1951フィリピン上陸戦26
酷い負け戦だった。米陸軍第24歩兵連隊に所属するドラゴ二等兵は、同じ小隊に所属する負傷したジャクソン二等兵に肩を貸しながら、後退する兵達の背中を追い続けていた。
背後のリンガエン湾奥深くの海岸線からは未だに陰々と砲声が響いていたが、既に海岸線を警備していた第24歩兵連隊は主力の撤退を開始していた。
第24歩兵連隊にとって今日は厄日だったが、正確に言えば日本軍がリンガエン湾に押し寄せるよりも遥かに以前から連隊を次々と災いが襲っていたのだった。
米本土からミッドウェー島、グアム島を経由してフィリピン諸島に送られた第24歩兵連隊を含む第24歩兵師団は、本来は後続する第1海兵師団、第25歩兵師団の2個師団と共にフィリピンに駐留する軍団規模の大部隊にまとめられる筈だった。
ただし、軍団とは言っても固有の司令部や軍団直轄の支援部隊が新たに配属される可能性は低かった。そもそも交通インフラの貧弱なフィリピンでは軍団規模の大部隊が機動できる余地は無いと判断されていたようだった。
それ以前から、フィリピンは英日などの悪辣な諜報活動によって治安が悪化していた。現地民の独立派分子などが外国製の武器を与えられて帝国主義者の走狗となっていたのだ。
―――名目上は軍団にまとめられたとしても、フィリピン駐留軍司令部の直属となった自分達は、各地で小生意気な独立運動を叩き潰していくことになるだろう。
士官達がそう言っているのをドラゴ二等兵も聞いていたが、実際には第24歩兵師団はフィリピン首都であるマニラ周辺に駐留して、ここに集中した人口に睨みを利かせることになるのではないかという噂も耳にしていた。
フィリピンに増援として送られる3個師団は出自が違っていた。第24歩兵師団は古豪の3個歩兵連隊を基幹戦力とする米陸軍の正規師団だったが、第25歩兵師団は連邦軍に動員された州兵連隊を中核とした新編成部隊だった。
第25歩兵師団は、正規の第24歩兵師団に対して砲兵などの支援部隊がやや小規模だったが、第1海兵師団はそれ以上に歪な編制だった。それまで最大でも連隊規模で独立していた部隊を集成した海兵隊初の師団級部隊だったからだ。
第1海兵師団には海兵砲兵連隊も配属されていたのだが、支援部隊の火力や練度は陸軍の同規模部隊よりも低かった。元々海軍艦艇乗り込みの反乱防止部隊だった海兵隊は、伝統的に火力よりも機動力を重視した部隊だったからだ。
ただし、海兵隊の戦闘経験は陸軍の正規部隊よりも多かった。国内では大規模なインディアンの蜂起が前世紀末でほぼ途絶えていた上に、米西戦争以後は対外戦争も途絶えていた米国では、陸軍の正規部隊が投入されるような大規模な戦争をここ半世紀ほどは経験していなかったからだ。
米陸軍地上部隊の戦歴といえば、フィリピン駐留軍が何度か現地民の散発的な蜂起を鎮圧していた程度だった。
そのように法的にも動かし難い陸軍に代わって、小規模な部隊編成の海兵隊は、政府にとって使い勝手の良い緊急対応可能な兵力として中南米の騒乱などに幾度も投入されていた。
海兵隊は、部隊編制上は重装備を持たない軽歩兵部隊だったが、多くの場合は彼らの背後には巨砲を有する米海軍の有力な艦艇が援護していた。それに何よりも海兵隊は米国の威信を背負って紛争に投入されていたのだ。
だが、豊富な戦歴を持つ一方で、米海兵隊は常に軍内外から白眼視されていた。
陸軍首脳部は海兵隊は軽装備の歩兵部隊に過ぎす、政治的な事情から活躍の場を与えられているだけではないかと疑っていた。
二度に渡る欧州大戦を横目で見ながら、他国列強の後追いで機械化部隊の増強を乏しい予算の中で行っている米陸軍にしてみれば、乏しい国防予算を奪う海兵隊は目の敵にされていたのだ。
海兵隊の装備が貧弱なのは海軍の都合もあった。海軍省に与えられた予算の多くは、抑止力となる大型艦の整備に充てられていたのだが、ルーズベルト政権時代に続々と就役した巡洋艦群の乗員定数も満たせずに半ば持て余していた海軍は、海兵隊の定数を削減してその分を艦艇乗員に回したがっていた。
近代的な国家となった米国において、志願した海軍の乗員が反乱を起こす事などもはや考えられないのだから、時代遅れの海兵隊は規模を縮小して基地警備部隊として縮小、再編すべきと言うのが海軍内の見解だった。
身内であるはずの海軍からも継子扱いされていた海兵隊の幹部は、既存部隊の集成とはいえ初めての大規模部隊編制となった第1海兵師団に大きな期待を寄せていた。
それに各近接戦闘部隊の装備は貧弱なものの、舟艇機動に長けているという海兵隊ならではの強みもあった。陸軍からすれば旧式化が目立つ装備面でも、相対的には現地民の反乱勢力程度なら優越しているのではないか。
おそらくはフィリピンに3個師団が集結したとしても、陸軍2個師団が重要拠点に駐留して治安維持を行っている間に、当初の連隊や大隊規模に分割された海兵隊がフィリピン現地軍と共に各地の反乱を制圧していくという形になっていた筈だった。
ところが、実際にはフィリピンに到着したのは先発していた第24歩兵師団のみだった。第24歩兵師団を輸送した兵員輸送船は、本国に引き返して後続の師団を輸送するはずだったのだが、兵員輸送船がフィリピンに再度入港することはなかった。
移送途中で対日戦争の開戦を迎えた残りの2個師団は、それぞれの制圧目標に移動先を変えていったのだ。
第25歩兵師団は、ハワイ王国を占領した後は現地に駐留していた。米本土からは旧式戦艦を主力とするハワイ防衛艦隊も回航されていたから、この艦隊と共に今ではハワイ駐留軍を構成していた。
これに対して、第1海兵師団はある意味で海兵隊幹部の期待通りに日本軍との最前線に師団単位で投入されていた。開戦劈頭の核攻撃に続いて行われていたトラック諸島の占領作戦を皮切りにして、太平洋方面の国際連盟委任統治領に点在する日本軍根拠地を制圧してまわっていたのだ。
また、おそらくは開戦当初の計画とは違って大西洋においても海兵隊は真っ先に最前線に投入されていた。米国によって行われたハワイ及び日本への宣戦布告を受けて、何を血迷ったか欧州諸国が相次いで米国に宣戦布告していたからだ。
しかし、国際連盟の名のもとに宣戦布告した多くの欧州諸国は口先だけだった。先の第二次欧州大戦で受けた戦禍からの復旧もままならない彼らが国外に展開できる兵力で米国に何かを出来るはずもなかったのだ。
それどころかカリブ海に点在する欧州諸国の植民地は、大西洋艦隊指揮下の海兵隊によって次々と占領されていた。旧大陸の軛からの解放を掲げて、この機会にカリブ海を文字通りに米国の勢力圏に収めようとしていたのだ。
フィリピン駐留軍にも、何日か遅れて新聞が届けられていたが、米本土の報道は、フィリピンや太平洋での戦闘よりも、米国の政治的、経済的中枢である東海岸の安全保障に直結するカリブ海の方に重点が置かれている気配があったのだ。
太平洋方面の海兵隊を集成した第1海兵師団は、日本軍との戦闘で損害が生じているらしいとの噂もあったが、大西洋から戦力を引き抜くのは難しそうだった。
実際に海兵隊がどのような戦闘を繰り広げているかは、第24歩兵師団ではよく分からなかった。
第24歩兵師団がフィリピン駐留軍司令部である極東米軍の指揮下に入っているのに対して、後続するはずだった2個師団は、第1海兵師団はアジア艦隊、第25歩兵師団はハワイ駐留軍と別の司令部に配属されてしまっていたからだ。
いずれにせよ、第1海兵師団は勿論、ハワイ占領作戦に投入された第25歩兵師団も実戦を経験したわけだが、皮肉なことに第24歩兵師団は戦争相手の日本本土により近い位置に展開していたにも関わらず、開戦からこれまで戦火とは無縁だった。
開戦前から治安が安定していたマニラ要塞地帯に展開していたものだから、世情不安となったフィリピン各地で小規模で無秩序な蜂起を起こしている抵抗運動の鎮圧すら経験していなかったのだ。
フィリピンに師団主力が移送してまもなく開戦を迎えた第24歩兵師団では、開戦直後は緊張した雰囲気が漂っていた。すぐにでも日本軍がフィリピンに攻めて来るか、あるいは逆に自分たちが日本人達の棲家に攻め込んでいくのではないかと考えられたからだ。
だが、師団に所属する兵達は勿論、士官達の多くも実のところ日本がどこにあるのかも大して知らなかった。中国と日本の区別がついていればいい方だっただろう。
フィリピンを海外に含めてよいかは議論の余地があるだろうが、多くの師団所属将兵にとって今回の展開行動が初の海外だったが、米国人の大半にとって世界とは北米大陸のことだけを指していたようなものだった。
開戦からしばらく経つと、士官達はフィリピンに戦火が及ぶ可能性は低く、自分達は安全なフィリピンで勝利の日を迎えることになるだろうと言い始めていた。
中にはこの戦争で活躍できないことを嘆く声もあったが、多くの下士官兵達は士官達の言葉に安堵の表情を浮かべていた。
士官達の言葉には根拠がないわけではなかった。陸軍航空隊による新兵器核爆弾によって行われたトラック諸島への爆撃によって、米国の大きな脅威だった侵略的な日本艦隊は壊滅的な被害を受けていた、らしい。
ろくな戦力もないハワイ王国も、同時期に近代的な米軍によって一蹴されて米国の軍政下に移行していた。おそらく終戦後はハワイ王国は自ら米国の一員となるだろう、と報道されていた。
そして日本艦隊を壊滅させた米陸軍航空隊は、フィリピンではなくグアム島から出撃して、日本本土を恐るべき重爆撃機の編隊で焼き払っていた。
日本人の街はその多くが紙と木で出来た原始的な家で出来ているらしく、既に日本本土に存在する都市の幾つかは焼き払われて哀れな日本人達は路頭に迷っている、らしい。その上に彼らの怒りは、フィリピンの反乱勢力を煽って米国をいたずらに刺激した彼らの政府に向かっている、らしい。
報道を見る限りでは、米国は優れた科学力と工業力によって作られた新兵器を駆使して、短時間の内に日本人達を追い詰めているように感じられていたのだ。
新聞報道がどの程度真実であるかは分からないが、少なくとも日本本土にとって大きな脅威となっているのがフィリピン駐留軍などではなく、グアム島の重爆撃機部隊による戦略爆撃なのは明らかだと師団の士官達は言っていった。
当然日本軍による反撃があるとすれば、残存艦隊を集結させた上でまずはグアムに向けられるだろうというのが米軍内における概ね一致した見解だった。
勿論、一兵卒に過ぎないドラゴ二等兵達にとってみれば、軍上層部の思惑などは文字通り雲上の出来事でしか無かった。横柄な下士官達によってその生活の全てを仕切られた二等兵達には、自分達の世界とは自分達の中隊のことでしか無かった。
黒人で構成されたいわゆるバッファローソルジャーである第24歩兵連隊では同じ黒人同士という下士官兵達の連帯感はあったが、インディアンの血が流れるドラゴ二等兵の見た目は黒人から見れば白人と変わらないのか、中隊内の他の兵たちからは浮いていた。
本土とフィリピンの間に位置するグアムが戦火にさらされればフィリピン駐留軍の兵站線も危機にさらされることになるのだが、開戦のはるか前から集中的に整備されていたマニラ要塞地帯には膨大な物資の貯蔵があった。
それにルソン島の人口は多いから、種類を問わなければ食料などの現地調達は難しくないだろう。補給面に関してもフィリピン駐留軍将兵の危機感は薄かった。だから中隊に割り当てられた兵舎内の生活は、開戦を迎えても殆ど変化はなかったのだ。
開戦以後も、ドラゴ二等兵にとっては偏見の目にさらされた集団における更なる異分子という複雑な自分の肌の色をめぐる環境こそが関心事であり、祖国と日本との戦争はどこか遠い世界の物語のように思えていた。
彼らフィリピン駐留軍に冷水を浴びせる事態が発生したのは、日本軍によるグアム方面への艦隊出撃が確認された少し前のことだった。