表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
713/810

1951西海岸沖通商破壊戦2

 第二次欧州大戦で日本海軍が得た戦訓はしばらく分析が追いつかない程に膨大なものだった。第一次欧州大戦以上の大規模戦闘によって兵備から戦術に至るまで見直されるのは必然だったが、その中には潜水艦関連のものも当然のことながら多く含まれていた。



 敵手たるドイツ海軍潜水艦の本格的な調査が始まったのは、国際連盟とドイツが講和した後の事だった。それまで断片的な戦場の様子から伺うしかなかったドイツ潜水艦の実物を入手できるようになったからだ。

 ドイツ海軍でも水上艦の場合は、地中海での戦闘などから大凡の性能は把握されていたし、マルタ島沖海戦で損傷してタラントで修理中だった戦艦テルピッツなどは鹵獲された直後から詳細な調査が行われていたのだが、潜水艦の実艦調査はほぼ戦後のことだった。


 ドイツ海軍の大型水上艦はその大半が戦時中に撃沈されるか修理中で行動不能となって鹵獲されていたのだが、建造数が桁違いに多かったせいか戦後も稼働状態で残存していた潜水艦は少なくなかったのだ。

 ただし、技術的な調査に日本海軍が積極的であったとは必ずしも言えなかった。どのみちドイツ側からは建造や整備に関連する正規の資料も提出されていたからだ。


 国際連盟とドイツとの講和は歪なものだった。国際連盟軍とドイツとの交戦停止や捕虜交換などが迅速に行われた一方で、ドイツとソ連との戦闘は継続していたからだ。

 そもそも第二次欧州大戦は、国際連盟加盟諸国と枢軸勢力、そして米国の支援を受けたソ連という三勢力の三つ巴の戦争だと言えた。国際連盟軍は、大戦終盤に至るまでソ連軍と直接の交戦こそ無かったものの、歴史的に見ても両勢力は敵対関係にあったからだ。

 ドイツと国際連盟との講和は、極端なことを言えば枢軸勢力で最後に残るドイツの吸収というものだったのではないか。その証拠に国際連盟軍は対ソ戦に限りドイツ軍の交戦を妨げなかったからだ。



 第二次欧州大戦が終結を迎えたのは、国際連盟とドイツ間との講和が成立したことよりも、中立国という立場で米国がソ連を含む包括的な停戦の仲裁に乗り出してきたからだろう。

 どの勢力も実際には経済面での苦境を覚えていたが、大人しく矛を収めるには長期化した戦乱によってあまりにも憎悪が育ちすぎていた。講和の場に卓越した外交感覚を有するエレノア・ルーズベルトがいなければ、思想が相容れない国際連盟とソ連が妥協に至る事はできなかったのではないか。


 勿論、この停戦が恒久的な平和に繋がると安穏に考えていたものは少なかった。第二次欧州大戦はソ連に対して主に人的な莫大な被害を及ぼしたものの、共産主義勢力は大きく西進していたからだ。

 ハンガリーなど東欧にあるいくつかの国々は共産主義勢力に取り込まれ、ユーゴスラビア連邦王国やブルガリア王国などは過去のいざこざなどを忘れたように共に対ソ最前線に立たされていた。

 戦後の新秩序体制の中で最も不安定な立場に立たされていたのはチェコスロバキアだった。同国は国際連盟側からソ連戦力圏内に大きく伸ばされたチェコと共産主義国家となったスロバキアに分割されてしまっていたのだ。


 国土の分割という意味ではドイツも同様の状況だった。国際連盟との講和が成立した後も戦力や指揮系統の再構築が不充分であったのか、大戦終盤にドイツ軍は東部国境線での防衛に失敗して広大な北東部をソ連に占領されていたからだ。

 講和条件にはソ連による占領地域からの撤退は含まれていなかった。それどころか、偶発的に欧州でも戦端が開かれた今、ソ連側は占領地域に正式に共産主義国家を建国する可能性が高かった。



 ただし、ソ連占領地域の人口密度は著しく低かった。共産主義勢力側のドイツは、実際にはドイツ人よりも移住したスラブ系や様々な理由でソ連各地から強制的に移住してきた少数民族などが多数派を占めることになるのではないか。

 現在ドイツ北東部に居住するドイツ人の数が激減していたのは、停戦直後に自決したゲーリング総統代行が、東部国境の強化よりも優先してソ連軍占領前に組織的な住民の疎開を実施していたからだ。

 戦後のオーストリアやチェコからの民族ドイツ人の追放も加えて、ドイツに残された南西部は過剰な人口を抱えて急速な食料増産などを余儀なくされていたが、海外に流出した国民を除いても国際連盟側に残されたドイツは人口資源という点では十分だったはずだ。


 実は国際連盟とドイツとの講和条約には非公開ながら特異な条文があったらしい。ドイツの軍事力は存続を許されたどころか、一定以上の戦力保持をむしろ要求されていたというのだ。

 欧州を瞬く間に席巻したドイツ軍の存続を嫌悪する国や人々はいたものの、国際連盟側としては対ソ戦の最前線には防波堤としてのドイツ軍が必要不可欠だったのだ。

 英仏が大戦で疲弊した状況では、ソ連占領地域を除いてもまだ欧州で大きな人口と経済力を有するドイツの頭数としての戦力を組み入れなければソ連軍に対抗し難いというのが正直なところだったのだろう。



 ナチス時代の名前を捨ててドイツ連邦軍となった新生ドイツ軍だったが、その実態は旧国防軍と何一つ変わらなかった。そもそも段階的な再編成こそ行われていたものの、上級司令部などは兎も角各師団は実質的に旧軍の組織を受け継いていた。そうでなければ即応性を確保できないからだ。

 むしろ、欧州から本土に撤収する日本軍などが残した装備を国際連盟軍から受け取った新生ドイツ軍の各師団は、戦車や重火器などの装備率は旧軍時代よりも遥かに優越していた。


 大戦終盤の、戦力抽出や連続した戦闘で稼働戦車が一桁になった装甲師団や、実動戦力が連隊以下にまで落ち込んだ歩兵師団などが辛うじて戦線を維持していた光景を見てきた将軍や参謀達からすれば、僅かな間で再編成された新生ドイツ軍の部隊構成は夢のようなものだったのかもしれない。

 例えその装備の多くがかつての敵国から供与された中古品であっても、新生ドイツ軍の師団は全てが装甲師団のようなものだった。あるいは、その驕りがソ連占領地域との境界線で発生した小競り合いの原因ですらあるかもしれなかった。



 ただし再編成されたドイツ三軍は歪だった。陸軍が一定規模の維持と練度を要求されていたのに対して、空軍は攻勢用の機材である重爆撃機などが綺麗に省かれていた。完全な戦術空軍となった新生ドイツ空軍は、制空権の維持だけに特化した戦闘機隊の天下となっていたのだ。

 ある意味で自らその姿に変化していた空軍とは異なり、ドイツ海軍の方はもっと悲惨な状況にあった。

 二度の欧州大戦で英国海軍に敵わぬまでも競い合ったドイツ海軍の水上艦隊は、オランダ国境付近にわずかに残された海岸地帯を防衛する沿岸警備隊と、欧州大陸内に母港を失って、半ば英国海軍の一部と化した何隻かの大型艦があるのみだった。


 そして、かつてドイツ海軍の主力部隊として整備されていた潜水艦隊は、全ての装備を国際連盟軍に引き渡して解散していた。

 ソ連によってバルト海を追い出されたドイツ海軍には、すでに潜水艦の必要性がないというのが表向きの理由だったが、実際には今は味方であっても大西洋にドイツ潜水艦を二度と置きたくないという英国の意向だったのだろう。


 だが、停戦時にドイツ海軍に残存していた数少ない大型潜水艦の中には行方不明になった艦も何隻かあった。同時にその事実が無責任な噂も生み出していた。ヒトラー総統や党幹部達が生き延びていて潜水艦で脱出していたというのだ。



 大戦終盤の総統暗殺事件は、ポーランド国内に設けられていた総統大本営で会議中の総統やナチス党、軍の幹部達がクーデター派によって爆殺されるという血なまぐさいものだった。

 ところが、爆発は派手だったものの実は総統の死亡は確認されていなかった。事件直後に瓦礫の山の中から何人かの高級軍人の死体は個人が特定されていたのだが、総統大本営もソ連軍の侵攻を受けて爆破、放棄されていたから詳細な調査を行うような余裕はドイツ軍にはなかった。

 その後は同地もソ連占領地帯に含まれていたし、戦後に共産主義勢力としてポーランドが再独立した後も国際連盟側は同地の調査など到底不可能だった。


 だから総統の生存説が生まれたわけだが、これには矛盾があった。実際に潜水艦による脱出が出来るほどにはヒトラー総統が無事であったならば、ベルリンに引き返して権限を取り戻せば良いだけの話だったからだ。

 ヒトラー総統が生死不明だった事実によってクーデター派の動きは鈍かった。ベルリンで蜂起したクーデター派は大義名分が曖昧なまま混乱した状態だった。

 クーデター派を鎮圧するために出撃した部隊もどこまで正規の指揮系統で動いていたのか分からなかったのだが、最終的にベルリンを掌握したのは、法的にヒトラー総統に次ぐ地位を保持していたゲーリング国家元帥だった。

 ゲーリング総統代行はナチス党内では反主流派である親英的政治姿勢だったのだが、仮にヒトラー総統が生存してベルリンに姿を表せば権限を取り戻すのは可能だったのではないか。



 実際に物資を満載してポーランドやドイツ国内から出港した9型大型潜水艦の目撃例はあったものの、敗戦の混乱で証言なども散逸していた。それに脱出した潜水艦の行き先になると更に話は曖昧になっていた。

 あるものは米国に亡命を図っていたと言い、あるものは最終目的地は南米と言った。甚だしいものになると、どう考えても潜水艦では航続距離の足りない南極の秘密基地に向かったというのだから、どの説も単なる陰謀論に過ぎないのだろう。

 ヒトラー総統が生存して脱出していたとという噂話を完全に否定することは難しかった。資料や現物をどれだけ接収したところで所在不明な潜水艦は少なくなかったからだ。


 講和が成立した時点でもドイツ潜水艦隊は通商破壊戦を行っていた。ドイツ海軍は作戦中の全艦艇に帰還を命じていたのだが、作戦海域が遠隔地だった艦の中には、通信状況が悪く母港に帰還して初めて停戦を知ったものも少なくなかったようだ。

 陸上の潜水艦隊司令部による消極的なサボタージュであるという話もあったが、実際に国際連盟との停戦を知らないまま講和条約発行後も襲撃を続ける潜水艦が確認されていた。勿論、船団護衛部隊でも反撃に出ていたから、講和後に無駄に命を散らした潜水艦もあった筈だ。


 だが、連絡を断った中には撃沈されたのではなく停戦を拒否して脱走した艦もあるという噂も流れていた。潜水艦が自ら脱走でも宣言しない限り、行方不明となった艦が国際連盟軍との交戦で撃沈されたのか、密かに脱走したのか確かめる余地はなかった。

 そのあたりが無責任な噂話の根拠になっていたようだが、同じ潜水艦の乗員である苅野大尉は、脱走艦があったとしても実際には脅威となるようなものではないと考えていた。



 近中世の海賊船ではないのだから、量産された7型潜水艦といえどもその建造、維持には高度な技術力が必要だった。仮に南米に脱出した潜水艦があったとしても、沖合で放棄されたというあたりが関の山だろう。

 潜水艦を組織的に長期間維持するには大規模な整備施設は必要不可欠だったが、旧式化した戦艦一隻ですら持て余す南米大陸の諸国では例えドイツ潜水艦を受け入れても早々に無力になるだけだ。


 対ソ戦が継続されていた当時の状況では、その友好国である米国への亡命も考えがたかったし、南極の秘密基地などという与太話は論評にも値しなかった。過酷な環境にある上に戦略的な価値のない南極に潜水艦基地を建設出来るほどの余力があれば、今頃ドイツは世界征服に成功しているだろう。

 結局ヒトラー総統が生き延びていようがいまいが、国際連盟とドイツとの関係は変わりようもなかったのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ