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1951フィリピン上陸戦30

 当初の作戦計画とは異なり、デモイン級重巡洋艦は日本艦隊との交戦後にスービック湾に帰投していた。ただし、極東米軍の前に姿を表したのは出撃した三隻の内二隻だけだった。

 しかも、残存する二隻も大きな損害を受けて這々の体で湾内に滑り込むように後退していた。機関部に大きな損害を受けたのは明らかだった。スービック湾に意に反して二隻が帰還したのは、単に速力が低下してグアム沖のアジア艦隊主力まで辿り着けそうも無いと判断されてしまっていたからだった。


 出撃した艦隊がルソン島西岸を航行中に迎撃に出た日本艦隊と交戦を開始した事は既に極東米軍も把握していたのだが、極東米軍司令部の予想以上に、アパリ沖で上陸作戦の支援にあたっていた日本艦隊は強力だった。

 ボルチモア級重巡洋艦に続く米海軍重巡洋艦の集大成として建造されたデモイン級重巡洋艦は、従来の同級艦を上回る戦闘能力を有していたはずだったのだが、意気揚々と出撃した同級は半日程経ってから日本艦隊と交戦し、それから往路の倍となる丸一日をかけてスービック湾に後退してきていたのだ。



 デモイン級重巡洋艦が装備する主砲は、一見するとボルチモア級と大差がないものだった。長砲身の8インチ砲とはいえ装備数は三連装砲塔3基計9門でボルチモア級と同数だったからだ。それどころか使用する砲弾も同種類で砲身長も同様だったから、砲身は殆ど同一のものだった。

 その一方で、主砲弾に耐久しうるほどの装甲を与えられた船体の規模は、軍縮条約が完全に無効化された時代に設計された為に、半世紀前の戦艦をも凌ぐ二万トン近い排水量を有していた。

 ただし、排水量の余裕は従来の巡洋艦よりも戦艦に近い設計思想の装甲配置を実現させるためのものだけでは無かった。デモイン級の主砲塔は、ボルチモア級のそれが三百トン程度しか無かったのに対して、少なく見てもその五割増しの重量があったのだ。


 デモイン級の主砲は、装填機構が自動化されているのが最大の特徴だった。人力を介さない為に分当たり十発という高角砲並の高い発射速度を有する上に、疲労などによる装填速度の変動も起きなかった。

 従来の8インチ砲ではその半分の発射速度も出せなかったのだから、デモイン級重巡洋艦は単純に言えばボルチモア級の倍の投射量を有するということになるのだ。



 だが、ボルチモア級重巡洋艦が、クリーブランド級軽巡洋艦と同時期に数十隻も建造されていたのに対して、デモイン級は海戦直前に太平洋艦隊を経由してアジア艦隊に配属されたこの三隻しか建造されていなかった。

 計画ではボルチモア級に続く米海軍重巡洋艦の主力として十隻以上が建造される予定もあったらしいのだが、デモイン級の起工は米海軍巡洋艦戦力の拡張を主導していたルーズベルト大統領が病死した直後だった。

 副大統領から昇格したエレノア大統領は、自身が暫定政権となることは分かりきっていたから国防予算は前政権通りに執行していただけだったが、その頃から政府から建造計画の主導権を取り戻した海軍省によって巡洋艦建造計画の見直しがかけられていた。

 国防予算のバランスや他の艦艇建造予算を捻出するために、有力だがそれ以上に複雑で高価なものとなったデモイン級の建造計画はその途上で中断されていたのだ。


 カーチス政権になって三隻でデモイン級の建造が打ち切られていたのは、同級が半ば実験艦と海軍側にも捉えられていたためかもしれなかった。大口径砲用の自動装填装置などの新機軸の搭載は極めて強力な火力をデモイン級に与えていたが、建造費の高騰を招いていたのも事実だった。

 単位時間あたりボルチモア級の倍の火力を発揮できるといっても、元々同級ですらその数を持て余していた米海軍にはデモイン級の戦力は過剰とすら思われていたのだ。

 第二次欧州大戦で発生していた水上戦闘の戦訓を反映してデモイン級は計画されたというのだが、米国では多くのものが欧州大戦を他人事と捉えていたから、これほど強力な重巡洋艦を保有する必要性すら疑われていた程だった。



 アジア艦隊主力を率いて出撃していった艦隊司令長官のキャラハン大将が最新鋭の重巡洋艦をスービック湾に残置していったのは、デモイン級が戦力にならないと判断していたからではなく、他の巡洋艦と組ませるには大柄過ぎて緻密な艦隊行動を行うには支障をきたすと考えていたからではないか。

 皮肉なことに、グアム沖での戦闘では巡洋艦部隊はデモイン級重巡洋艦よりも更に一回り大きいアラスカ級大型巡洋艦と行動を共にしていたからキャラハン大将の懸念は杞憂であったのだが、太平洋艦隊から配属されたアラスカ級と巡洋艦部隊が合流したのはグアム沖だった。


 ところが、旧時代の戦艦ですら持て余すのではないかと考えられていたデモイン級重巡洋艦は、日本軍の支援部隊でしか無いはずの艦隊に一隻が撃沈されていた。残り二隻のデモイン級に随伴する駆逐艦も無事なものは一隻も無かった。

 アジア艦隊主力が去ったスービック湾に取り残されていた駆逐艦は、艦齢の長い旧式のものばかりだったし、同時に出撃した軽巡洋艦も新鋭のクリーブランド級ではなく、軍縮条約下で建造されていたブルックリン級軽巡洋艦で構成されていた。


 極東米軍司令部の少なくない要員は、デモイン級重巡洋艦の無惨な姿を目にして艦隊は壊滅してしまったものと早合点していたのだが、実際の戦闘は少しばかり違っていた。

 スービック湾に引き返してきていたのは、洋上での応急修理を行ったとしても艦隊速力が発揮できないと判断された艦だけだった。ブルックリン級軽巡洋艦に率いられた艦隊は、少なくとも半数以上が残存して離脱に成功していたというのだ。



 スービック湾を出撃した艦隊は、艦隊の中でも最有力、かつ最新鋭のレーダーを装備していたデモイン級重巡洋艦がやや先行する不規則な陣形をとっていた。

 常識的には、未知の敵艦隊と接触する可能性があるのであれば、もっと身軽な駆逐艦を前衛に出すべきだったのだろうが、随伴する駆逐艦は旧式である上に予算の限られた米海軍では全ての駆逐艦にレーダーを搭載する余裕がなかったのだ。

 いずれにせよ、デモイン級重巡洋艦が有する火力と索敵能力であれば、相手が戦艦でもない限り初手から砲撃戦で撃ち負けることは考えにくいし、前衛の駆逐艦や軽巡洋艦程度ならば先手を打って一蹴出来る筈だった。


 ところが、デモイン級重巡洋艦はルソン島を北上する途上で日本艦隊による奇襲を受けていた。唐突にロケット弾攻撃が開始されていたらしいのだ。

 グアム沖での戦闘では、日本艦隊がロケット弾を発射していたとの未確認情報が上がっていたが、この海域にもそのような艦艇が潜んでいたのかもしれない。

 ただし、ロケット弾攻撃は散発的なものだった。奇襲攻撃の混乱から立ち直った三隻のデモイン級重巡洋艦は直ちに対空射撃を開始していた。残存艦乗員の証言によれば何発かのロケット弾を撃ち落とすことに成功していたらしい。


 だが、ロケット弾攻撃は囮だった。同時に雷撃が行われていたのだ。先頭を航行していた艦の舷側に、対空射撃中に唐突に巨大な水柱が発生していた。発射艦らしき敵艦との相対位置からすると、ロケット弾の発射より以前に長距離から魚雷攻撃が行われていたのではないか。

 雷撃によって速力が低下した先頭艦はその後の日本海軍巡洋艦との交戦で集中射撃を浴びて撃沈されてしまったし、後続の2隻も水線下への被弾で損傷を負っていた。

 米海軍が収集していた欧州における戦闘の情報を分析したところ、日本海軍の水上艦が使用する魚雷の射程は想定以上に長いのではないかとされていたのだが、その噂は本当であったらしい。



 しかし、デモイン級重巡洋艦の奮戦は無駄ではなかった。真偽は定かではないが、乗員によれば日本軍の戦艦すら目撃したというのだが、損傷した機関部を騙しながら、デモイン級は予想以上に有力であったにも関わらず日本艦隊を自らに引き付けていたからだ。

 デモイン級重巡洋艦三隻と日本艦隊の交戦域を避けて機動していた軽巡洋艦と駆逐艦からなる小艦隊は、作戦計画通りにルソン島北端を回り込んで巧みにバブヤン諸島を盾に接近してアパリ沖に屯していた日本軍の輸送船団を襲撃していた。

 輸送船団の直掩部隊との交戦で損傷した駆逐艦は、幸いにも引き返す途中で同じく日本艦隊との交戦を切り上げて撤退を開始していたデモイン級と合流していたのだが、その艦の乗員によれば、米艦隊はアパリ沖では日本軍の輸送船を何隻も沈めていたらしい。


 撤退して来たデモイン級重巡洋艦に残された損害は、水線下の雷撃によるものを除けば、軽巡洋艦以上の大口径砲によるものだと判定されていた。中には戦艦主砲を被弾したという声もあったのだが、被弾した箇所は敵弾に引きちぎられて海底深く沈んでいったから敵弾を確認しようもなかった。

 それに対してアパリ沖から引き返してきた駆逐艦の被弾痕は、より小口径の高射砲などによるものや、よほど敵艦と至近距離まで接近していたのか機銃弾の連続した弾痕まで船体に残されていた。

 おそらく、アパリ沖には大口径砲を装備する有力な日本海軍艦艇は残されていなかったのだろう。そもそも戦艦や重巡洋艦の強力な主砲を駆逐艦が被弾すれば、一撃で致命傷になってもおかしく無かったのだ。



 だが、アパリ沖での戦闘結果が明らかとなった後も極東米軍司令部は慎重だった。あるいは、アジア艦隊の上げた戦果をどう解釈すればよいのか迷っていたのかもしれない。

 視界の利かない夜間戦闘では状況は錯綜して戦果も不明な点が多かったが、情報を精査してみると当初の予想よりも日本軍がアパリ沖に展開していた船団の規模が小さいのではないかという声が司令部内には強かったのだ。

 補給船が上陸岸近くで待機していたのは間違いないと思われるが、上陸戦用の機材は既に上陸作業を終えて後方に下がっていたのではないか。

 むしろアパリ沖から大規模な船団が後方に下がったからこそ、日本海軍はデモイン級重巡洋艦を制圧出来るほど有力な艦隊を安心して上陸岸の支援からアジア艦隊の迎撃に投入できたのかもしれなかった。


 それでは、米軍の逆襲を受ければ上陸した一個師団規模の日本軍は撤退も出来ないということになるし、アパリ周辺の日本軍の護衛部隊が小規模だったのを考えれば洋上からの支援砲火も大して期待出来ないのではないか、そう疑う声もあった。

 日本軍がそれほど不退転の覚悟を持って上陸したと言うことかもしれないが、実際にはフィリピン師団の乏しい戦力を見切っていただけだろう。あるいは、日本軍の上陸前に散発的に発生していた沿岸部の襲撃は単にフィリピン師団の戦意や能力を推し量る為のものだったのかもしれない。


 だが、極東米軍司令部は上陸戦用艦艇の後退から別の意図を推測していた。アパリへの奇襲的な上陸成功に味をしめた日本軍は、本命の上陸作戦を遂行するために、貴重な上陸作戦用の機材を一旦台湾島などに撤収させていたのではないか。

 アパリに向かっていた機動反撃部隊に引き返すように命令が下ったのは、このような判断が理由だったようだった。



 確かにカガヤンバレー地方の道路状況は劣悪だったが、不退転の決意を持って進路構築作業に集中して手持ちの工兵隊を投入すれば、重戦車大隊でアパリに上陸した日本軍を蹴散らすには不可能ではなかった筈だった。

 だが、たとえ勝利したとしても一度本格的な戦闘に投入してしまえば、損傷した戦車隊を整備してカガヤンバレー地方を決戦の戦場となると思われるルソン中央平原まで引き返すには膨大な時間がかかるはずだった。

 結局、直近に迫っていると思われた本命の上陸作戦における反撃を実行するためには、機動反撃部隊は元の配置に戻さざるを得なかったのだ。


 極東米軍司令部は、日本軍の上陸作戦に時間差があると期待して内線の利を活かすべく部隊を動かしていたのだが、実際には米軍側のフィリピンにおける道路事情と、日本軍の自在な海上機動を考慮すると、ルソン島の戦場には内線も外線も存在しなかったのだった。

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