1951フィリピン上陸戦31
極東米軍司令部の誤認によって、フィリピンに配属された貴重な重戦車大隊を含む機動反撃部隊は、無為にルソン島を右往左往していたのだが、移動手段がそもそも存在しない第24歩兵連隊の将兵たちは、その間もリンガエン湾奥に指定された自分達が収まるべき防衛線で陣地構築作業を黙々と続けていた。
上級司令部である第24歩兵師団に所属する補給中隊までもが抽出されて機動反撃部隊に追随している為なのか、第24歩兵連隊の給与は滞りがちになって、日々の糧食まで減食される始末だった。
リンガエン湾の南東部には、大規模な兵站集積地も設けられていたのだが、極東米軍司令部付の兵站部隊が開設した集積地は、湾奥に防衛線を敷いた第24歩兵連隊の陣地から連隊の段列が往復するには距離があり過ぎていた。
リンガエン湾の右岸湾口近くまでマニラから北に伸ばされた鉄道が敷設されているのだが、第24歩兵連隊をマニラから移送してから暫くして、この路線は終点となるサンフェルナンド駅から末端部を切り捨てるように兵站集積地が開設されたリンガエン南東部までの運行を停止していた。
日本軍の上陸に備えて、彼らに奪われて利用されるのを防ぐ為であるとして全ての機関車が兵站集積地近くの駅よりも以南に引き返していたのだ。
だが、連隊段列の補助に駆り出されたドラゴ二等兵は、極東米軍司令部の兵站部には別の思惑があるのではないかと考えていた。実際に鉄道の利用を阻止したいのであれば、線路そのものを撤去したほうが確実ではないかと考えていたのだ。
別に多大な労力を使って全ての軌道を排除しなくとも、復旧に時間がかかりそうな要所のみを破壊した場合でも、上陸直後に鉄道利用を防ぐ程度の効果は望めるはずだったが、実際にそのような作業を行った気配は無かった。
それに機関車こそ引き返していたものの、客車や貨車の何両かは駅に残置されていた。第24歩兵連隊では、連隊に必要な物資の輸送に困った結果、路線上に残されていた貨車をトラックや人力で牽引できないか試していたから、取り残された貨車が破壊されずに稼働状態で残されていたのは間違いなかった。
第24歩兵連隊向けに振り分けられた補給物資は、移送距離は長いのに量はそれほどでもなかった。単に連隊本部中隊に配備されたトラックの数が少ないものだから、輸送し切れないだけだったのだ。
その一方でドラゴ二等兵が目撃した兵站集積地に積み上げられた物資の量は連隊向けとは比較にならないほど多かった。それにタイヤを地面にめり込ませるように貨物を満載したトラックが集積地から何台も連なって北に向かっていくのも何度か確認していたのだ。
兵站集積地に指定された駅は、近くの村落からサンメリーダと名付けられていた。村落の規模はそう大きなものではなかったが、兵站集積地の辺りは奇妙なほど広く整地されていた。
整地された土の色や乾燥具合からすると、整地作業は兵站集積地を開設するために昨日今日行われたものでは無さそうだった。
ドラゴ二等兵は、無闇矢鱈と開墾されては最後は黒い嵐を呼び込んでいた耕作放棄地と、それを作り上げた後に自らも朽ちていった赤錆たトラクターの姿を米本土の故郷で何度も見ていた。
だが、このルソン島中央平原は、米本土中央部と比べると遥かに肥沃な大地が広がっていた。降雨量が多い為か、黒ぐろとした畑には勢いよくドラゴ二等兵の背丈よりも高いサトウキビやバナナの茎が伸びていた。
農園を取り囲むように設けられた周辺のあぜ道とは明らかに規格が異なる街道がサンメリーダ村近くには設けられていた。兵站集積地から出発するトラックも、その街道を通過して行ったのだ。
駅近くの地形を確認しながら、ドラゴ二等兵は目前に積み上げられた物資が存在しない状態を想像してみた。想像の結果は単純なものだった。おそらくこの整地された場所は、本来引込線か分岐線を作ろうとした名残なのだろう。
整地箇所の地形や面積からすると建設されようとしていたのは単純な分岐だけではなさそうだった。リンガエン湾奥に向かって北上する路線から分岐した路線は、少なくとも中央山脈の麓には達する計画だったのではないか。
マニラからほぼサンバレス山脈沿いに敷設された既存の鉄道から分岐して中央山脈の麓まで支線を建設するとすれば、おおよそ50キロは必要となるだろう。
おそらくはこれは、マニラを中心に中央平原とルソン島南端のレガスピを南北に繋ぐだけの現在の路線を拡張して、開発途上のカガヤン・バレー地方への交通の便を図るためのものだったのだろう。
そして支線が完成すれば、サンメリーダ駅も拡張されて信号所を併設することになっていたのだろう。その跡地を極東米軍司令部が兵站集積地に転用していたのではないか。
分岐線の形跡からすると、ここはカガヤン・バレー地方からの街道とリンガエン湾からマニラを結ぶ街道の結節点となっているからだ。
ただし、北米大陸を結ぶ一大路線網を建設した米国の鉄道技術であっても、険しいルソン島中央山脈を越えることは難しかったのだろう。第一、植民地用の規格なのか、北米大陸に敷設された多くの鉄道とは異なり、マニラを起点とする路線は狭軌で敷設されていたのだ。
もしかするとこのマニラ北方線は、そもそもが北米大陸を縦横無尽に繋いだ米国系の技術ではなく、スペイン統治時代の末期に敷設が始まっていたものだったのかもしれない。
しかも、人口の多いマニラ近郊ならまだしも、普段はそれ程の旅客や貨物の動きは無いのではないか。ドラゴ二等兵達が降り立ったリンガエン湾奥の駅もどこか寂れた雰囲気があったのだ。
おそらくはサンメリーダ駅から街道に併設して支線が伸ばされたとしても、カガヤン・バレー地方から山脈を越えてきた辺りに終着駅が設けられて、街道から貨客を引き継ぐという中途半端な存在にしかならなかっただろう。
マニラから遠ざかる程費用対効果が悪化する鉄道を敷設する程の利益は支線には望めなかった。その先のカガヤン・バレー地方にはそれほどの人口も産業も無かったからだ。
本来はカガヤン・バレー地方の開発を促すための輸送力増強だったのだろうが、経済性を無視しては鉄道経営は成り立たなかったのだ。
どこかで計画が放棄された支線が、実際に今回の騒動の最中に存在していたとしても、兵站集積地が中央平原の外れにもう一箇所設けられただけだったのではないか。
第24歩兵連隊としては、兵站集積地がこれ以上遠くに設けられるよりもは今のほうがましなのかもしれない。サンメリーダ駅に到着した貨物列車を見ながらドラゴ二等兵はそう考えていた。
サンメリーダ駅の前に野積みされた物資の量からすると、マニラに設けられた極東米軍直轄の集積地から鉄道輸送されてくる量は膨大なのだろう。実際には日本軍に奪取されるのを恐れたのではなく、この量の貨物を運び込む為に、機関車は後方に送られていたと考えるのが自然だった。
ただし、マニラとサンメリーダ駅を往復する列車の本数は多いものの、1編成辺りの輸送量はそれ程でもないようだった。鉄道の規格が貧弱である上に、単線で敷設されているからだ。
単線によって建設時の費用は抑えられていたが、今のように緊急で行う増便は難しかった。複線化された一部の駅や信号所で行き違う列車の通過を待つだけの列車が増えるからだ。
滞留する列車にも当然機関車は必要だったが、信号所の待機線はそれほど長いものではないから、1編成あたりの連結数はさほど増やせなかった。それに待機線を設けてすれ違い箇所を増やした所で、一度事故が発生すれば被害は波及的に拡大していくだろう。
マニラ、サンメリーダ駅間で多くの貨物列車が編成されていたにも関わらず、サンメリーダ以北に機関車ではなく貨車が残されていたのは、貨車ばかりがあっても運用しきれなかったからなのだろう。
サンメリーダ駅の物資集積所を背にしながら、他の黒人兵に混じって海岸線に引き返すドラゴ二等兵は、呆れたような目で中央山脈のある北の方を見ていた。
線路に併設して続いているサトウキビ畑が視界の邪魔になっていたが、伸び始めたサトウキビの隙間から垣間見える山脈の向こうでは、機動する重戦車大隊を活かすために大勢の兵隊と貨物が動かされていたのだ。
―――それ程多くのものに傅かれる重戦車はどれだけ強力なのだろう……
そう思いながらもドラゴ二等兵は少しばかり恨めしい感覚も覚えていた。これだけの物資と兵站線が海岸線の第24歩兵連隊にも振り向けられていれば、もっと自分たちも楽が出来るだろうと考えていたのだ。
この時のドラゴ二等兵が知る由もなかったが、彼は二重に間違えていた。重戦車大隊を含む機動反撃部隊は、この時には既に作戦計画の修正を決断した極東米軍司令部の命令で、中央山脈を越えて中央平原に引き返しつつあったのだ。
同時に、どれだけ海岸線に物資が集積されていても無駄だった。ドラゴ二等兵が引き返してからしばらくして、日本軍が事前の予想通りにリンガエン湾に襲来したのだが、彼らは短時間の内に海岸全体を焼き払ってから上陸してきたのだ。
その日、第24歩兵連隊には破局が訪れていたのだが、その予兆は何日か前から姿を見せていた。
ルソン島西岸で日本艦隊に撃破されたデモイン級重巡洋艦と何隻かの駆逐艦は、スービック湾に残された乏しい資機材を駆使して応急修理を行うと、マニラ湾入口のコレヒドール島近くに移動していた。
時間も機材も無かったことから損傷艦に行われた機関部の応急修理は限定的なものだった。だから修理後も全力での航行は難しいから後方に退避するのは難しくなっていたのだが、最低限の航行機能は回復していたのだ。
既にどこにいても回避行動すら難しかったのだから、日本軍の上陸が予想される今では、残存艦隊がスービック湾にとどまる理由はさほどなかった。地形上スービック湾自体が上陸地点に選ばれる可能性は低いから、ここに立てこもる必要性も薄かったからだ。
幸いな事にデモイン級は2隻ともいくつかの主砲塔は無事だったから、いざというときはマニラ湾内のどこかに乗り上げて要塞地帯の沿岸砲台として運用するべく艦隊は極東米軍に合流していたのだ。
スービック湾の海軍基地は可能な限りの物資を移動後にマニラ要塞地帯の外郭陣地に組み込まれていたが、これでしばらくはマニラ周辺の制海権は日本軍に握られたも同然だった。
しかし、極東米軍司令部ではこの段階でも悲壮感はないのか隷下の部隊に精力的に指示を発信していた。
確かにこの時点ではスールー海やルソン島北西部は日本海軍に無防備な側面をさらけ出していた。
開戦直後の日本海軍空母部隊の反撃によって、スールー海西側のパラワン島に駐留していた部隊や航空基地は大打撃を受けていたし、現地勢力を扇動したホロ島への奇襲上陸によってスールー海東側のスールー諸島まで日本軍に制圧されたも同然だった。
そしてルソン島北端への日本軍上陸と滑走路の奪取、アジア艦隊残余の無力化という一連の戦闘によって、マニラ周辺の制空権すら怪しくなっていたのだ。
それでもフィリピンの中核であるルソン島中央部は健在だった。それどころか独立派に占領されたホロ島からであってもパナイ島やミンダナオ島によって遮られたルソン島南東のレガスピ方面は、グアム島からの連絡線すら維持していた。
リンガエン湾に日本海軍の上陸船団が接近中という報を受けても極東米軍司令部に動揺が生じていなかったのも、これまでに損害は生じていたが、大枠では当初の作戦計画通りだったからだ。
自分達がマニラ要塞地帯で日本軍を引き付けて耐久すれば、グアム島からの戦略爆撃で米国が勝利するという大戦略に寄与できるという認識があったからだ。
むしろ戦前の戦争計画の多くではフィリピンは有力な日本軍に開戦直後に奪取されるだろうと想定されていたのだから、それに比べれば現状は遥かに有利だった。
国家戦略に巻き込まれた兵士達の生き死にはそこでは何の価値もなく、ただ数字として集計される戦傷死者の数だけがあった。