1951フィリピン上陸戦34
上陸岸の混乱はまだ続いていた。特一号型輸送艦からリンガエン湾右岸に足を踏み入れた池部少佐は、四五式戦車の車長用監視塔から身を乗り出して周りを観察していた。
既に上陸部隊を輸送する主力は、沖合の陸軍特殊船や海軍の船渠式輸送艦などから発進する軽快な中、小型の各種大発や水陸両用車両などではなく、より大型の特一号型輸送艦に移行していた。
上陸第一波は標的とされないように大発や水陸両用車で一挙に上陸岸に押し寄せて敵火力を分散させるのだが、海岸線に配備されていた敵守備隊をあらかた排除出来た時点で、輸送効率の良い大型輸送艦で大部隊を投入するのが常道だったからだ。
だが、上陸岸には乗船した部隊を下ろしたのは良いものの、離礁出来ずに陸地に取り残された大発や、波打ち際で撃破された水陸両用車両の姿も多かった。上陸岸は海軍第二陸戦師団と陸軍の第二師団が並行して作戦を行っていたはずだが、第二師団は敵主力の正面から上陸を行ってしまっていたらしい。
陰鬱な様子の池部少佐に、唐突に車内から砲手の由良曹長から軽い調子の声がかけられていた。
「大隊長殿、砲塔回しますぜ」
同時に装填手の日下上等兵が天井扉から身軽に飛び出すと、一旦静止した四五式戦車の後部車体に移動していた。日下上等兵が長大な砲身の固定金具を外して、素早く砂浜に降り立ったのを確認した池部少佐は、車内の由良曹長に声を返していた。
そして一瞬身震いする様に機関音を大きくさせると、ゆっくりと四五式戦車は巨大な砲塔を旋回させていった。
特一号型輸送艦に四五式戦車を満載する際は、砲塔を予め後方に向ける必要があった。車体前縁から突き出された長大な砲身が狭い艦内で邪魔になるからだ。
四五式戦車の機関室天蓋には砲身固定用の金具が設けられていた。長距離行軍中は、砲身の動揺を抑制する安定装置も機能を停止させて砲口近くを固定してしまうのだ。
この固定金物によって砲身の損害を防ぐと共に、占有面積を最小限に抑えるのが行軍だけではなく、鉄道や船舶輸送時の四五式の姿だった。
だが、池部少佐が乗り込んでいる生産が開始されたばかりの正式生産型の四五式戦車では、砲身固定金物の配置がそれまでの同用品とは変わっていた。
独重戦車等の一部がそうであった様に、旋回砲塔を有さない固定式戦闘室の場合は車体前方にしか固定金物を配置出来ないが、旋回砲塔の戦車でも車体前方に金物を配置した例は少なくなかった。
この様な固定金物が実用化されるようになったのは、第二次欧州大戦勃発からしばらくしてからだった。戦間期に停滞していた戦車の火力と装甲が急速に進化を開始したからだ。
大学を卒業していたことから幹部候補生として選抜されていた池部少佐には、戦間期に実用化された九七式中戦車などの乗車経験は殆ど無かったが、戦間期の戦車砲は短砲身のものが多かった。
大戦半ば以降の日本陸軍主力戦車となっていた三式中戦車も短砲身型が生産されていたが、この場合は高射砲弾道の長砲身砲と比べての短砲身と言う意味だったから、短いといっても野砲や榴弾砲に匹敵するもので、戦間期の短砲身戦車砲とは大きく異なっていた。
この頃に顕著になっていた問題は、砲身の釣り合いが取れなくなっていた事だった。九七式中戦車が装備した短砲身の57ミリ砲などは、砲身と機関部の重量が、砲を砲塔と繋ぐ砲耳の箇所で釣り合いが取れていたのだ。
当時の戦車砲は、照準の微調整は砲手の肩当てなどで人力で行っていたが、それは砲耳で前後の重量が均等に割り振られた結果、軽い力で動かせたからだった。
ところが、大威力化によって大口径長砲身化が進んでいくとこの釣り合いは大きく崩れていた。大口径化による機関部の大型化以上に、分厚く、長くなった砲身が重くなっていったからだ。
釣り合いを取るために砲耳を砲身前方に移動させる設計をとった砲もあったが、その場合は機関部側が砲塔内にせり出してくるという問題も生じていた。むしろ狭い砲塔内部で長大な薬莢の砲弾を迅速に装填する為には、砲耳を機関部側に移動する砲もあった程だ。
もはや僅かな照準補正であっても、人力で直感的に砲を操作する事など不可能だった。歯車の化け物で補正しなければ1ミルも動かす事は出来なかったのだ。
砲耳前後で崩れた釣り合いを補正する為に、ばねなどで強引に軽い機関部側を下に引っ張って射撃時に安定を図る砲も出て来ていた。
これが技術的には油気圧式シリンダーなどと連動した安定化装置に発展していったわけだが、機械的な安定装置は消耗も激しかったし、重量が掛かる砲耳の構造や釣り合い用のばねの劣化を防ぐためにも、出来る限りは戦闘時以外は砲身は固定しておきたかった。
砲塔前方で砲身基部を固定していたのはそれが大きな理由だったのだろう。
ところが、第二次欧州大戦終盤の頃には、既に車体前方での固定ですら用を成さなくなっていた。砲耳に架かる重量以前に、砲塔から突き出された砲身が長すぎて専有面積が増大してしまうばかりか、行軍時に破損する可能性まであったからだ。
仮に何も考えずに砲身を車体前方下部に突き出していると、起伏などで車体前方が下がった場合には、車体が傾斜して砲口を地面に突き刺しかねなかったのだ。
そこで、四五式戦車が戦闘時以外に砲を固定する場合は、砲塔を後部に向けて車体後部に設けられた金物で砲口近くを固定するようになっていた。
しかも、大戦終盤に投入されて池部少佐達が乗り込んでいた四五式戦車の初期生産型では砲身固定金具は車体後部の中心に設けられていたのだが、生産が始まったばかりの正規生産型では、少しでも車体から飛び出る砲身長を短くするために中心線ではなく端に金物取り付け位置が移動していた。
その為に四五式戦車が長距離行軍する際には、砲塔を僅かに斜め後方に向けるという些か迫力にかける奇妙な姿になってしまっていたのだ。
設計変更によって四五式戦車の正規生産型が端部に砲身を固定するようになったのは、初期生産型が装備した高射砲弾道の75ミリ砲よりも更に砲身が伸びてしまったせいでもあったが、この戦車の基本的な形状にも理由が隠されていた。
これまで日本軍が装備していた中戦車と比べても、四五式戦車は砲塔基部が設けられた戦闘室が車体前方に移動していたのだ。
四五式戦車の車体前方はひどく簡素な形状になっていた。防御を重視した結果、車体前縁を形成する傾斜した装甲板には開口部が存在しなかった。牽引用の金物が頑丈に溶接されているのを除けば、前方装甲はただの一枚板になっていたのだ。
かつて数多くの戦車が装備していた車体機関銃は、主砲同軸機関銃への統合などによって以前から廃止される傾向があったのだが、四五式戦車の場合は、操縦士の視界を車体上部に突き出したペリスコープに依存することで操縦用の開口部まで廃した分厚い防弾圧延装甲としていた。
車体前方から開口部を廃することが出来たのは、視界確保や機関銃装備などの工夫だけではなかった。足回りの改善によって、これまで避けられていた後部起動輪方式を採用できたのも大きかった。
これまで就役していた戦車も大半は車体後部にエンジンを配置していたのだが、その多くが前方に履帯に動力を伝達する起動輪を配置したために、重量のある変速装置も車体前部に置くしか無かった。
これは履帯の脱落を避けるには後部から繰り出すよりも、履帯を前方で引っ張っていくほうが楽だったからなのだが、変速装置に加えて車体中央部にエンジンと変速装置を繋ぐ駆動軸を設けなければならないということを意味していた。
駆動軸の問題が特に顕著になったのは、三式中戦車から採用されたトーションバーと組み合わされた場合だった。
それまでの車体側面に設けられていたシーソー式やクリスティ式の懸架装置とは異なり、トーションバー方式は性能は高かったものの、車体底部にばねとなるねじり棒を横向きに設ける必要があった。
つまり、狭い戦車の戦闘室内において、その底部に横置きのトーションバーと縦置きの駆動軸が交差する羽目になって、車体高さを押し上げる原因になってしまっていたのだ。
トーションバー方式の足回りが実用化されてこの欠点も周知されてから開発が進められていた四五式戦車では、履帯形状の見直しなどによって脱落を防止する機構を追加された上で後部に起動輪を設けることで、重量物の一つである変速装置をエンジンと半ば一体化して車体後部に押しやっていた。
変速装置は、大重量の戦車を操縦するために消耗が激しく、頻繁な点検が必要だったから、これまでは車体前方に変速装置に繋がる大きな開口と扉が必要だったのだが、四五式戦車はこれも廃して開口部を車体後部の機関室に集中していたのだ。
これにより四五式戦車は戦闘室床面を低くして、非発見率の低下を意味する全高を抑えることに成功していたのだが、これは逆説的には増厚される一方の車体全面装甲重量との車体前後釣り合いを確保するためでもあった。
戦車を駆動させる大出力の水冷ディーゼルエンジンと変速機でさえ、前面装甲の前では釣り合い用の錘扱いでしか無かったのだが、機関部と釣り合いを取っているのは車体前面装甲だけではなく、同じく重量物である砲塔も同様だった。
四五式戦車の砲塔は、三式中戦車と同様に装甲厚みを自在に制御された鋳造装甲と溶接箱組の組み合わせで出来ていたのだが、主砲と釣り合いを取るために砲塔後部の即応弾庫と無線搭載用の構造物は大きく後ろに伸ばされていた。
砲塔と車体を繋ぐ基部直径は三式中戦車以上に大きく取られていたし、砲塔後部の張り出しは車体に収まりきれなかった各種補機を大きく上部にはみ出させていた機関部天井との干渉を防ぐために、下部をえぐり取られたような変則的な形状をしていた。
多くの重量物を詰め込んだ四五式戦車は、かつての重戦車並みの重量に達していた。中戦車というカテゴリーそのものを日本陸軍が廃止して、ただ戦車とだけ命名したのは、決して意味のない事ではなかったのだ。
そしてこの鉄塊を満足に動かすために設計された機関部は、分厚い前面装甲と比べても遜色のない重量と、それに比類して大きな容積が取られていた。前面装甲と砲塔の重量と釣り合いを取るために車体後部に押し込まれた機関部は、容積の面では砲塔を前方に押し出す原因ともなっていた。
乗員達を困らせた大きく伸ばされた砲口は、だから戦闘室が中央から前方に押し出されたことが原因でもあったのだ。
池部少佐は、全ての釣り合いを保つために結果的に更にいびつな存在へと四五式戦車が発展していったような気がしていた。伝説の怪物を現実のものとするためには、幾つもの矛盾を解決しなければならなかったのかもしれない。
そして、その伝説の怪物を戦場で運用する大小の手間は乗員達が支払わなければならなかったのだ。
池部少佐が、船艇機動中に愛車の砲塔を後方に向けて砲口を固定することに同意していたのは、自分達第七一戦車連隊、ひいては第七師団の半数の戦力を与えられた第七一旅団が戦果拡張用の第二波上陸部隊に指定されていたからだった。
大型の戦車揚陸艦である特一号型輸送艦から降りたった池部少佐達は、上陸直後から咄嗟戦闘に巻き込まれる可能性は低いはずだった。既に上陸岸一帯は先行する第二師団と海軍第二陸戦師団によって制圧されている筈だったからだ。
これが彼ら自身が第一波上陸部隊に指定されて、より小型の特型大発にでも載せられているのであれば、破損や収容数減少など無視して池部少佐は即座に戦闘に入れるように砲口は前方に向けていただろう。
しかし、上陸戦闘で消耗した第二師団を超越して第七一旅団が上陸岸から内陸部に進行する戦果拡張用部隊であったとしても敵地に足を踏み入れた以上行軍態勢でいることは、欧州の戦場で幾度も意に望まぬ戦闘に巻き込まれた経験を持つ池部少佐には出来なかった。
慎重に砲塔を旋回させていた為に、車長用監視塔から身を乗り出していた池部少佐の視線は、各種大発が沖合の輸送艦と海岸を行き来する海面から、これから自分達が進攻すべき内陸部にゆっくりと変わっていった。
だが、その狭間の上陸岸に視界が切り替わると、池部少佐は思わず眉をしかめていた。
「第二師団は手酷くやられたようですな……」
いつの間にか砲手用扉から頭を突き出していた由良曹長の声は相変わらず軽いものだったが、第二師団に所属していたのだろう三式中戦車に向けられていた曹長の目は、池部少佐に劣らないほど真剣なものだった。
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