1951西海岸沖通商破壊戦1
新知島の武魯頓湾に停泊していた大型水上艦は潜水母艦白鯨だった。武魯頓湾は特異な地形だった。湾内の水深は恐ろしく深いのに、湾口は目で見えるほど浅いのだ。実際には湾というよりもカルデラ湖の一部が欠けて海とつながっているというのが正しいらしい。
日本海軍が基地化を行う際に、湾口部は一応浚渫されたとは聞いていたが、潜水艦用の支援基地だからおそらくは水上艦で湾口を越えてくるのは危険性が高いのではないか。
だが、日本海軍はそんな前進基地に特設潜水母艦ではなく、本来第六艦隊指揮下の潜水戦隊旗艦に充当されている正規の特務艦艇である白鯨を東太平洋で行われている長距離通商破壊作戦の支援に投入していたのだ。
最近になって行われた大規模な再編成によって潜水母艦白鯨が率いる第一潜水戦隊は特殊な編成となっていたから、てっきり白鯨は戦隊旗艦としての任務か、訓練海域での支援に当たっていると思っていたのだが、実際には最前線には開戦以後に徴用された特設潜水母艦ではなく正規艦艇が送り込まれていたのだ。
だが、伊103潜の先任将校である苅野大尉の視線は、見慣れた大鯨型潜水母艦である白鯨ではなく、その舷側に潜水艦用の防舷物を挟んで接舷している巨大な潜水艦に注がれていた。
第二次欧州大戦の戦訓を反映して建造された最新鋭の潜水艦である伊101型潜水艦も決して小さな潜水艦ではなかった。既に類別自体が過去のものとなりつつあったかつての巡洋潜水艦に匹敵する大型潜水艦だったのだが、目の前の潜水艦は伊101型よりも更に一回りは大きかった。
噂では聞いていたのだが、苅野大尉は初めて見る伊407潜水艦の薄汚れた巨体を見つめていた。伊103に先んじて派遣されていた同艦は、死地をくぐり抜けて新知島に帰り着いたばかりなのだろう。
だが、巨砲を搭載する戦艦や巡洋艦と違って、潜水艦の場合は必ずしもその船体寸法が「強さ」に匹敵するとは限らなかった。爆雷や深深度で締め付けてくる水圧に耐える為に強化された巨体を完全に潜航させるには時間がかかるし、水中で釣り合いを取るのも難しくなるだろう。
それだけではない。これまでの戦訓から対潜艦艇に対抗するには水中での運動性能も重要な性能だと考えられていた。第二次欧州大戦時のドイツ潜水艦は、小回りを効かせて接近した対潜艦艇を近距離で翻弄しようとする場合が少なくなかったのだ。
逆に小型過ぎる潜水艦もまた運用の制限が大きかった。第二次欧州大戦であれ程国際連盟軍を苦しめたドイツ潜水艦隊も、実際に講和後に彼らの内情を確認してみれば劣悪極まりない状況が顕になっていたからだ。
ドイツ潜水艦隊の数上の主力は排水量が千トンにも満たない7型潜水艦だった。ドイツ潜水艦隊が戦時中に挙げた赫々たる戦果は、その七百隻とも言われる膨大な数の7型潜水艦を尖兵としたものだったのだ。
実は日本海軍でも7型潜水艦と同格と言える中型潜水艦を「量産」していた。まだ任官したばかりだった苅野大尉も、第二次欧州大戦時は海中型と呼ばれる呂35号型潜水艦に乗り込んでいたのだ。
排水量が同程度であれば、性能も同程度になるのは当然だった。元々日本海軍の潜水艦建造技術は第一次欧州大戦後に得られた旧帝政ドイツ海軍のものを参考にしていたからだ。
だが、性能諸元上の性能は似たようなものだったとしても、その運用には大きな差異があった。
建造数において文字通りの桁違いであったということもあるが、日本海軍の潜水艦があくまで主力となる大型水上戦闘艦を補佐するものであったのに対して、ドイツ海軍の潜水艦は否応もなく艦隊の主戦力とならざるを得なかったからだ。
ナチス政権後に建造を再開されたドイツ海軍潜水艦の性能は戦時中は不明な点が多かったものの、戦後明らかとなった実性能は意表をつくようなものでは無かった。
7型潜水艦は日本海軍の基準で言えば中型の潜水艦だった。本来であれば大西洋奥深くに作戦域が伸びていったドイツ海軍では、より大型の9型などを主力とすべきだったのかもしれなかったが、実際には大量建造体制が確立されていた7型潜水艦を建造し続けるしかなかったのだろう。
その現実はドイツ海軍の潜水艦乗員たちにとって過酷なものだった。7型潜水艦は、その貧弱な居住区まで消耗品を満載して効率の悪い遠距離の狩場まで往復しながら出撃しなければならなかったからだ。
当初はドイツ海軍も中立国船籍に偽装した補給艦や秘匿性の高い補給潜水艦などを大西洋に投入していたのだが、そうした支援艦艇は優先して国際連盟軍に撃破されていった。
それに加えて、国際連盟軍は秘密兵器とも言える氷山空母まで持ち出して大西洋中心部に生じていた陸上機による対潜哨戒網の空隙、つまりドイツ海軍潜水艦隊にとっての聖域を組織的に塞いでいった。
もちろん船団護衛部隊の充実も無視できなかった。陸上哨戒機による哨戒網の空隙を最終的に塞いだのは氷山空母などという胡乱げな秘密兵器ではなく、実際には排水量一万トン前後しかない商船を原型とした護衛空母の船団随伴だったと言える。
英国本土などに向かう船団の損害は、大戦期間中を通じて膨大なものになったが、国際連盟軍の対潜戦術が洗練されるに従ってドイツ海軍潜水艦隊の損害も飛躍的に増大していったのだ。
本来中型潜水艦であった7型潜水艦が苦闘しながらもドイツ海軍潜水艦隊の主力となっていったのに対して、海中型はいわば計画された当初から妥協の産物でしかなかった。
中型潜水艦の主力として戦時中に日本海軍の潜水艦としては大量建造された呂35型だったが、その原型となっていたのは開戦よりもずっと前の軍縮条約下で建造された呂33型潜水艦だった。
呂33型はいわば戦時量産艦の試作艦という位置づけにあったのだが、同時のそれは軍縮条約下の平時体制においては大量建造は許されなかったということも意味していた。
当時の日本海軍における大型潜水艦整備の主流は、二つの系譜に別れていた。巡洋潜水艦と艦隊型潜水艦だった。
大雑把に言えば、航続距離を重要視した巡洋潜水艦とは潜水可能な偵察巡洋艦であり、雷装と速力が充実した艦隊型潜水艦は艦隊主力に随伴する潜水可能な駆逐艦といった存在だった。
軍縮条約が締結された当初は、艦隊型潜水艦の建造を求める声が大きかった。対米比で不利な主力艦同士の戦闘を優位に持ち込むために、航空戦力や夜間雷撃などを組み合わせた漸減邀撃戦術を採用した当時の海軍は、米海軍を迎撃する形での艦隊決戦を明確に指向していたからだろう。
ところが1930年代半ばの軍縮条約の改定頃から情勢は大きく変わっていた。米国の友好国として台頭していたソ連の戦力増大などを反映した改定軍縮条約は、日本海軍の保有枠増大を許すと共に各国に旧式戦艦の代艦となる新鋭戦艦の建造を認めていたからだ。
条約の継続に熱心だった英国は、米国の支援下で海軍の拡張を続けるソ連が条約に縛られないのであれば軍縮条約の意味はないと強く主張して妥協を図っていたらしい。
日本海軍は、保有枠が拡大された戦艦などの大型艦戦力の余裕によって極端な迄の艦隊決戦への指向を緩めていたが、潜水艦整備方針の影響は別の原因があった。
軍縮条約の改定によって一斉に各国で新鋭戦艦の建造が開始されたのだが、この時に建造された戦艦の多くはそれまでの戦艦よりも高速だった。これが艦隊型潜水艦の整備に決定的な影響を与えていたのだ。
艦隊型潜水艦の戦策に関しては漸減邀撃作戦の中での位置づけなどは不明瞭な点も多かったが、要は発見した敵戦艦を横目で見ながら洋上を進行して、有利な位置で水面下に没して艦隊主力との交戦前に待ち伏せを行うというものになっていたのではないか。
この場合、艦隊型潜水艦には戦艦の待ち伏せを行えるだけの高い速力が必要だった。有利な態勢で伏在するためには敵艦を追い越して海域に先んじなければならないからだが、戦艦の高速化は艦隊型潜水艦によるこうした洋上での会敵、追跡自体を困難とさせていたのだ。
相対的に、速力が遅くとも単独で偵察巡洋艦として運用出来る巡洋潜水艦の地位は上がっていた。
しかも、極端なことを言えば大規模な艦隊決戦以外に使い道のない艦隊型潜水艦と違って、巡洋潜水艦は第一次欧州大戦時のドイツ潜水艦隊のように遠隔地での通商破壊戦に投入することも出来たし、平時から仮想敵国主力艦の動向を把握するという任務も密かに遂行可能だった。
日本海軍大型潜水艦の整備方針は、次第に使い勝手の良い巡洋潜水艦重視となっていたのだが、艦隊決戦において投入される艦隊型潜水艦の建造が完全に途絶えていたわけではなく、それが保有枠内で建造が許された試作艦としての呂33潜水艦だった。
潜水駆逐艦である大型潜水艦ではなく、潜水水雷艇とも言える中型潜水艦ではあったが、保有枠の制限が解かれた有事の際はこれを原型とする艦隊型潜水艦を決戦に間に合うように急速建造するという方針であったのだ。
日本海軍にとって予想外だったのは、この方針策定から数年後に勃発した第二次欧州大戦において、予想されていた対米戦のような大規模な艦隊決戦が発生し得なかったことだった。
確かに呂33型潜水艦を原型とした呂35型は、増加された第6艦隊隷下の各潜水隊を充足させるに足りる数が建造されていったが、実際には呂35型が華々しく敵主力艦に向けて必殺の魚雷を放ったことなど一度もなかったのだ。
呂35型が投入された戦域は、主に大戦中盤まで日本海軍の主戦場だった地中海戦線だった。
太平洋や大西洋に比べれば遥かに狭い地中海に投入された呂35型は、この内海を縦断して北アフリカ戦線を支えようとする枢軸軍の海上輸送路遮断やイタリア、フランス上陸前の要地偵察などの、以前は巡洋潜水艦に想定されていた任務を短距離に仕立て直したような任務に投入されていたのだ。
新鋭艦である伊103潜の先任将校として着任した苅野大尉も、第二次欧州大戦当時は呂35型である呂43潜の航海長として任務についていた。
日本海軍の中尉は、各教育を終えた新米に殻の生えたようなものだったが、それでも航海長となったのは戦時の人手不足に加えて、それだけ呂35型の定数が小規模なためでもあった。
苅野大尉が乗り込んでいた呂43潜も、幾度か地中海戦線で重要な戦闘に参加していたが、呂43を含む同型艦の多くは第二次欧州大戦後に予備艦指定を受けて、中には欧州諸国やシベリアーロシア帝国などに売却された艦も少なくなかった。
大戦中に疲弊した国際連盟加盟の欧州諸国は、遂に勢力圏を接するようになってしまったソ連に備える為に、戦後の国軍再編成を急いでいたからだ。
呂号潜水艦も、狭い地中海や欧州沿岸における短距離の運用であれば十分に運用出来ると判断されたのだが、その一方で日本海軍では既に大戦中に活躍した呂号潜水艦の長期運用には冷淡になっていた。
数的な主力だった呂35型潜水艦が予備艦指定を受ける中で、潜水隊の多くも解隊されるか所属艦を減らして有名無実な存在になっていった。
そもそも戦時中の運用から中途半端な位置にある潜水隊は単なる管理上の存在になっていった。
大型潜水艦であれば潜水隊司令が潜水艦長と同居する場合もあったのだが、呂号潜水艦では余計な人員を乗せる余地はなく、それ以前に拡大された組織の中で潜水隊司令たる佐官を確保することが難しくなっていたのだ。
しかも、熟練の佐官を潜水隊司令に充てたところで単艦での運用が多い通商破壊戦、偵察では指揮下の潜水艦と連絡の取れない遠く離れた海域で行動する事が少なくなかった。
呂号潜水艦を運用する潜水戦隊では、先任潜水艦長を潜水隊司令と兼任させる一方で、潜水隊毎の事務作業はその多くを逆に陣容が強化された戦隊司令部に集約させていた。
呂号潜水艦運用部隊に限らず、次第に潜水戦隊旗艦は最前線で運用される軽巡洋艦などから、一歩下がった位置で指揮と後方支援に専念する潜水母艦が充てられるようになっていたのだ。いずれは中間指揮系統である潜水隊自体が廃止されて潜水戦隊が各潜水艦を直卒することになるのではないか。
このような動きは戦後も続いていた。日本海軍連合艦隊の中で潜水艦隊として編制されていた第6艦隊は、第二次欧州大戦終結後の軍縮と大規模な再編成を同時に遂行していったのだ。
伊101潜水艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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