1951フィリピン上陸戦35
日本陸軍は、列強各国の中では珍しく1950年代に至ったこの時点でも愚直なまでに大規模な四単位師団編制を保っていた。これは師団の指揮系統下に基幹戦力である歩兵連隊を四個含むというものだったが、各国の主流はだいぶ以前から三個連隊からなる三単位師団に移行していた。
戦略単位である師団の三単位制への移管は、前線部隊の頭数が減ることで継戦能力の低下や、戦術上の選択肢を狭めることに繋がる一方で無視できない利点もあった。従来の四単位制師団から一個連隊を抽出して新たに師団を編制すれば、戦略単位を容易に増設出来るのだ。
師団数の増大は、第二次欧州大戦時のように師団を投入すべき戦線が多数出現した場合や、第一次欧州大戦時の戦略単位である師団ですら僅かな間で消耗する激戦が続くのであれば効果は大きいはずだった。
しかも三単位師団は連隊一つ分だけ編制が小さくなるから、戦略機動も容易だし、長期戦となっても兵站への負荷は小さかった。
ただし、有事の際に師団の増設を迅速に行うには条件があった。
主兵である歩兵連隊は三単位制に移行する師団から抽出された部隊の集約でどうにかなるかもしれないが、それ一つで固有の兵器とも言える師団司令部や歩兵連隊を支援する輜重、砲兵などの支援部隊を整備するには長い時間と予算が必要だったのだ。
三単位師団の戦闘能力を四単位師団に遜色ないものとするためには、師団直轄の砲兵隊など火力の充実が必要不可欠だったから、そうした支援部隊の裏付けのない師団の増設を行っても、単に全体的に兵力の質を低下させるだけだったのだ。
尤も、日本陸軍にはそうした支援部隊の原資は存在しているはずだった。実質的に予備部隊となっている師団の中には、隷下の歩兵連隊が予備役だらけで師団司令部のみが存在している部隊もあったからだ。
そうした予備師団やその隷下の歩兵連隊がこれまで廃止されなかったのは、上級将校や将官の数を確保するための部署を設けるのも理由の一つだったが、単に現駐地近くに本籍地がある徴兵者の訓練部隊として運用するためでもあった。
それに大正期に大規模な軍縮を行っていた日本陸軍は、歩兵連隊を削減する代わりに航空機や戦車隊などの機械化装備の拡充を行っていた。
実例もあった。第二次欧州大戦時にも高田の第十三師団が師団司令部に新規編成の部隊を集約して正規の師団として戦線に投入されていた。だから独立編制の機械化部隊を分割すれば、予備師団などを元に三単位師団を増設する余地はあったのではないか。
日本陸軍が流行に逆らって四単位師団の維持に務めていたのは、本来の予想戦場が欧州や太平洋ではなく、シベリア奥地となるはずだったからだ。日本陸軍が真っ先に想定する有事とは、膨大な戦力を持つソ連軍と対峙するシベリアーロシア帝国を支援する形で始まる防衛戦争だったのだ。
シベリアの戦場では、本格的な増援が来るまで師団単位の大部隊が交代する余地はなかった。国境線地帯から延々と遅滞防御を行いながらソ連軍の波を食い止めなければならないのだから、師団には予備兵力と戦術上の柔軟性を与える四単位師団の編制が必要であると考えられていたのだ。
ただし、同じ四単位師団と言っても、日本陸軍でもその内訳には幾つかの種別が生まれていた。従来型編制の師団は、他国で言うところの歩兵師団だったから、四単位の基幹戦力はすべて歩兵連隊だったのだが、昨今は大規模な再編制を行う師団もあったのだ。
例えば、北海道を原駐地として有事の際は真っ先にシベリアに投入されるはずだった第七師団は、1930年代には早くも二個歩兵連隊と二個戦車連隊を保有する重装備の戦車師団に改編されていた。
平時には、師団指揮下の歩兵連隊と戦車連隊はそれぞれ歩兵旅団と戦車旅団に分かれているのだが、有事の際には現在の第七一旅団がそうである様に歩兵と戦車一個づつの連隊に加えて、師団から配属された支援部隊を含む小型師団とも言える柔軟な部隊構成をとっていた。
第七師団隷下の歩兵連隊は、歩兵と言っても装甲兵車を保有する機動歩兵部隊だったし、師団砲兵隊も自走化されていたから、各旅団は戦車に追随して機動することが出来たのだ。
第七師団の戦車師団化は歩兵科と騎兵科の一部が合流して発足した機甲科の新設に伴って行われた半ば実験的な再編制だった。師団の原駐地は千歳にあったが、元々旭川にあった歩兵師団を改編した第七師団では原駐地に関わらず、全国から集まった機甲科将兵で構成されていたからだ。
だが、そうした特殊な編制の師団だけではなく、第二次欧州大戦を契機として戦車師団ではない一般の歩兵師団においても編制の変化が発生していた。
欧州に投入された師団の多くは、臨時編成で師団戦車隊や装甲兵車を増強されて機動歩兵師団化されていたのだが、四個歩兵連隊を保有する完全編制師団の機動歩兵化は、戦略機動が難しくなるほど重装備化が進んで図体が大きくなってしまっていたのだ。
しかも、戦車師団である第七師団と機動歩兵化された師団では、配属された師団戦車隊に加えて四個歩兵連隊を保有する後者のほうが戦力が大きいという奇妙な事態を引き起こしていたのだ。
大戦終結後にこれを整理するために、機動歩兵化された師団では、歩兵連隊の一つを改編して配属された師団戦車隊を吸収した戦車連隊に組み替えていた。この歩兵連隊の戦車化という措置は、英国陸軍において大戦中に行われた戦車連隊増設の先例に倣ったものらしい。
つまり、四単位師団には変わりないものの、改編された機動歩兵師団の基幹戦力は四個歩兵連隊ではなく、三個歩兵連隊と一個戦車連隊で合計四個連隊としていたのだ。
しかし、この新たな機動歩兵師団編制は、戦略単位における戦力の平均化という純粋に軍事的な理由だけではなく、第二次欧州大戦終結後の軍縮を求める雰囲気に対応したものでもあった。
大戦中には戦車隊が幾つも新設されていたのだが、この数を平時に維持し続けるのは難しかった。その一方で機械化部隊は高度な訓練を必要とするために一度廃止してしまうと復活させるのは難しかった。
それに大戦中に徴兵されていた兵達もかなりの数が除隊されるから、歩兵連隊ですら純粋にその数を維持するのは難しかった。
そこで、日本陸軍は職業軍人の多い機械化部隊をそのまま歩兵連隊の中身とすげかえることで、表向きは戦時中の特設部隊を廃止しながら基幹戦力となる連隊数を維持したままで数上の軍縮を行おうとしていたのだ。
政治家や大衆に向けた姑息な手段とも言えるが、新編制の機動歩兵師団が戦略的な機動性を保持しながらも、従来の純粋な歩兵師団よりも重装備なのは間違いなかった。
第七一旅団に先んじてリンガエン湾に上陸していた第二師団は仙台を原駐地としており、第二次欧州大戦では欧州に派遣されなかった正規師団であったのだが、この再編制作業が行われたばかりの機動歩兵師団だったのだ。
ルソン島への進攻を担当する台湾方面軍第一軍は、既に上陸戦闘に長けた歴戦の第五師団をルソン島北端のアパリに投入してしまっていたのだが、特殊戦部隊である機動旅団や砲兵団などの軍直轄部隊を除いても、第一軍には他に三個師団が配属されていることになっていた。
上陸岸として想定されているリンガエン湾底部から右岸にかけての地勢や写真偵察などから、守備隊として固定配置されているのは一個旅団相当と判定されていた。
第二次欧州大戦で日本陸軍が経験していた上陸作戦と比べても、上陸岸守備隊の規模は大規模とは言えないはずだった。
だが、実際には上陸第一波部隊の選定は難しかった。第一軍に配属された師団は日本陸軍だけではなかったし、再編制や移送が作戦開始までに間に合わない部隊も多かったからだ。
対米宣戦布告を行った国際連盟加盟国は、数で言えば大半が大西洋方面に存在していた。しかも欧州でも独ソ間で先端が開かれていたものだから、太平洋方面はこれまで日本帝国が単独で米国と戦っていた。
新たに独立したアジア諸国がこの戦争に実質的に参戦したのはこのルソン島進攻作戦が初めてとなるのだが、戦略的には助攻となるホロ島進攻作戦への支援を除けば、本格的な陸上部隊を派遣してきたのは満州共和国軍に限られていた。
日本陸軍にとってこの戦争の開戦時期は予想外のものだった。
シベリアーロシア帝国による対ソ戦略情報の分析結果などから、独ソ戦によって大きな損害を被ったソ連は戦力の回復と再編制を行っている最中であり、直近の開戦は可能性が低いと判断した日本陸軍は、自らも第二次欧州大戦の戦訓を反映した大規模な再編制作業を行っている最中だったからだ。
大戦終結に伴う軍縮もあって、戦略単位である師団の基本編制そのものが見直されるという大規模な制度改革だったのだが、先行していた陸軍航空隊の分離と空軍の創設に伴う作業も多かった。
しかも、本来はこの書類作業を担当する陸軍省も兵部省に統合されていた上に、やはり省内でも空軍関係の庶務作業が優先されていた結果、師団再編制には部隊によって進捗に大きな差が生じていた。
第二次欧州大戦に従軍していた若い兵士達は、この再編制作業中に多くが除隊していたのだが、皮肉な事に欧州に派遣されていなかった第二師団の方が、動員解除に伴う作業が少なかったせいか機動歩兵師団化に伴う再編制作業が順調に進んでいたらしい。
ただし、再編制と言っても実質的に行われたのは歩兵連隊の解隊だった。勿論、法的には連隊旗が受け継がれた事から部隊事の転科という扱いだったから連隊司令部や指揮下各隊の名称は残っていたのだが、実際には戦車連隊への移行に伴って連隊幹部以外の歩兵科士官は異動していた。
元々戦時中に膨大な数が動員された下級士官には招集された予備役将校も多かったから、歩兵科士官達は招集を解かれた予備役将校の代わりに各部隊に配置されていったのだ。
その代わりに配属されていたのは、大戦中に動員されていた戦車隊だったのだが、その内訳も独立大隊などが部隊ごと異動してきたものだから、連隊内の纏まりには欠けていた。
機動歩兵師団に配属されてきた多くの将兵は、歩兵連隊から戦車連隊に看板を付け替えた部隊に新たに配属されたという感覚だったのだろう。
本来下級将校たちは連隊内で昇進や異動を経験して渡り歩くものなのだが、歩兵連隊から戦車連隊への改編は上層部の思惑以上に若手士官たちに与えた心理的な影響は大きかった。急に家族、同族から放り出されたような気分だったのではないか。
後続の第二軍は、この再編制途中で作業を断念して急遽動員されてきた師団もあるらしいが、第一軍では再編制作業が戦時中に早くも行われていた第五師団の他には、第二師団しか機動歩兵化を終えた師団は存在していなかった。
第二師団が上陸第一波に指定されたのは、それが理由だったのだろう。いくら何でも派遣されてきたばかりの満州共和国軍を第一波に投入することは出来なかったからだ。
即応部隊として考えられていた為に、第二次欧州大戦に引き続いて派遣されてきた第10独立混成師団は、同国軍としては機械化が進んでいたから戦力価値で言えば日本陸軍の機動歩兵師団と遜色なかったのだが、初手から同盟国軍を投入するのは躊躇われていたのだ。
尤も、池部少佐達も人の事は言えなかった。第七師団のうちリンガエン湾に到着していたのは第七一旅団のみだったからだ。
第七師団は、他師団の機動歩兵師団化が進んでいる今でも日本陸軍で機械化が最も進んだ部隊だった。富士の試験、教導部隊を除けば、戦車だけではなく自走砲や装甲兵車も最新型が回されていたのだ。
しかも、ロシア帝国に派遣される予定の部隊向けの物資は、実際にはウラジオストクなどに予め集積されていたのに対して、第七師団は即応性を重視して駐屯地にすべてを整えていたのだ。
ところが、即応性を重視していた筈にも関わらず、日本本土が戦略爆撃を受けている最中に作戦の準備が開始されたためか、あるいは単純に装備が重すぎたのか、第七師団の輸送は想定の半分しか進んでおらず、残りの第七二旅団は師団司令部と共に日本列島沿いの何処かで道草を食っている筈だった。
結局、最新鋭の四五式戦車を装備する第七一旅団とそれに追随できる満州共和国軍第10独立混成師団は上陸第一波ではなく、戦果拡張用の第二波部隊に指定されていた。
結果論からすれば第一軍の判断は誤りだったかもしれなかった。第二師団先鋒は想定外の敵前上陸を行っていたからだ。
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