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1951フィリピン上陸戦19

 久々に袖を通した軍装に縫い付けられたばかりの階級章はまだ違和感があった。伊東海軍予備大尉は、無意識のうちにその階級章を弄っていた。そして、自分が指揮する特設砲艦第三山城丸の船倉区画に押し込まれた機材を眺めながら何度目かの大きなため息を付いていた。

 第1特設戦隊にかき集められた特設砲艦の中には、同じ会社の山城海運から徴用された第二山城丸も含まれていたはずだが、混乱を避けるためか戦隊司令部は20隻もの特設砲艦を4隻ずつ5個小隊に分割していたから、大規模船団のように緻密な隊列を組んだ第三山城丸からはその姿は確認できなかった。


 つい最近まで、伊東予備大尉は自分が船長を勤めている第三山城丸を含めて、自分たちの会社のものが海軍に徴用される可能性など全く考えてもいなかった。

 落第寸前でも一応は高等商船学校を卒業したことで自分が海軍の予備士官に編入されていた事と、第二次欧州大戦期間中にいつの間にか海軍予備中尉に昇進していたらしい事は知ってはいた。

 だが、中小船運会社になんとか潜り込んだ雇われ船長毎このちっぽけな海上トラックが海軍に徴用されることなどありえないと考えていたのだ。


 これが護衛や哨戒などを目的とするはずの特設砲艦ではなく、陸軍や空軍の貨物を右から左に運んだり、艦隊に随伴して補給を行う特設運送艦であればまだ話が分からないわけでもなかった。対空自衛用の火器程度を装備することがあったとしても、特設運送艦の実態は民間貨物船そのものだからだ。

 ところが、実際には徴用された第三山城丸は物騒な機材を船倉に積み込むと即席の特設砲艦に仕立て上げられてしまったのだった。



 第三山城丸を運用する山城海運は、元々瀬戸内の中小海運会社だった。京の都や大阪といった大都市を大陸を含む外海と結びつけていた瀬戸内は、水軍の根拠地となっていたことが示すように、古くから海運が盛んな土地だった。

 瀬戸内には規模は小さくとも歴史のある一族経営の海運業も多かったが、山城海運の創業は第一次欧州大戦を契機とするものだから、まだ半世紀も過ぎていなかった。勿論、中央の財閥が出資した外洋航路を主軸とする大海運会社とも縁がなかった。

 山城の名は、小金を作って海運業に乗り出した創業者が京都近くの出身だったからという話なのだが、中には戦艦山城からとったのではないかという噂もあった。裏を返せばこの会社は一隻の戦艦程の歴史しか持たないと言うことなのだろう。


 元々山城海運が保有する持ち船は、十年ほど前までは海上トラックと一括にされる内航貨物船一隻だけだった。今は第一山城丸となった会社の持ち船1号は、未だに老骨に鞭打ちながら瀬戸内の何処かで荷卸をしている筈だった。

 そんな小規模の海運業でしかない山城海運が一挙に船隊を揃えたのは、先の欧州大戦が始まる少し前のことだった。



 第一山城丸は創業当時から騙し騙し使われている老朽船だったが、第二、第三山城丸は戦時標準規格船一型として新規に建造されたものだった。

 会社が短期間のうちに2隻もの新造船を購入することが可能だったのは、戦争による消耗を前提に建造される戦時標準規格船の導入で助成金が下りたからだ。おそらく当時は政府も海運業の拡大を目論んで助成金制度を行っていたのだろう。


 だが創業者による鶴の一声で船隊の拡大が行われていたものの、実のところ山城海運の規模では3隻もの内航貨物船を運用するのは様々な点から難しかった。

 最初の新造船である第二山城丸は、既存の第一山城丸の乗員を引き抜いたり、創業者一族の若者を送り込んで何とか運用に必要な最低限の乗員数を確保したものの、第三山城丸に割ける熟練した船員の余裕は無かった。

 そこで山城海運創業開始以来の規模で船員の募集が始められたのだが、伊東予備大尉が何とかこの会社に潜り込んだのもこの頃のことだった。高等商船学校を卒業したばかりの新米士官には酷な環境だった。その頃は仕事が引っ切り無しにあったからだ。



 半ば無秩序、無計画に増やされた山城海運の船隊だったが、当時は仕事が次から次へと舞い込んできていた。言うまでもなく、大戦の勃発による特需だった。戦時中に第三山城丸が運んでいたのも、大半が軍需品や欧州送りとなる物品、あるいはその仕掛品だったのではないか。

 船便で運ばなければならない寸法の貨物は多かった。場合によってはある企業の工場と工場の間を往復する事も多かった。花形の欧州航路とは縁のない近海専用の内航輸送船であっても、荷役量は多かったのである。


 就職から短時間の中に、当時の伊東予備大尉は新米社員から第三山城丸にとって欠かせない船員となっていた。高等商船学校を出た正規の資格を持つ船員は、既に引っ張りだことなっていたからだ。

 第三山城丸を含む内航貨物船の海上輸送は、日本本土の生産力を活かして国際連盟軍の後方兵站基地とする方針を維持するのに必要不可欠なものだったのだ。

 休む間もなく伊東予備大尉が乗り込む第三山城丸も日本沿岸を行ったり来たりとしていたのだが、そのような多忙な状況の中では、第二次欧州大戦は遠い世界の出来事としか思えなかった。



 その間も一度も招集されることなく予備士官としての階級は予備少尉から勝手に昇進していったらしいが、伊東予備大尉がそれを意識することは無かった。 だが、高等商船学校の同期生の中には、召集を受けたものは少なくなかった。大戦中に幾度も欧州とアジアを往復した船団は、開戦初期こそ雑然としていたものの、大戦中盤以降は船団規模も護衛部隊も拡大が図られていたからだ。

 続々と竣工する護衛艦艇に乗り込む予備士官の数は増えていた。戦間期に軍縮状態にあった海軍の正規士官だけでは、膨大な数の護衛艦隊に配置する士官の数が不足していたからだ。

 正規の士官達を連合艦隊所属の遣欧艦隊に配属して最前線の戦闘に専念させる一方で、護衛艦艇には商船の運航に精通した予備士官を配置したと考えるべきなのかもしれない。


 それに召集を受けた予備士官の中には、護送船団の運航に携わる海上護衛総隊を飛び越えて連合艦隊指揮下の遣欧艦隊に配属されたものも少なくなかった。同時に正規の士官に任官したものも少なくなった。前線の消耗はそれほど酷かったという事なのだろう。

 それに召集を受けなかった同期生も、船団を構築する商船に船員として乗り込んでいたものも多かった。開戦から終戦まで日本本土かせいぜい満州あたりまでの内航貨物船に乗り込み続けていた伊東予備大尉のような例の方が少ないのではないか。


 伊東予備大尉の会社の同僚の中からも召集を受けたもの、中には二度と帰って来なかったものもいたから、戦死の恐れはないものの内航船も人手不足が激しかった。

 国内の一部職業では労働者不足を受けて、第一次欧州大戦の時のように、女性の社会進出が盛んになっているという話もあった。商船学校等でも女学生を入学させるという話もあったらしいが、こんな男所帯に態々娘を放り込みたい親がいるとも思えなかった。



 ところが、そのような人手不足は終戦に前後して唐突に終わっていた。終戦直後は欧州の物資不足や復興特需のために大規模な荷動きの継続こそあったものの、護衛部隊は続々と解隊されていった。

 だが、伊東予備大尉達が終戦をのんびりと祝っていられたのは僅かな間に過ぎなかった。これまで黙っていても舞い込んでいた仕事がばたりと無くなっていたのだ。日本国内の産業は、急速に平時体制に戻ろうとしていたからだ。


 ソ連に対抗するために、国際連盟に復帰して再軍備を始めた欧州諸国や、大戦の戦訓を反映した装備の更新を行わなければならないシベリアーロシア帝国などに向けた兵器生産が途絶えるということはなかったが、弾薬など戦時中に在庫を積み重ね続けた消耗品の生産は極端に減少していた。

 いずれは弾薬などを製造していた兵器工場も民需産業に転用されて、新たな独立国となったアジア諸国に向けて輸出される時代が来る、そんな話もあったが、軍縮によって経済、特に輸送業が落ち込むのは必然だったのだろう。



 特に、山城海運にはこの輸送不況は不利に働いていた。3隻の船隊は会社規模からしても過剰だったからだ。しかも、船隊の拡大には熱心だったものの、会社組織は貧弱なものだった。

 特に不足していたのは営業能力だったのかもしれない。戦時中のように向こうから仕事が飛び込んで来る時代は終わっていたのだが、輸送不況に対応できるほど山城海運は柔軟な構造の組織体制を持ち合わせてはいなかった。


 まだ内航の需要はあったが、財閥系の工場からの出荷品であれば系列の海運会社に優先して発注する程度の余裕はどの会社でも出来ていた。それに古豪の中小海運業であれば馴染み客の間に根強い関係が出来ていたし、同族間で仕事を回し合う体制もあったのだろう。

 取り残されたのは山城海運のような歴史の浅いところばかりだった。


 本来、ごく地方的な海運業者でしかない山城海運で確実にこなせるのは、一隻きりの自社船による仕事量だけだったのかもしれないが、経営陣は仕事量の減少、つまり利益の減少を運用費の圧縮で乗り越えようとしていた。

 戦時中から定数を割っていた乗員が補充されることは無かった。それどころか一部乗員では乗り込み船の掛け持ちすら行われていた。


 乗員の数が最大数必要なのは、荷下ろしが厄介な貨物の積み込み作業などに限られていた。そのせいで甲板員などは場合によっては同型船の第二山城丸と第三山城丸の乗員を掛け持ちしていた。

 消耗品の搭載も最低限必要な数に限られて滅多に補充されることも無くなっていた。流石に監督官庁の検査の時だけは誤魔化せないのだが、臨時雇の俄船員や僚船から持ち込まれた予備部品などによって検査を逃れたのも一度や二度ではなかった。

 そんないい加減な経営状況の中で伊東予備大尉は第三山城丸の船長に就任していた。元々戦時標準規格船一型の乗員数は大した数では無かったのだが、ベテランで海運業を知り尽くした前任の船長まで営業に駆り出された結果、なし崩し的にまだ若い伊東予備大尉が船長になっていたのだ。


 山城海運がそれでも船隊を切崩さずに維持し続けていたのは、経営者の独自の嗅覚があったから、らしい。

 アジア諸国の多くは独立したもののきな臭い空気はまだ漂っていた。だからいずれまたこの3隻が全力で操業するような事態が発生するというのだが、その時には単なる笑い話程度としか思えなかった。



 山城海運が保有する3隻のうちの2隻、つまり戦時標準規格船として建造された分の改造計画が持ち上がったのはそんな時だったが、伊東予備大尉は俄にその話を信じられなかった。

 妙な話だった。そんな資金があるならば、第一山城丸を解体して2隻の持ち船で出直せば良いようなものだったからだ。だが、実際に伊東予備大尉に聞かされたのは、少々予想外の計画だった。実際には、会社が期待していたのは改造によって得られる補助金だったのだ。


 改造計画の内容は、六百総トン級の内航貨物船である戦時標準規格船一型の船倉区画にコンテナと呼ばれる取外し可能な巨大な容器を収容、固定することを可能とするという船長である伊東予備大尉からすれば些か奇妙に思えるものだった。

戦時標準規格船一型の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/senji.html

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