1951フィリピン上陸戦23
よく観察していれば分かったのだが、大神工廠に一斉に回航されて特設砲艦への改装対象となっていたのは、数多く建造されていた戦時標準規格船一型の中でも、第三山城丸のように補助金目当てでコンテナ化改装工事に飛びついていたものに限られていた。
改装工事が行われていた期間は極最近に集中していたのだが、全国の工廠や指定された民間造船所で工事が行われていたものだから、改造工事後の同型船が一堂に会する事はこれまで例がなかったのだが、思いがけずにコンテナ化された戦時標準規格船一型が勢揃いして特設砲艦に徴用されていたのだ。
もちろん同じ戦時標準規格船一型として建造されていたとはいえ、六〇〇総トン級の内航貨物船が編隊を組んで行動することもこれまでに例がなかった。 それに、伊東予備大尉と同じように、特設砲艦群の乗員はその殆どが同時に招集された予備士官や軍属だった。経歴も似たようなものであれば、船団を組んだこともないものばかりだろう。
結局、特設砲艦群は最先任であった予備士官の判断でばらばらに航行していくことになった。大神工廠から広島港までは二百キロほどしか離れていなかったからだ。
途中には瀬戸内海運の中でも有数の狭水道があったから通過には多少の時間がかかるかもしれないが、朝に出港すればまだ明るい内に到着できるだろう。瀬戸内海は多くの内航貨物船にとって自分たちの裏庭のようなものだから、どの艦も航行自体には大きな支障はないはずだった。
だが、この半日の航海の間に第三山城丸の乗員達にはしなければならない仕事が残されていた。再工事を予想して塗り残していた上甲板を、少なくとも他の僚船と並んでもあからさまに差異が生じない程度にはねずみ色に塗っていかなければならないのだ。
出航前に慌ただしく先任艦長の船に集まって行われた打ち合わせの時に伊東予備大尉が盗み見た範囲では、仕上げは綺麗なものではなかったがその船は一応は全身をねずみ色に塗って塗装缶を空にしていたのだ。
大神工廠から広島港までの航行は時間で言えば半日だったが、直交代は行われなかった。特設砲艦の規則は知らないが、第三山城丸のような内航貨物船でも半日もあれば直交代で当直についていたものは休息をとるはずだったが、艦橋や機関室で当直についていた乗員は最低限で勤務を続けていた。
そして当直について居ないものは、全乗員が士官も下士官もなく、甲板長の指示のもと刷毛を持って塗装作業を揺れる上甲板で行っていたのだ。
予想通り、広島港には半日もかからずに到着したのだが、その頃には多くの乗員が疲労困憊していた。有り難いことにその晩は湾内で待機していたのだが、それがなければ周りから不審がられていただろう。
六百総トン級の内航貨物船とはいえ、数十隻もの数が一斉に投錨するには湾内は狭かった。江田島と本州の間に細長く続いている水道も音戸の瀬戸を越えて呉方面から航行する船舶で混み合っていたから、広島の真南に浮かぶ似島より東の海域で一夜を過ごすのは難しかった。
結局、特設砲艦の艦隊は厳島から広島沖の間に点々と錨を下ろしていたのだが、夜の間はともかく朝日に照らされた艦隊の姿は、あちらこちらにだらしなく散らばっていてとても日本海軍の艦隊には見えなかった。
三々五々といった様子で広島沖に集結した艦隊だったが、その後の動きは鈍かった。朝になってからようやく特設砲艦群の前に連絡のために現れたのは、呉鎮守府所属の駆潜艇だった。
内航貨物船よりも更に一回り小さな駆潜艇だったが、動きは身軽だった。艇尾の爆雷投下軌条や爆雷投射機は空だったから、純粋に警備艇として運用されているのだろう。
だらだたと錨を上げていく特設砲艦を追い立てるようにして先導している駆潜艇の姿は、まるで牧羊犬のようだった。だが、特設砲艦が先導された先は羊の牧草地でもなければ、直接広島港に向かうのでもなかった。
特設砲艦群が移動させられた先は、一夜を過ごした泊地から僅か10キロも無い厳島の東南岸付近だった。そんな僅かな距離を移動した理由は明らかだった。特設砲艦を市民の目に出来るだけ晒したくないのだろう。
厳島の人口はさほど多くはないが、厳島神社の参拝客は戦時下でも途絶えていなかった。それに広島から岩国、下関に向かう山陽本線の車窓からでも厳島北東側の泊地は容易に視認出来るのではないか。
瀬戸内を行き交う船も、特設砲艦群が逆に辿ってきたクダコ水道を通過する航路をその多くが使用していたから、広島から南下する商船も多く、船上から目撃される可能性も高かった。
厳島はさほど小さな島ではないが、市街地と呼べるものは本州側に面する北端に限られていた。
その僅かな市街地を除くと、島内の大半は神域として原生林が広がる険しい山地になっていたから、神職でもない限り南端に近い東南岸に物見遊山で近づくものは無く、逆にこの海域を泊地とすれば厳島に遮られて本州側から目撃されることも無いはずだった。
しかも、厳島の上空は引っ切り無しに軍用機が飛行するようになっていた。近隣の海軍岩国基地に離着陸する機体が開戦以後著しく増大していたのだ。
元々岩国基地は、呉鎮守府に配備された各空母に搭載される航空隊や、大戦中に急拡大されていた基地航空隊の本拠地として整備されていた。
先の第二次欧州大戦中に岩国基地は次第に海側へ埋め立てを行って規模が拡張されていたのだが、今回の戦争でも召集された予備役や新米の搭乗員を促成教育させるためなのか、平時よりも飛行作業は大幅に増えていると聞いていた。
その岩国基地の主滑走路は、山陽本線と並行するように南北に伸びていたのだが、北に向かって離陸した機体は、工業地帯上空を飛行するのを避ける為に、規則で離陸直後に一旦東に機首を向けていた。
その態勢で訓練空域まで飛行する練習機の多くは、厳島南方に停泊する特設砲艦群の直上を通過して行くのだから、彼らに見つからずに不審な船が紛れ込む恐れはなさそうだった。
―――だが、海軍は本当に防諜の為だけにこんな所に移動を命じたのだろうか……
伊東予備大尉は、次々と上空を通過する海軍機と、有史以来の姿を保っているという厳島を交互に眺めながらそう疑っていた。あるいは、単に市民の目にこの雑然とした特設砲艦群を見せるのが恥ずかしくなっただけかもしれないと考えたからだ。
尤も市民の目から逃れるようにして厳島沖に停泊していた時間はさほど長くはなかった。また駆潜艇に誘導されて何隻かずつが今度こそ広島港に向かっていたのだ。
大神工廠での工事開始は早かったが、広島港に第三山城丸が移動した順番は最後だった。しかも、同会社の僚船だった第二山城丸とはその時点で別の組になっていたのだが、誘導されていった組がそのまま特設戦隊内で小隊として再編成されたことは後から知った事だった。
既に他の特設砲艦が移動していった後に第三山城丸が導かれていたのは、広島港の一角、宇品地区の岸壁だった。陸軍船舶司令部に隣接するこの区画は、実質的には周囲から隔絶された軍港だった。陸軍の輸送艦や雇用された商船しか普段は近づかないからだ。
だが、元宇品の島影を回り込んで桟橋につけられた第三山城丸の艦橋から、伊東予備大尉は目を見張って宇品地区の姿を見つめていた。いつの間にか宇品の桟橋の一部は近代的、というよりも未来的な環境に再整備されていたのだ。それはコンテナ専用の港への改装でもあった。
桟橋には、予想していたよりも大型のコンテナ搭載用クレーンが軌条ごと設けられていた。そのクレーンは、内航貨物船を原型とした第三山城丸の様な小型船ではなく、1万トン級の大型貨物船でも楽々と荷役作業が出来そうなものだった。
従来桟橋に設けられていた積み下ろし用の汎用クレーンとは異なり、単能のコンテナ専用クレーンには前後方向に旋回する機能は無かった。桟橋に設けられたクレーン軌条と並行するように係留されたコンテナ化貨物船の船倉に向けて、足元に置かれたコンテナを吊り上げては下ろしていくのだ。
宇品地区に増設されていたのはコンテナ用クレーンだけではなかった。桟橋近くには新たにコンテナの集積所が設けられていた。山陽本線から分岐した引き込み線である宇品線で貨車に載せられてきたコンテナは、専用の作業車で降ろされると集積所に集められて船積みを待っていたのだ。
広大な敷地が確保された集積所から大型の自動貨車で運ばれたコンテナは、専用クレーンの能力を使ってあっという間に第三山城丸の前に係留されていた特設砲艦の船倉内に消えていった。
伊東予備大尉が見たところ、特設砲艦の船倉に次々と収められていくコンテナには二種類があった。ぞんざいに扱われる物がある一方で、桟橋の作業者がひどく慎重に扱うコンテナがあったのだ。
戦時標準規格船一型のコンテナ化改造工事は、船倉の寸法とコンテナ規格が微妙に食い違うものだったから、余剰空間が生じてそれほど多くのコンテナを積み込めるわけではなかった。
戦時標準規格船三型を原型としたコンテナ船では、国鉄貨車1両になんとか収まる寸法の巨大なコンテナが百個単位で徹底的に改造された船倉区画に収まるらしいが、一型は二十個も積めばもう限界だった。
だが、それにしても特設砲艦に収められたコンテナの数は、最大量には届かない数でしかなかった。第三山城丸より一足先にコンテナ積載を終えて出港していく特設砲艦の僚船は、上甲板より上にはコンテナを搭載していなかったからだ。
理屈の上から言えば、天井と床面にそれぞれ対応した固定金具を持つコンテナは無限に積み重ねられるのだが、当然現実的には制限があった。それに物理的な限界を除いてうず高く船倉からはみ出すほど積み上げたとしても、船橋からの視界を確保しなければ航行すらままならなかった。
ただし、従来と同比重の貨物を詰め込むと想定すると、余剰空間分だけ本船の積載量には余裕があるはずだった。同じコンテナ船でも船倉区画を改造して隙間なく埋め込む三型改造船と、船倉に適当にコンテナを詰め込むだけの一型改造船では効率に差異が生じるのだ。
コンテナはそれ自体の構造重量がある一方で、鉄製の構造材自体が内部の貨物を保護する機能も持ち合わせていた。
実際に宇品地区のコンテナ集積所は、従来の港湾部に設けられていた倉庫建屋と違って、単に整地して舗装されただけの場所だったのだが、それは輸送効率に加えてコンテナ自体に耐候性があると判断された為でもあるのだろう。
この特性を活かして、一型改造コンテナ船にコンテナを積み込む場合は、船倉区画の天井となる上甲板を越えた所までコンテナを積み込むことになっていた。
もちろん船倉区画の外枠から大して大きくはみ出すわけではない。それにコンテナ内部に詰め込まれた貨物重量によっても搭載可能数は変わってくるはずだった。
極端なことを言えば、空のコンテナならいくらでも詰めるが、比重の大きい金属などをコンテナに満載すれば、こんな小さな貨物船は転覆してしまうだろう。
だが、出港していく僚船の喫水を見る限りでは、船倉に積み込まれたコンテナの重量は大きなものではなさそうだった。
あっという間に第三山城丸の船倉にも1段目が敷き詰められていた。形状は標準の汎用貨物コンテナと変わらないようだったが、開口部が多く、奇妙な形状のコンテナだった。どうやら汎用貨物コンテナではなく、軍用の特殊なものであるらしい。
だが、構造は頑丈そうであったものの、1段目のコンテナに詰め込まれたものは殆どなさそうだった。船倉内壁から固定していく甲板員の様子からも重量感が伺えなかったのだ。
本命となっていたのは二段目のコンテナ群だった。慎重に固定されたコンテナには、意外なものが詰め込まれていたのだった。
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