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1951フィリピン上陸戦43

 英国資本でマラヤ連邦に本拠地を置く航空会社であるエアアジアの雇われ操縦士であるデム曹長は、元々はドイツ空軍の下士官搭乗員だった。

 しかも、ナチス政権時代にドイツ空軍が発足した直後に入隊していた最古参級の搭乗員で、同期入隊の中には下士官から選抜されて航空団司令にまで登りつめたものも少なくなかったのだ。


 最近になってデム曹長は、そうした輝かしい経歴の撃墜王、エクスペルテン達の影に埋もれた数多くの空軍将兵の中では、自分はまだましな人生を送ってきたと言えるかもしれないとまで考え始めていた。

 自分は流れ流されて、欧州から見れば地の果てとも言える極東まで辿り着いてはいたが、まだ自分は生き延びて四十が見えてきた今でも操縦桿を握っていられるからだ。



 皮肉なものだった。ドイツ空軍にデム曹長が潜り込んだのは、愛国心だのナチス党が掲げていた民族だとか思想だとかとは全く関わりがなかった。単にドイツ国内が第一次欧州大戦後の大不況であえぐ中で唐突に出現した軍という巨大な職場が魅力的だったというだけの話だった。

 入隊したドイツ空軍では、適性があったのかデム曹長は単発単座の液冷レシプロエンジン戦闘機ばかりを乗り継いでいた。その軍歴の多くはMe109の各型を乗り継いでいたものだったし、大戦終盤に乗り換えたFw190もMe109と同様に液冷エンジンを搭載した長鼻のD型だったからだ。


 ただし、デム曹長はその長い戦歴に反して単独で敵機を撃墜した経験は無かった。幾度も銃弾を敵機に叩き込んではいるから、運が悪かったとしか言いようがなかった。

 それに運の悪さなら他に発揮してしまっていた。新生ドイツ空軍からの誘いがベテラン搭乗員のデム曹長には一切かからなかったのだ。



 北ドイツをソ連軍に占領された状態の南ドイツで発足した新生ドイツ軍の特徴は、大戦中以上に陸軍に偏重した軍備にあった。

 元々地勢上ドイツが陸軍国家であったということもあったが、講和条約によって大戦中に活躍した潜水艦隊の存続を許されなかった上に、バルト海から追い出されたドイツ海軍に残された戦力は沿岸警備隊程度しかなかった。

 編制表の上では戦艦と改装空母それぞれ一隻を有するそれなりに有力な艦隊が存在していたのだが、本土沿岸には大型艦の運用に適した港湾部すら無いためにドイツ水上艦隊主力は英国本土に居候するしかなかったのだ。


 実質的に英国海軍の一部に編入されたようなドイツ海軍に比べれば、空軍はまだその状況はましだった。

 ドイツ空軍も潜水艦保有を禁じられた海軍と同様に爆撃機などの積極的な攻勢を行う機材のの保有に制限があったが、元戦闘機総監が主導する空軍再編計画では、そもそも高価な爆撃機など考慮もされずに、乏しい予算は戦闘機隊の再建に集中されていた。

 そもそも攻撃機は後方の日英仏などに任せて、ドイツ空軍は本土上空の制空権さえ確立すれば良いと考えられていたのだろう。

 そうなれば熟練の戦闘機乗りであるデム曹長にも声が掛かってもおかしくないような気がするのだが、実際には大戦終盤の僅かな間にデム曹長が所属した航空団の存在感がそうした声を遮っていた。



 デム曹長が大戦期間の最後に乗り込んでいた戦闘機であるFw190Dは、原型機が搭載していた大出力空冷エンジンを水冷エンジンに換装した型式だったが、エンジン換装による高高度飛行能力の向上といった開発仕様は単に後から付け足されたものだと言えた。

 実際にはエンジン換装が行われたのはもっと消極的な理由からだった。Fw190Dは不要となった爆撃機用の水冷エンジンを転用した機体だといえたし、それを操縦するデム曹長の任務も元爆撃機乗りが操縦するMe262の離着陸援護機というものだったのだ。


 実戦投入された最初期のジェット戦闘機であるMe262は加減速が鈍く、特に帰還時の滑走路上空を狙われるのは必至だった。その援護の為に航空団内部に援護用レシプロエンジン戦闘機を配備した航空隊が編成されていたのだが、航空団自体も本来は爆撃航空団だった。

 爆撃航空団へのMe262の配備は、当初ヒトラー総統の判断で同機が高速爆撃機として採用されかけていた名残とも言える措置だったのだが、総統暗殺事件の余波を受けて空軍内部の主導権を確立した当時の戦闘機総監が純粋な戦闘機としてMe262の用途を変更していたのだった。


 だが、レシプロエンジン単発の軽快なMe109やFw190から短時間でMe262に乗り換えた戦闘機乗りの多くが、敵地上空で格闘戦を挑んでは繊細なジェットエンジンを空中停止させて散っていった。

 その中には幾多の戦果を上げたエクスペルテン達も含まれていたのだが、その一方で爆撃航空団を改変していたデム曹長が所属した航空団は、元爆撃機乗り達による愚直なまでに敵攻撃機を狙った一撃離脱戦術で地味ながら確実な戦果を上げていた。

 だから空軍が再建されれば殊勲部隊として航空団も復活するのではないかとデム曹長も期待していたのだが、他の純粋な爆撃航空団同様に航空団は解散されて記録の多くも抹消されていた。



 軍も結局一皮むけば個人の集団でしか無い。純粋な戦闘機乗り達よりもジェット戦闘機で戦果を上げたことで爆撃航空団が嫉妬の対象になったのではないかと穿ったことをデム曹長は考えていた。

 そして、青春の全てを空軍に残して晴れて無職になったデム曹長は、皮肉なことに爆撃航空団時代の伝手を辿って怪しげなアジアの航空会社であるエアアジアに再就職していたのだ。

 大戦終結で余剰となった払い下げ機で商売を始めたエアアジアは、まともな航空会社ではなかった。そもそも英日軍関係者と繋がりがあるという噂のあった上官の紹介という時点で十分に怪しかったのかもしれない。


 エアアジアの拠点はマラヤ連邦にあったし、新規に雇用された地上要員などの若手社員は現地のものが多かったが、その資本や経営幹部は英国本国に握られていた。余剰となって払い下げられた輸送機を取得出来たのも、軍関係者や退役軍人の英国人の伝手があったからだ。

 安価な払い下げ機を前提とすれば、単価の低い現地人社員の雇用で運航費用を圧縮することで独立したばかりで需要が大して見込めないアジア諸国でも航空会社が成り立つという目論見らしい。

 いずれは現地人労働者の単価も上昇するがその頃には現地人の購買力も上がるから、その時には運賃も上昇させれば良いという話は、デム曹長にはどことなく胡散臭く聞こえた。


 実際には、現地人ムスリム向けの聖地メッカ巡礼便の開設で、エアアジアの利益は意外なほど短時間で上がっていたのだが、デム曹長のように外部から雇用されたベテラン搭乗員の仕事は後ろ暗いものばかりだった。

 オランダ領東インド諸島の、地図にも記載されていない滑走路もどきに無理やり着陸して現地反乱勢力に荷物を運ぶだとか、正体のわからないアジア人を運んで空挺降下もさせていた。

 挙げ句の果てには、二式貨物輸送機の側面に大砲を括り付けて、盛大な電波妨害を行いながら敵地上空に乗り込む事までやらされたものだから、デム曹長は雇われ航空会社社員ではなく、傭兵のようなものだった。

 口外禁止の触れと共に渡された莫大な危険手当が無ければ、後先考えずに何処かで逃げ出していたかもしれない。



 流石にデム曹長が関与した直接的な戦闘任務は短時間で終わっていた。雇われ搭乗員は兎も角、会社にとっては虎の子の大型機である二式貨物輸送機を危険には晒せなかったのかもしれない。

 だから暫くは胡散臭いといっても密輸程度の仕事があるくらいだったのだが、大型機である二式貨物輸送機は小回りがきなないし目立つから、その専属となったデム曹長は最近では安穏とした仕事を続けていたのだ。



 それが一変したのは日本と米国との戦争が始まってからだった。マラヤ連邦でデム曹長がその知らせを聞いたのは、滑走路脇の掘っ立て小屋のようなエアアジアの事務所内だった。

 最初のうちは、新型兵器で日本艦隊が消滅したという衝撃的な報道も、遠い世界の出来事としか思えなかった。マラヤ連邦とフィリピンは、地球儀で見ればすぐそこだが、実際には広大な南シナ海が遮っていたからだ。

 マラッカ海峡を挟んだ対岸に位置して、未だに騒乱が止む気配のないオランダ領東インド諸島の方が、デム曹長には間近の戦争だった。


 他人事だったのは、物理的な距離だけでは無かった。ドイツ空軍出身のデム曹長にとって日本軍は嘗て地中海上空で戦った敵だった。別に今でも憎しみがあるわけではないが、自分の機体を作った会社は、自分の僚機を撃墜した機体を製造した会社でもあることを思い出すと複雑な気分になるのも確かだった。

 米国に関しては、好悪以前に碌な知識がなかった。北米大陸で栄えており、ベルサイユ講和条約に伴う賠償金支払いの際に生じた借款関係からドイツを襲った不況の原因ともなったとされていたが、デム曹長の世代では二度の欧州大戦で中立を保っていた米国は教科書上の存在でしかなかった。


 報道という幕を通して見ていた戦争が急に自らのものとして降り掛かってきたのは、デム曹長の感覚ではごく最近のことだった。エアアジアの資機材、人員がマラヤ連邦空軍に徴用された上で対米戦争に投入されるというのだ。

 寝耳に水の話だった。大体マラヤ連邦に独立した空軍が存在するという話自体が初耳だった。マラヤ連邦の軍事力は沿岸警備隊程度の海軍、国境警備隊程度の陸軍でしかないというのが一度は欧州に覇を唱えたドイツ軍に所属したデム曹長の認識だった。



 マレー半島のタイ王国以南の英国植民地、保護国の各州の連邦国家として成立したのがマラヤ連邦だったが、通商、経済の要衝であるシンガポールは英国の直轄地として残されていた。

 経済的にはシンガポールの分離は損失が大きかったが、マレー人国家の樹立を望んでいたスルタンなど支配者層はむしろ華人の多いシンガポールの分離独立に安堵していたのではないか。


 国土面積でも経済力でも、マラヤ連邦は第二次欧州大戦を契機に独立国となった周辺諸国と大差はなかった。軍事力で言えば強力な戦艦を保有している事に放っているが、対岸のサラワク王国と同様に海軍籍にはあってもまともに運用する能力がないのだからあまり意味は無かった。

 むしろマラヤ連邦にとって脅威だったのは、巧みな外交力で列強間の間を泳ぎきって独立国家を保っていたタイ王国だった。英仏オランダなどの列強国家からすればタイ王国の軍事力は全く脅威とならない緩衝地域にふさわしいものでしか無いのだが、マラヤ連邦からすれば地域強国だった。


 マラヤ連邦に限らず、タイ王国を含めたアジア諸国は隣接する国家との国境紛争に備えるためにある程度の陸軍兵力の整備が優先されていた。もちろん彼らには大戦で活躍したような列強各国の大型戦車や大口径砲を購入する予算も運用する基盤も持ち合わせていなかった。

 確かマラヤ連邦軍の主力と言える数少ない機甲部隊は日英軍が第二次欧州大戦で投入した旧式装備、それも軽戦車や装輪式の装甲車が精々の筈だった。植民地支配体制の中で整備されていた街道筋であれば、走破性の低い装輪式装甲車でも運用できるらしい。

 日本軍の重装甲車などは75ミリ野砲を主砲としていたから、国境紛争に備えた抑止力としてはその程度でも十分なのだろう。むしろマラヤ連邦などは対岸のオランダ領東インド諸島からの共産主義者の流入などを警戒していた。



 概ね東南アジア諸国の軍事力などどこも似たようなものだから、本格的な紛争を起こせるような勢力は無かった。航空戦力も陸軍に付随する航空隊があれば良い程度で、その機材も連絡機を除けば戦闘機、それも日本軍の一式戦闘機のような単発単座のレシプロエンジン戦闘機ばかりのはずだった。

 この程度の兵力では、到底米国相手の戦争に投入できるようなものではなかった。デム曹長はそう訝しんでいたのだが、エアアジア徴用という話には続きがあった。

 実際には、徴用されたエアアジアの資機材を中核としてマレヤ連邦空軍が再編制されるという計画だったのだ。

二式貨物輸送機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/2c.html

一式戦闘機の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/1lf2.html

四四式軽装甲車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/44rsvl.html

四四式重装甲車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/44rsvh.html

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[一言] エア・アメリカ、書籍は面白かったのに映画は……何であんななっちゃったかなあ。
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