1951フィリピン上陸戦29
北米大陸に引きこもった米国は、旧大陸で二度に渡って繰り広げられていた欧州大戦を横目で見ていただけだったのだが、新技術である航空機の発展は理解していた。
米国は世界で初めて動力航空機を飛行させた国なのだからそれも当然だったが、同時に航空機を迎撃する為の各種対空砲も欧州列強の装備を見据えながら開発を進めていたのだ。
戦訓こそ不十分だったかも知れないが、米軍の対空能力は他国に劣らない筈だった。
長年米陸軍が主導して建設されていたマニラ要塞地帯にも多数の対空火砲が配備されていた。効果的に配置された対空火力は、日本軍機の空襲から要塞地帯だけでは無く、航空基地も守っていた。
ルソン島北端のアパリに上陸する前から日本軍機は執拗に航空撃滅戦を挑んでいたが、損害はマニラ北方のクラーク基地以北に点在する航空基地に集中していた。日本軍もまずはマニラの前衛となるクラーク基地を無力化しようとしているのだろう。
アパリに上陸した部隊は現地守備隊を蹴散らしていたが、極東米軍は日本軍上陸部隊の規模を冷静に見積もっていた。上陸作戦の手際は際立っていたが、上陸部隊の規模をどう解釈しても極東米軍の全部隊を蹴散らしてフィリピンを完全占領出来るほどの大軍ではなかった。
少数のフィリピン師団しか配備されていない手薄なカガヤン・バレー地方であれば無人の荒野を行く如く進軍できるかもしれないが、ルソン島北端からマニラに辿り着く頃には、戦闘が無くとも敵地に長大な補給線を設定すること自体で消耗してしまうだろうから、内陸部を行軍する可能性は低かった。
日本軍の主力は他にいて、彼らは単なる支援部隊であるという可能性も高かったが、その場合もアパリ周辺に展開する部隊は主力の上陸と時を同じくして南下を開始すると予想されていた。
ルソン島北東部のカガヤン・バレー地方ではなく、海上からの補給を駆使してルソン島北西岸を南下すれば、短時間でリンガエン湾奥に構築された第24歩兵連隊の防御陣地を側面から突くことが出来るのではないか。
だが、そうした冷静な判断を極東米軍司令部が下していた一方で、スービック湾のアジア艦隊残余は焦りを感じていたようだった。
アジア艦隊の主力は、太平洋艦隊の増援と共にマリアナ諸島の制圧作戦に投入されていた。第1海兵師団を含む艦隊の指揮は、現地に進出したアジア艦隊司令部がとっていたから、スービック湾に残っていたのは巡洋艦部隊だけだった。
厳重に防護されたマニラ要塞地帯と違って、洋上の艦隊は無防備だった。スービック湾にもある程度は海軍の対空部隊が配備されていた筈だが、狭い湾内で回避機動も満足に行えない中では、いずれ日本軍機に沈められると考えてもおかしくはなかった。
極東米軍司令部は、スービック湾の艦隊に対空部隊が充実したマニラ湾への移動も提案していたが、本来の指揮系統では極東米軍司令部と同格のアジア艦隊司令部を通さないとアジア艦隊所属の各部隊には要請も出せないものだから、かなりまどろっこしいやり取りを経た上に海軍側は反発したらしい。
50キロほど離れていたスービック湾よりもマニラ湾は格段に広いのだが、湾内の一部には敵艦の侵入を警戒して防潜網や機雷原が構築されていたから、同様に回避行動の余地を狭めていた。
結局、湾内に引きこもっていては艦隊としての機動力を発揮出来ないだろうとアジア艦隊では判断していたようだった。
その一方で、新鋭のデモイン級重巡洋艦を主力とする部隊は、主力部隊をグアム方面に移動させたアジア艦隊の残余といっても日本軍からすれば無視できない戦力である筈だった。
艦隊は巡洋艦以下の軽快艦艇のみで構成されていたから、その高速を利して襲撃を行えば、鈍重な上陸戦用艦艇を引き連れた敵艦隊に痛撃を与えることは不可能では無いはずだった。
それに日本海軍の主力はアジア艦隊主力に誘引されてグアム方面に向かっているのが確認されていた。元々日本艦隊は開戦直後の核攻撃で大損害を被っているのだから、上陸岸周辺に有力な日本海軍の戦闘艦が存在している可能性は低かった。
その時点でスービック湾から出撃可能な艦艇は、デモイン級重巡洋艦3隻を先頭に軽巡洋艦と駆逐艦合わせて20隻を越えていた。軽巡洋艦と言っても重巡洋艦並の大型軽巡洋艦ばかりだったから、火力は高かった。
この戦力ならば、作戦目標を絞れば戦果を挙げられる可能性はあった。夜陰に乗じて短時間で敵上陸船団に接近し、脆弱な上陸作戦用の艦艇や、補給船、上陸岸などを集中して射撃すれば良いのだ。
最終的に海軍側から提案された作戦は、デモイン級重巡洋艦が日本艦隊の戦闘艦を引き付けている間に、アパリ沖のバブヤン諸島を盾に接近した軽巡洋艦と駆逐艦が船団に突入するというものだったのだ。
ただし、出撃したアジア艦隊残余がスービック湾に帰投する計画は無かった。作戦に成功しても失敗しても、彼らはグアム沖のアジア艦隊主力と合流する為にルソン島北端のルソン海峡を越えて東進する予定だった。
要するにスービック湾に留まっていても、戦力を擦り減らせていくだけなのだから、残燃料などの物資や、何よりも乗員達の士気に余裕があるうちに一戦交えるというのがアジア艦隊の本音だったのだろう。
日本軍の上陸を受けた米軍の大方針は、フィリピンの堅甲なマニラ要塞で日本軍上陸部隊を拘束する間に、グアム島周辺の整備を行って日本本土への戦略爆撃を強化するというものだった。
刹那的な反撃は、おそらく日本軍が想定していた対米戦争計画に従ったものなのだろう。確かに目前のグアム島ではなくフィリピンへの上陸は予想外だったが、開戦前に想定されていた米軍の戦争計画においても同様の想定が含まれていたからだ。
将来の米日戦において、開戦初期に日本軍によって奪われたフィリピンを奪還するのか、逆にフィリピン奪還の手間を惜しんで日本本土に米海軍艦隊で攻め入るという計画が米軍内部でも長年研究されていたのだ。
尤も当時盛んに研究されていた戦争計画の想定とは大きく違って、緒戦で日本艦隊が大打撃を受けた上に、陸軍航空隊による戦略爆撃を日本本土が受けていた。だから日本軍は本来フィリピンではなく彼らの本土を守るためにグアムを直接狙うべきだったというのが米軍中枢の判断だったらしい。
しかし、この新たな状況下では日本軍の攻撃に晒されるアジア艦隊残余の未来は考えられていなかった。陸軍と違って艦隊には立てこもる要塞などないのだから、艦隊を温存したところで出撃の機会がなく爆撃を受け続ければ、艦は傷つき、士気は低下していくだろう。
前例があることを彼らは知っていた。第一次欧州大戦時にユトランド沖で大きな損害を受けたドイツ艦隊は、損害を恐れて艦隊を温存している間に厭戦気分が兵士たちの間に広まっていったことで実質的に崩壊していったのだ。
消極的な自滅を避ける為に艦隊主力への合流を図ってスービック湾からの脱出を決断したアジア艦隊残余には、当初2つの航路の選択肢があった。ルソン島を南下してサマール島方面から太平洋に脱出する案か、逆に日本軍の上陸地点であるルソン島北端を回り込むかだ。
ルソン島の南方に行けば日本軍主力からは逃れられる可能性が高かった。常識的には艦隊の保全をはかるのであればこちらの航路を選択すべきだったのだろうが、ホロ島に展開する日本軍機がマニラから脱出する艦船を待ち伏せている可能性は捨てきれなかった。
スービック湾から出港して、マニラから細く南東に伸びるルソン島の南端とサマール島の間に広がるサン・ベルナルディノ海峡を抜ける間にも、マニラ湾からサマール島の間にはフィリピン諸島を構成する島々が作り上げた挟水道が連続していたから、艦隊速度は低下すると考えるべきだった。
回避行動の余裕のない湾内を逃げ出したというのに、逃げ場のない挟水道で航空攻撃を受けて損害を受ける羽目になるのは避けたいというのが、艦長達の意見だった。
それに乗員の士気からも、より積極的に見える北上案を押す声も強かったらしい。艦隊の乗員だけならばまだしも、アジア艦隊が自分達を見捨てて逃げ出したと考えた極東米軍の下士官兵達の士気の低下も、艦隊が日本軍を一撃して去ったとなれば緩和できるだろう。
短時間の間に様々な思惑が交差した結果、結局アジア艦隊残余は日本艦隊が手薄であることを期待してルソン島東海岸を中央山脈を横目で見ながら北上する作戦案を選択していたのだ。
アジア艦隊の出撃を見送ることになった極東米軍司令部では、艦隊によって補給船団に打撃を受けた日本軍上陸部隊が浮足立つのを期待していた。カガヤン・バレー地方を北上してアパリ橋頭堡に機動反撃部隊を突入させるという陸軍側の作戦は、こうして立案されたものだったのだ。
勿論海上を疾駆する巡洋艦部隊と地を這う陸軍では、行軍速度に大きな差異があるから同時攻撃は到底望めないが、上手く行けば艦隊の突入による混乱から回復しきれない状態の日本軍に大打撃を与えられるのではないか。
現地に展開するフィリピン師団の戦力には大して期待出来なかったが、有力な戦車部隊の援護があれば彼らの士気も上がるだろう。
だが、この作戦計画には大きな見落としがあった。巡洋艦部隊との速度差以前に、機動反撃部隊の行軍速度は極東米軍司令部の想定よりも遥かに低かったのだ。
機動反撃部隊の先頭に立つ重戦車大隊が装備するM6重戦車は、フィリピン首都であるマニラ周辺をこれまで離れたことはなかった。運用試験は慎重にマニラ近くの要塞地帯で行われていたからだ。
乏しい陸軍予算の元で生産された貴重な重戦車の消耗を恐れた結果、今回の作戦地域となるカガヤン・バレー地方で行動した実績は無かったのだ。
それに作戦を立案した極東米軍司令部の参謀の中には戦車隊に詳しいものはそれほど多くはいなかった。米陸軍歩兵科に戦車が配属されるようになってまだ間もなく、予算の都合から機械化部隊は本国ではひとまとめにされて触れる機会も少なかった。
戦車乗り出身の高級参謀はまだ育っていなかったから、参謀達の多くは、通常の自動車の延長線上に戦車を捉えていた。
彼らも師団に配備される中戦車大隊の演習に関わったことくらいはあったが、米軍初の量産戦車と言っても良いM3中戦車の操車系機構はトラックやバスなどの大型車両のそれを参考にしていたからだ。
カガヤン・バレー地方にもマニラに繋がる街道は整備されていた。近代的な統治を行うには道路整備は無視できないからだが、各地方の州都間をつなぐ街道は収穫物などの物資を満載したトラックが行き来できる程度の規格で整備されていた。
これまで極東米軍に配備されていた中戦車隊程度であれば、演習で街道を往復した実績はあった。機動部隊に抽出された部隊の中には工兵隊も含まれていたから、行軍そのものに支障はない、筈だった。
極東米軍司令部の判断は楽観的過ぎた。というよりも、矛盾があった。アパリに上陸した日本軍は、マニラまで距離がある為に直接侵攻してこないだろうと考えていたのに、自らの部隊は短時間でカガヤン・バレー地方を通過しうると判断していたからだ。
勿論、ルソン島は北端の僅かな箇所を除いて米国統治下にあったのだから、行軍中に危険はないし、補給も随時駐留する友軍から受けられる筈だったのだ。
だが、機動反撃部隊主力は、カガヤン・バレー地方を行軍中に引き返していた。一部の部隊は曲がりくねった山岳地帯の街道を越えてカガヤン・バレー地方の盆地内に入り込むことすら出来なかったのだ。
理由はいくつかあったが、部隊側の理由としては、街道が想定よりも貧弱で、重戦車の通過に耐えきれなかったというものだった。
カガヤンバレー地方の街道は、水運と並行していた。つまりルソン島北部の大河であるカガヤン川の河原にほぼ沿っていたのだが、この川はしばし氾濫を起こしていた。
この地域に特有の台風がもたらす大雨は、盆地を取り囲む急峻な山脈地帯では吸収しきれずに膨大な水量を平野部にもたらしていた。河川の氾濫は広大な耕作地帯である沖積平野をこの地方にもたらしていたが、同時に洪水で人も土地もしばしば呑み込んでいた。
そんな地形に構築された街道の路盤は脆弱だった。60トンの鉄塊がそんな街道を通過しようとした結果は絶望的なものだった。街道は突き崩され、法面はM6重戦車の荷重に耐えきれずに崩壊していた。
破損した道路は工兵隊が修復すればよいが、アパリまでの道のりは長大だった。予想以上の消耗に部隊の指揮官は行軍の継続は難しいと極東米軍司令部に訴えるしか無かったのだろう。
尤も道路事情だけが作戦中止の原因ではなかった。上陸岸に突入したアジア艦隊の戦果は判断に迷うものだったのだ。
M3中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/m3mtk.html
M6重戦車の設定は下記アドレスで公開中です。
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