的な蜂起に留まっていた現地人の独立派がここまで勢力を伸ばしたこと、それと同時に植民地政府が大規模な治安戦を行えていたのは、ドイツ人入植者の存在があった。
かつてオランダ植民地政府では、オランダ正規軍の戦力不足を補う為に、現地人からの徴用に加えて欧州人の傭兵部隊を雇用して植民地軍を編成していた。
列強からの干渉を避ける為に欧州人傭兵の雇用はかなり前に廃止されていたのだが、第二次欧州大戦後にこの制度が実質的に復活していた。ドイツ人入植者による自警団という建前で、有力な部隊が再編成されていたのだ。
第二次欧州大戦における実戦経験を有するものが大半であるドイツ系住民による自警団は、植民地政府から見れば徴用された現地人よりも政治的な信頼は高かったが、独ソ戦線でしばし見られたような住民への苛烈な対応は現地人の反感をかって独立運動に向かわせるという皮肉な結果も招いていたのだ。
相次ぐ反乱に加えて、ドイツ人自警団の横暴な振る舞いは周辺諸国との摩擦をも招いていた。しかも、ドイツ人自警団の編成が軌道に乗った頃に日英は国際連盟機関を通して、戦犯に指定されていた元ドイツ将兵の引き渡しを植民地政府に要請していた。
引き渡し要求リストに挙げられたドイツ人は、武装親衛隊や国防軍で戦争犯罪に関わっていたものばかりだったが、その数は膨大なものだった。
元々戦争犯罪人として告訴されるのを避ける為に国外逃亡したものが欧州から見れば辺境となるこんな所まで流れ着いていたと考えるべきだったのかもしれない。
その中には、前国王暗殺事件の首謀者としてイタリア王国から指名手配されていた武装親衛隊の大物も含まれていた。そのような有名人でさえドイツ人自警団に堂々と潜り込んでいたのだから、自警団員は過去を問わずにかき集められていたのではないか。
しかも、戦犯指定された将兵の多くは戦時中に責任者となる士官や少なくとも下士官ばかりだった。その経歴から急造の自警団の中でも指導的な地位に据えられていたものばかりで、彼らが拘束されていったことでドイツ人自警団の機能は急速に低下していった。
元ドイツ兵達の士気低下は著しかった。それに現地政府の憲兵隊が拘束する前に部隊ごと逃亡した例も少なくなかったようだ。中には派遣されていたスマトラ島から対岸のマラヤ連邦に脱出して、自警団よりもアウトローな傭兵団になったものもいたようだ。
ドイツ人自警団という安価な治安維持勢力を衰退させてしまったオランダ植民地政府は、以前英国が想定していたような統治コストの際限の無い上昇に音を上げて、アチェ王国の再独立や、紛争が勃発していたカリマンタン島中央部に位置する原住民居住地域のサラワク王国への割譲まで踏み切っていた。
治安を維持すべき範囲を、スマトラ島南部の油田地帯や人口が密集するジャワ島などに限定する事で統治コストと利益の収支を釣り合わせようとしていたのだろう。
その間、日本海軍特務陸戦隊は、陸軍の機動旅団と共に密かに独立運動の支援任務に従事していた。任務の大半は独立派民兵組織の軍事教練だったが、直接戦闘を行ったことも決して少なくなかった。
現地の独立運動構成員など得た情報に基づいて、独立派と植民地政府双方の敵である共産主義勢力を殲滅していったのだが、中には現地に傭兵として乗り込んでいた満州共和国軍不正規戦部隊との共同作戦まであったのだ。
共産党系の武装組織は、そうした作戦の成果もあって戦闘力を喪失していった。共産主義勢力は武装闘争からスマトラ島南部油田地帯の労働者や、ジャワ島の農村地帯への浸透に切り替えていっているという未確認情報もあったが、日米開戦によって正確な情報は途絶えていた。
実のところ、この日英などによる独立運動の支援が、結果的に米国を刺激することにも繋がっていたのではないかと今では考えられていた。
日英情報関係者が主導していた政治介入は、共産主義勢力が逃げ込んだオランダ領東インド諸島に目標を限定していたのだが、予想に反して米国の植民地であるフィリピン諸島でも、対岸の独立運動に影響されたのか日英政府による工作とか全く関わりなく一部でも反乱が再発していた。
しかも、密かに行われていた独立派への支援を察知したのか、正規の情報関係者ではなく民間の国粋団体がフィリピン諸島の独立派を支援して米国を刺激していたのだ。
右翼的傾向のある国粋団体は、情報関係者からすれば頭を抱えたくなるほど単純に証拠を残しながら、フィリピンの雑多な組織に支援を行っていたらしい。
それに米国は以前から隣接するオランダ領東インド諸島における独立運動の活発化の背後に日英の影を嗅ぎ取っていたのでは無いか。米国はフィリピン諸島の独立運動に対する弾圧を強める一方で、日本を強く批判していたからだ。
日本政府としてもいたずらに米国を刺激する意思は無かった。密かに内偵を行っていた国粋団体を国内で検挙していたのだ。特に一時期は造船業で財を成した実業家の逮捕によって資金源を絶たれたことから組織は壊滅的な打撃を受けたと言ってよいはずだった。
日英の政府筋などは、これを米国に向けたフィリピン諸島には手を出さないというメッセージであると考えていたのかもしれないが、米国は1団体の暴走などでは無く、日本政府の陰謀と当初から決めつけていたのかもしれなかった。
だが表立って独立派の支援を認めるわけにはいかない日本は、明確にアジア諸国への政治介入を否定することも肯定することもなくあいまいな態度を示し続けた。要するに日米共にお互いの思惑に気が付かないまま開戦という最悪の事態を招いてしまったのだろう。
―――だが、東インド諸島の独立派支援が、巡り巡って米国の懸念どおりフィリピンへの進攻につながったということは、これも因果応報ということになるのだろうか……
脳裏の片隅でそう考えながらも、神咲大尉は半ば海岸に乗り上げたゴムボートから音もなく滑り降りていた。
数人の隊員が、目をつけていた付近の疎林にゴムボートを隠蔽する為に輸送している間、神咲大尉は腰を屈めて無言のまま手信号だけで周囲の兵に指示していた。
同じように音も無く地下足袋を履いた指揮下の隊員達が、消音器を着けた短機関銃と銃剣だけを手にして先程見かけた米兵達の襲撃に走るのを、神咲大尉は凍えた目で見つめていた。彼らの作戦は始まったばかりだった。