1951フィリピン上陸戦27
開戦からしばらくしてフィリピン駐留軍に入ってきた最初の凶報は、フィリピン南部に広がるスールー海の中でも南東に位置するホロ島で独立派が蜂起したというものだった。
だが、極東米軍司令部の中でこの報告を深刻に受け止めていたものは、当初は殆どいなかった。元々スールー海周辺では相次いで武装蜂起が起こっていたのだが、現地人独立派の戦力は駐留部隊に対抗できるようなものではなく長続きしなかったからだ。
スールー海方面に展開していたのは、少数の米国人士官に率いられた現地人兵士で構成された士気の怪しいフィリピン師団だったのだが、散発的で連携の無い現地人の蜂起など彼らでも十分制圧できると思われていた。
ところが予想に反して極東米軍司令部への続報は中々入らなかった。それも当然だった。ホロ島に駐留していた部隊の多くが反乱勢力によって殲滅されていたからだった。
かつてのスールー海には、以前フィリピンを領有していたスペインの支配にも容易に従おうとしないイスラム教徒達の王国が存在していた。現地のモロ族は、米国の統治にも反抗して何度も武装蜂起を繰り返していた。
だが、個々の戦闘では野蛮人達の力押しに苦戦することがあっても、米国の統治は揺るがなかった。文明人である米国の手には優れた科学技術と、それに裏打ちされた近代的な軍事力があったからだ。
しかし最近になって、外国勢力に扇動されただけではなく、具体的な支援を受けていた独立派勢力の姿がスールー海で目立つようになっていた。というよりも、この独立派への援助という形で現れた内政干渉こそが今度の戦争の原因だったのだ。
米国軍の組織力と重火器によって再度鎮圧された独立過激派から押収されたのは、英国や日本製の火器だったからだ。
だが、本土に戦略爆撃を受けるような状況では、日本人達が大きな援助をモロ族に出来るとは思えなかったし、文明を知らない現地人達の戦術はいつも稚拙だった。
現地のフィリピン師団も兵隊達はフィリピン人なのだが、指揮官は米国人や少なくとも米国人に訓練された現地人だったから、数は多くとも戦術や装備には大きな差があるはずだった。
ところが、実際にはなすすべもなくフィリピン師団の現地部隊は撃破されていた。何とか撤退して連絡を送って来ていたフィリピン師団残余部隊からの続報は意外なものだった。実際にはホロ島で起こった戦闘は、武装蜂起というよりも外国勢力による侵略ではないかと言うのだ。
実際にホロ島に在住していた現地人達が蜂起したのは間違いなかったようなのだが、それと同時に現地人勢力を支援するためにホロ島に上陸してきた部隊があったらしい。しかも、現地モロ族の傭兵だというのその部隊は、戦車まで持ち込んでいたらしいというのだ。
俄には信じがたい話だった。未だに原始的な生活を送っているらしいモロ族と近代的な戦車の組み合わせが異様だったというだけではない。ホロ島のようなフィリピン辺境に戦車を持ち込んでも何の役に立つかが分からなかったのだ。
一時は、極東米軍司令部でも第24歩兵師団かフィリピン駐留軍の中でも唯一の米国人部隊である米・フィリピン師団あたりから戦力を抽出して本格的にモロ島の反乱を討伐しようとしていたのだが、それよりも早く事態は次の段階へと進んでいた。
日本本土で大規模な上陸部隊が確認されたというのだ。侵略的な戦力である日本帝国陸軍は、英国人から倣ったのか上陸専用の機材を数多く揃えているらしいが、その上陸戦部隊に動きがあったというのだ。
この段階でも極東米軍司令部は状況を正確に把握することが出来ないでいた。この日本軍の上陸部隊が目指しているのは、日本海軍残存艦隊が決戦を挑んでいるグアム方面だとこの時点でも想定されていたからだ。
むしろフィリピン方面の動きは、アジア艦隊指揮下の第1海兵師団にフィリピンから増援を送るのを妨害するための陽動ではないかとすら考えられていたのだ。
同時期から、ルソン島各地で警戒を行っていたフィリピン師団の沿岸守備隊に対する襲撃事件までが断続的に発生していたのだが、ホロ島反乱の対処に追われていた。
後から考えれば、これは日本軍による上陸地点を見誤らせるための陽動作戦だったのかもしれないが、この時の極東米軍司令部ではこれらの襲撃も現地人による反乱行為によるものと考えていた。
あるいは、ホロ島における独立派の動きに米軍が手をこまねいているか、対日戦に戦力を割かれてフィリピン駐留部隊が弱体化しているとルソン島でも独立派が期待して蜂起を計画しているのではないかと思われたのだ。
本当にホロ島の反乱に機械化部隊が投入されているのだとすれば、ルソン島沿岸の襲撃はそれと比べれば小規模なものでしかなかったのだが、あとから考えればそれは誤りだった。
フィリピン師団による沿岸警備は、襲撃が多発していた東岸方面の強化という形を取っていたのだが、日本軍によるフィリピン攻撃は台湾島からの航空撃滅戦という形で開始されていた。
日本軍の作戦を極東米軍が察知した時には遅かった。本来、極東米軍司令部は、日本軍が欧州で多用した航空撃滅戦がルソン島に対して行われた場合は、後方のレイテ島やミンダナオ島などに航空戦力を一時退避させることも計画していたらしい。
ところが、台湾方面から日本軍の爆撃機がルソン島に押し寄せたのとほぼ時を同じくして、フィリピン南東部のミンダナオ島にも日本軍の散発的な襲撃が発生していた。状況はしばらく不明なところが多かったが、極東米軍は航空戦力の移動を断念せざるを得なかった。
フィリピン南部を統括する部隊からの連絡は意外なものだった。この方面に襲来した日本軍機は、おそらくホロ島から出撃したものと判断されたのだ。
元々ホロ島には米国の統治が始まってから整備された小規模な滑走路が設けられていたのだが、危険を冒して行われた友軍の航空偵察によって、短時間のうちにこの滑走路が拡張されて、大規模な航空基地が設営されつつあることが確認されていた。
あるいは、未確認の戦車部隊とは、実際には滑走路拡張工事に使われるために持ち込まれた工事用車両を誤認したのかしれなかった。そして台湾島からアジア諸国に大きく迂回して飛来した日本軍機が、ホロ島で蜂起した現地人独立派に合流したのだろう。
もしかすると内政干渉を行っていた時期からモロ族の独立派と日本軍はこのような事態を想定していたのかもしれなかった。
日本軍機の性能は米軍機に劣ると言うが、航続距離から考えると、フィリピンからの哨戒網に察知されずに密かにホロ島に展開するには相当な距離を飛行しなければならなかったはずだ。
最後は英領北ボルネオからホロ島に飛来したのだと思われるが、台湾島からでも南中国傀儡政権、ベトナム王国、マラヤ連邦、サラワク王国とシナ海を回り込まないとフィリピン奥深くに進出するのは難しかったはずだ。
大型の重爆撃機ならばともかく、ホロ島には日本軍の戦闘機まで確認されていたのだが、南シナ海を踏破可能な千キロを超える航続距離が日本製の戦闘機にあるとは思えなかったのだ。
単発機の輸送に使えそうな日本軍の空母はグアム方面に集結していたはずだし、分解状態の航空機を搭載した大型貨物船がスールー海をうろうろしていたのならば早期に発見されていたはずだった。
アジア諸国も欧州に続いて対日和睦を期限付きで求めるという実質的な対米宣戦布告を行っていたが、これまで米国はそれを黙殺していた。植民地から脱したばかりの新興アジア諸国の外交は、旧宗主国である欧州列強の言いなりだと判断していたからだ。
それにアジア諸国だけではなく、肝心の欧州諸国も対米世論には温度差があった。
米国からすれば独立以前からの仇敵といっても良い英国や、その言いなりとなるしか無いドイツあたりはともかく、いくら名家の出身とはいえ一人の報道関係者の死で対米強硬路線にフランスが走ったのは意外な出来事だったが、オランダは日和見的な態度を保っていた。
アジア圏の植民地を次々と手放している英仏と違って、オランダはフィリピンと目と鼻の先にある東インド諸島の支配を手放すつもりはなかったのだが、同地も激しい独立運動の渦中にあった。
既にアチェ地方などの独立を許してしまったオランダ総督府とすれば、これ以上の混乱は避けたいはずだから、むしろフィリピンの騒乱から開戦を決断した米政府に近い立場だったのではないか。
そうした感情論は無視するとしても、オランダの立場からすれば政治的な混乱が襲っている最中である東インド諸島の眼の前で戦争を起こされるのは迷惑なだけだったのだろう。
他の宣戦布告を行っていた欧州諸国も、この地域の大国である英仏に引き摺られただけと解釈しても良さそうだったが、独立後に国際連盟に加盟させられていたアジア諸国も単に義務として対米外交を打ち切っただけなのだろう。
戦災復興活動中の欧州地域以上に、独立したばかりのアジア諸国に対外戦争に投入できるような戦力はなかった。どうせ宣戦布告と言っても中立ではないといった程度の効力しかないのだ。
第一、宣戦布告となれば双方の外交団が引き上げることになるのだが、新興アジア諸国と米国間の外交関係は薄く、独立直後で予算不足なのか米国まで大使を派遣してくる国は殆ど無かった。数少ないアジア諸国の外交団も日本に帰国する交換船にまとめて放り込める程度でしかなかった。
軍事的ではなく、政治的にも米国はアジア諸国からの宣戦布告を存在しないものと扱っていた。対日戦争が勝利で終わった暁には、フィリピンを足がかりにアジア市場に展開する計画もあったからだ。
欧州諸国の宣戦布告は大々的に国内向けに報道してカリブ海地域の制圧に世論を誘導したことと矛盾していたのだが、米東海岸の内懐といってもよいカリブ海と違って、フィリピンですら持て余す米国にとって新興アジア諸国など占領した所で荷物にしかならないだろう。
むしろ、彼らからの宣戦布告にも関わらず米国が軍事力を行使しなかったことは、戦後の市場開放を目的とした外交交渉にとって有利に働くかもしれなかった。
ここ半世紀のフィリピン統治から、米国の政治家には、黄色人種達には近代的な民主主義など理解できないのではないかという懸念すらあった。彼らは、アジア諸国には市場価値さえ存在すればそれで良いと考えていた。
本当に彼らが独立国となったのであれば、旧大陸の無駄に高価な物品ではなく、米国の安価で大量生産された高品質の工業製品を喜んで買うようになるだろう。
軍事力を行使するのではなく、もっとソフトに経済的な侵略を仕掛けるのだとも言えたが、それには彼らの眼の前で同じ黄色人種である日本人の頭を米国が押さえつける姿を見せつける必要があった。
そうした東海岸の米国中枢の思惑とは関わりなくとも、これまでフィリピンの極東米軍にとってアジア諸国は軍事的に無視しても問題ない存在でしか無かった。
仮にフィリピンにも大規模な米陸軍航空隊が存在しているのであれば、対日戦の片手間に戦略爆撃を行って米国の力を見せつけても良かったかもしれないが、お互いに手出しが出来ないなら存在しないも同然だったし、下士官兵にはアジア諸国が独立国であるという認識や知識すら無かっただろう。
ところが、ホロ島に日本軍が進出してきたことで、にわかにフィリピンという米国勢力圏の辺境は敵対的な黄色人種によって包囲されているという事実が下士官兵達の意識にも重くのしかかるようになっていたのだった。