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1951フィリピン上陸戦28

 ホロ島に現れた日本軍機はどの様にフィリピン南部に渡ってきたのか、その手段がどうであれ日本本土のあるフィリピン北方ばかりを向いてきた極東米軍は隙を突かれた形になっていた。


 日本軍と連動していたのであろうホロ島で反乱を起こした現地人の独立派勢力を殲滅するのは、極東米軍司令部に与えられた戦力を駆使すれば難しくはないが、それには少なくとも周辺に分散して警備にあたっている部隊を集結する時間が必要だった。

 ホロ島に駐留していた部隊を再編成したところで、外国人傭兵を抱き込んだ現地人達に数で劣っていたからだ。


 フィリピンはその中核となるルソン島やミンダナオ島以外にも数多くの群島から成り立っていた。現地人からなるフィリピン師団を主要島に集中して配備していても、その戦力は国土面積に比例するように分散せざるを得なかったのだ。

 だが、極東米軍司令部にはその時間は与えられなかった。航空撃滅戦が成功したと判断したのか、それまでの予想に反して日本軍が陸上部隊をグアム方面ではなく、ルソン島に上陸させていたからだった。


 実のところ、極東米軍司令部の一部では、航空撃滅戦に続くルソン島上陸までは予想していたものもいたのだが、上陸地点に関する予想は外れていた。日本軍は当初ルソン島北端のアパリ周辺に上陸していたからだ。

 ルソン島は千キロ近くも南北に伸びる細長い島だった。日本領の台湾島からは最短距離にあるとはいえ、ルソン島北端からは島の中心地であるマニラまでは五百キロ近くも距離があるのだから、船艇機動を好む日本軍はよりマニラに近い場所に上陸するものと考えられていたのだ。

 しかも、フィリピン諸島の東側は、日本帝国の委任統治領であったパラオまでが米軍の軍門に降った為にグアム方面に展開する米陸軍航空隊の圧力を受けていたから、大規模な日本軍の船団が航行してくるとは思えなかった。つまり極東米軍が警戒すべきはフィリピンの西側半径のみで済むはずだったのだ。



 スペイン統治時代から時間をかけて整備されていたマニラは、極東アジアの辺境にあるとは思えない程に近代的な巨大都市に成長していた。

 半世紀前の米西戦争においても、開戦直後のマニラ湾海戦で米艦隊はフィリピン支配の象徴だったスペイン艦隊を早々に撃破していたのだが、スペイン軍の地上部隊は停戦までマニラに立てこもっていたのだ。

 しかも、マッカーサー大統領がフィリピン駐留軍の司令官であった時代から、マニラ周辺は単純にフィリピン統治の拠点としてだけではなく、防衛機能も強化された要塞地帯として各防衛施設が建設されていった。

 軍事的な機密は存在していたものの、要塞化工事自体は広く報道されていた。それが抑止力として働くことが期待されていたからだったが、工事自体が膨大な規模であったことから、隠し果せるものでは無くなっていたのだ。


 日本軍が最終的に狙うのは、米国によるフィリピン統治の拠点となっている首都マニラであることに疑いの余地はなかったのだが、いくら日本人が無謀な程の攻勢を好むとしても、厳重に防護されていることが分かりきっているマニラを直接狙うとは思えなかった。

 マニラ要塞地帯は、陸上部隊が使用する防衛施設だけではなく、陸軍航空隊の防空部隊や、海軍の根拠地を防衛するための軍港も含む大規模なものだったからだ。


 マニラの海側玄関口と言えるマニラ湾周辺には沿岸砲台を管轄する沿岸砲兵連隊が配置されていた。要地には大口径砲が装備された近代的な沿岸砲台も多数配置されていたから、鈍足の上陸艇が無防備に接近してくれば格好の的になるだろう。

 詳細は一兵卒には知る由もなかったが、沿岸砲台に備えられた大口径砲の中には戦艦主砲クラスのものもあるというから、相手が戦艦であっても抗戦しうるのではないか。日本軍の空母部隊がグアム方面で確認されているということからすれば大規模な航空攻撃も考え難いだろう。


 それ以前にマニラ北方は1500メートル級の連山であるサンバレス山脈が海岸線に迫っていたから、平坦な地形に乏しく大規模な部隊が上陸するのは困難だった。極東米軍司令部は、仮に日本軍が主力を上陸させるとすればマニラから百五十キロ程離れたリンガエン湾周辺となるだろうと推測していた。

 ルソン島からサンバレス山脈が続く形で北西に伸びた半島と本島に囲まれた湾内は、自然環境などの条件の良さから天然の良港が多く、スペイン統治以前から交易の拠点として栄えていたからだが、他にも無視できない条件があった。


 マニラ周辺に米陸軍が築いた要塞地帯からは離れているものの、リンガエン湾の奥には米領となった後も港湾部が整備されていた。それにスペイン統治時代から商業港として人口があったものだから、首都マニラから北上する鉄道の終着駅も周辺に建設されていたのだ。

 鉄道だけではなく、リンガエン湾の湾岸地域と首都マニラを結ぶ街道も整備されていたから、直接マニラに侵攻するのを避けて内陸部から攻めこもうとすれば、リンガエン湾周辺は後方拠点に必要な機能をすべて有していたといえるだろう。

 それにルソン島中部は西部のサンバレス山脈と中央山脈に囲まれていたから、リンガエン湾とマニラ湾を結ぶ幅50キロ、長さ200キロ程の回廊だけが大規模部隊を進軍可能な平地だったのだ。



 極東米軍司令部は、フィリピンで行われる全ての軍事行動を司令部が置かれたマニラを中心として判断していた。だからルソン島北端で日本軍の上陸が開始された後もリンガエン湾周辺に主力が押し寄せてくるという判断を崩さなかった。

 日本軍の最終目的地であろうマニラからは距離がありすぎるアパリへの上陸は陽動作戦と思われていたのだが、司令部の一部では機動部隊の北部進出が立案されていたらしい。


 第二次欧州大戦の戦闘を横目で見ていた米陸軍では、上陸作戦の阻止には海岸線における水際防御と、内陸部への配置で上陸時の戦闘による損傷から温存した機動反撃部隊の組合せが最善であると考えていた。

 予め構築した塹壕やトーチカに収容された機動力の無い歩兵部隊で水際を防御して上陸直後で重火力に欠ける敵上陸部隊を身動きの取れない海岸線に拘束する一方で、内陸で待機していた機動力と火力を併せ持つ戦車部隊で包囲殲滅するのだ。


 ドラゴ二等兵が配属された第24歩兵連隊は、この方針に従って暫く前からリンガエン湾周辺に配置されていた。この方面には工兵が不足しているためなのか、実際に日本軍の上陸があるまで湾奥の周辺地域で自分達が入る陣地を構築していたのだ。

 だが、同じ第24歩兵師団に所属する残りの2個歩兵連隊は、海岸線の防衛には回されなかった。

 第24歩兵連隊よりも装備面で優遇されていた第19歩兵連隊は師団の予備戦力に指定されてマニラとリンガエン湾を結ぶ位置に配置されていたのだが、第21歩兵連隊には極東米軍の直轄部隊が配属されて機動反撃部隊に指定されていたのだ。


 1個歩兵連隊に配属されるには、極東米軍司令部から回されてきた直轄部隊の規模は大きかった。ほぼ連隊規模の戦車隊だったからだ。

 戦車隊だけではなく、師団砲兵などの支援部隊が配属された第21歩兵連隊は、実質的にはバランスの取れた戦車師団とも言うべき機動打撃部隊に再編成されていたのだが、その先鋒には米本土でもごく少数しか配備されていないM6重戦車を装備した独立重戦車大隊が配置されていたのだ。


 米陸軍においては、戦車部隊の主力は量産性の高い軽戦車や中戦車とされていた。

 ソ連軍における重戦車運用の戦訓から上級司令部に直属する独立編制の重戦車大隊が編制されていたのだが、元々フィリピンに配備されていた独立重戦車大隊は極東米軍固有の部隊ではなく、M6重戦車の熱帯地域での運用試験の為に第24歩兵師団の少し前にマニラに送られてきた部隊だったらしい。

 通常、師団戦車隊として配備されるのは、警戒や索敵のために軽戦車中隊を隊内に有する他は中戦車中隊を中核とする戦車大隊だったのだが、歩兵師団には建制としては戦車部隊を保有していなかった。有事の際には上級司令部の直轄部隊から戦車隊が配属される事になっていたからだ。

 それは戦略単位である師団自体を軽量化して戦略機動性を高めると共に、戦術上の柔軟性を考慮した米軍ならではの合理的な思想によるものと説明されていた。



 実際には現状における米陸軍の体制は、戦車隊の帰属や配備に関する歩兵と砲兵などの他兵科間の駆け引きや妥協の結果でもあるらしい。中戦車以上は歩兵科が運用するのに対して、かつて戦闘車と呼ばれていた軽戦車を騎兵科が運用するのも同様の理由だと聞いていた。

 高速の軽戦車を主に運用する騎兵師団が存在するのも、重戦車大隊などが戦線にこじ開けた穴から軽快な騎兵師団を突入させて戦果を拡張させるためとされていたが、実際には戦車大隊に配属するには数が多すぎる騎兵科部隊をまとめているだけなのかもしれない。

 ただし、騎兵師団が装備するM3軽戦車は一時期生産数が絞られていた結果、製造会社が音を上げていた。現行のM3A1は実質的には再生産型でしかないらしい。


 第24歩兵師団にも、フィリピン到着時に極東米軍司令部付きの戦車連隊から戦車大隊が配属されていたが、マニラに到着してからすぐにリンガエン湾に送り込まれた第24歩兵連隊の兵士達は、遠目にM3中戦車の姿を見た程度だった。

 小山のような戦車だったが、フィリピンのような地形では大規模な戦車の機動どころか平時の整備でさえ困難ではないか、マニラからリンガエン湾に向かう時に同じ列車に乗り込んだ小隊長のマレル少尉が首を傾げながらそう言っていたのをドラゴ二等兵は覚えていた。


 マレル少尉の懸念は、意外な形で現実のものとなっていた。ルソン島北端に上陸した日本軍を迎撃する為に、第21歩兵連隊を中核とする部隊がマニラから移動を開始していたのだが、カガヤン川流域の脆弱な地形が連続するカガヤン・バレー地方に入り込んだ途上で状況が急変して行軍を断念していたのだ。

 極東米軍司令部が、リンガエン湾への上陸が日本軍の本命であると考えていたにも関わらず、貴重な重戦車大隊を配属した機動反撃部隊に北上を命じたのは、上陸初期の段階で日本軍に痛撃を与えようと言う意図だったとされていたのだが、実際には極東米軍司令部による性急な反撃命令は別の思惑が絡んでいた。



 ルソン島北端のアパリ周辺に上陸した日本軍の部隊は、航空基地の奪取を目的としているのではないかと極東米軍司令部は乏しい情報から判断し始めていたらしい。

 現地守備隊の戦力は乏しかった。日本軍は一挙に師団級の戦力を艦砲射撃の支援を受けて上陸させてきたというから、フィリピン師団に所属する守備隊は撤退するしかなかったようだった。

 フィリピン師団の守備隊からは現地兵の脱走も相次いだものの、撤退した部隊は米軍が設営した滑走路が日本軍に占領されたと報告を上げていたのだ。


 その後も守備隊残余は中央山脈とルソン島東海岸線を構成するシエラマドレ山脈に挟まれたイサベラ州方面に後退しながら敵部隊と接触を続けていたが、日本軍による積極的な追撃は控えられているようだった。

 逃げ場のない山脈に囲まれたカガヤン・バレー地方に進出して兵力を吸い込まれるよりも、日本軍はアパリ周辺の制圧に専念しているのだろう。


 ルソン島北端に航空基地を設けた日本軍は、これでルソン島中央部に位置するマニラまでを彼らが装備する機体の航続距離半径に収めていた筈だったから、これから先航空撃滅戦はより熾烈なものとなるかもしれなかった。

 米陸軍はフィリピン東側からグアム島からの補充機を受け取ることが可能だったが、日本軍の根拠地は米本土よりも圧倒的に近かったから、補充の点では日本軍に利があった。



 だが、極東米軍司令部はそこまで状況を深刻とは捉えていなかった。日本軍の航空撃滅戦初撃で失われた機材は少なくなかったが、一時期の混乱から立ち直った航空隊は再編成に取り掛かっていたからだ。

 ルソン島北端のアパリとホロ島の二方面に展開する日本軍機の行動半径を見極めた上で、その範囲外にある野戦飛行場への退避も空襲の合間に早くも行いつつあった。

 この状況で反撃の開始を極東米軍司令部に決断させた最大の原因は、陸軍ほど冷静でいられなかったアジア艦隊残余の強引な出撃によるものだった。

M3中戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/m3mtk.html

M6重戦車の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/m6htk.html

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