1951フィリピン上陸戦14
日本陸軍第5師団が上陸を敢行したのは、ルソン島北端でバブヤン諸島の対岸に位置するアパリ近くの海岸線だった。
アパリ周辺は、ルソン島北東部を流れる大河であるカガヤン川によって形成された沖積平野であるために、周辺には遠浅の地形が広がっていた。アパリが上陸地点に選ばれたのは、この地形上の特徴から戦車などの重装備を乗せた特1号型輸送艦などの座礁式輸送艦を投入しやすかったからだ。
それに急流によって常時河床が洗掘されるためなのか、カガヤン川河口右岸に位置するアパリの港湾部であれば逆にある程度の喫水がある大型船でも入港できる水深があるらしい。これは上陸後に生じる補給線の維持を考慮すると見過ごせない条件だった。
だが、日本軍の最終目的はルソン島の北部を占拠することではなかった。米国のフィリピン支配の中心でもあるマニラ周辺を制圧することで、重要な通商路である南シナ海の制海権を完全なものとすることだった。
アパリへの上陸はあくまでも支作戦だった。アパリの市街地や港湾部の占拠も作戦目的を達成するための手段であって支作戦の目的そのものですらなかったのだ。
実際に日本軍が狙っていたのはアパリからやや内陸の地帯だった。沖積平野の平坦な地形を利用して野戦飛行場を開設するのだ。それにルソン島北端は、野戦飛行場を開設するのに最適な位置にあった。
台湾からではルソン島中部の米陸軍航空隊航空基地までしか日本空軍主力機の行動半径に入らなかった。計画的な航空撃滅戦で米軍航空戦力を抑え込んでいるものの、保有機数や航続距離の限界から反復攻撃は難しいし、行動半径ぎりぎりとなるから爆弾搭載重量も制限が大きかった。
一方でルソン島北端に野戦飛行場を開設できれば、限定的な運用であっても足の短い戦闘爆撃機やジェット戦闘機でもマニラ周辺まで攻撃圏内に収められるはずだから、本命の上陸作戦を敢行するには野戦飛行場の有無は大きな差となって現れるはずだった。
周辺地域には有力な米軍地上部隊の展開が確認されていなかったことから、第5師団には軍直轄の支援部隊がほとんど配属されなかった一方で、空軍所属の設営隊だけは師団主力のすぐ後ろに続いていた。それだけ飛行場の開設が急がれていたのだ。
ただし、師団主力の上陸は続いていたものの、設営隊や後続の補給物資などの上陸にはまだ間がありそうだった。設営隊が野戦飛行場の建設を開始するまではまだ時間が必要だろう。
第5師団の上陸に先んじて、周辺の米軍哨戒基地の襲撃や撹乱攻撃に陸軍機動旅団や海軍特務陸戦隊などの特殊戦部隊が投入されていたらしいが、そちらの詳細は分からなかった。
ただ、比叡を除くと第12分艦隊に配属された艦艇は重巡洋艦止まりだったのだが、海上からの艦砲射撃中でも師団主力の上陸に大きな齟齬が生じていないのは明らかだった。
やはり事前の情報通り、この方面の米軍戦力は手薄であると見て間違いなさそうだった。
フィリピン防衛の任を担っている極東米軍には、現在は10個のフィリピン歩兵師団と2個歩兵師団が配属されているらしい。
このうちフィリピン歩兵師団は現地のフィリピン人からなる二線級の部隊だった。正確にはフィリピン歩兵師団は米陸軍から派遣された正規の将校が指揮を取っているようだが、装備や士気の点では正規の師団に一歩劣るのは否めないのではないか。
また現地人と米国本国人の混成部隊も編制される予定だったらしいが、こちらは実際には米本国から移駐した部隊で再編成されたという話だった。おそらくは開戦前はこの米・フィリピン師団を極東米軍予備となる機動部隊として確保しつつ、治安維持にはフィリピン歩兵師団を充てていたのだろう。
開戦前には、悪化するフィリピンの治安状況を抜本的に改善するために、一挙に3個師団を米本土から送り込むという計画が各国に報道されていた。ところが、この増援戦力の移動計画は開戦を見越した悪辣な罠だった。
報道された3個師団のうち実際にフィリピンに送られたのは時期からして先遣の1個師団のみだったようだ。輸送中に開戦日を迎えた残りの2個師団は、そのまま近隣のマリアナ諸島やハワイ王国の占領に回されていたからだ。
開戦時の奇襲効果を発揮するにはこの輸送計画は大きな成果があったと言えるが、フィリピン防衛には不利な点が多いのではないか。極東米軍にとって信頼できる機動戦力は米本国人で構成された2個師団だけと考えられるからだ。
ただし、それはマニラ占領を目指す日本軍が一方的に優位ということではなかった。マニラ周辺には米軍が時間を掛けて構築した要塞地帯が存在するからだ。
彼らが盛んに喧伝していたマニラ要塞がどの程度のものかは分からないが、固定された拠点を活用した防衛戦闘であれば高度な作戦能力は必要ないから、戦意に乏しいフィリピン歩兵師団でも十分に戦力化出来ると極東米軍は判断しているのかもしれなかった。
全軍に先んじてルソン島に上陸した第5師団だったが、この方面に展開していた米軍が哨戒部隊程度であった為か海岸線の抵抗は少なく、上陸自体は順調に進んでいた。それでも上陸直後で自前の重装備が活用できない今が師団にとって最も危険な時期であることに代わりはなかった。
この後はカガヤン川河口近くに建設される予定の飛行場を防衛するために師団主力は数十キロほど南下して戦線を構築する予定だったが、それも上陸岸と直後に占領されたアパリの港湾部が確保されていればこそだった。
そう考えると、ルソン島西岸を急速に北上する米艦隊は、日本軍にとって実に嫌な時期を捉えて出撃してきたと言えるのではないか。この艦隊を放置する事はできなかった。橋頭堡に突入されればこの艦隊を撃滅できたとしても作戦計画全体の大幅な遅延は間違いないからだ。
ルソン島上陸の支援にあたっている第12分艦隊の司令長官である伊崎中将は、輸送船団の直衛についている駆逐戦隊を除いて、有力な部隊を尽く橋頭堡突入を阻止するために米艦隊の前方への進出を命じていた。
ところが、旧式とはいえ戦艦である比叡や有力な火力を持つ石鎚型重巡洋艦で構成された部隊を差し置いて、戦利艦であり、専ら実験艦として運用されていた傍流の八雲が艦隊の先鋒に配置されていた。
通常なら艦隊主力の前方は奇襲を避けるために軽快艦艇による先遣部隊が派遣されるところだったが、最後の改装工事で追加された最新の対水上電探に期待しているのか、艦隊前衛をこの八雲が務めていたのだ。
しかも、第17戦隊の僚艦として続航する2隻の利根型軽巡洋艦は正規の日本海軍軍艦として建造されたものだったが、利根型は建造時の設計思想を見失っていたとつい先頃まで部内では低く評価されていたのだ。
最上型に続く大型軽巡洋艦として建造された利根型は、航空巡洋艦とも言うべき特異な形状で就役していた。その主砲を艦橋構造物前方に集約させる一方で、後部甲板には火砲や雷装ではなく航空艤装を集中配置していたのだ。
装備された射出機の数は最上型などと同様に2基だったが、一段下がった艦載機繋止甲板に収容する分を含めて、搭載機の数は日本海軍巡洋艦で最多の6機を数えていた。
利根型が充実した航空艤装を施されたのは、水上偵察機を集中搭載して空母部隊の目となり、重厚な哨戒線を構築させるためだった。言い換えれば索敵を担当する事で空母部隊の搭載機を攻撃に集中させるためのものと言ってよかったのだろう。
尤も日本海軍は更に積極的な水上機の運用構想を持っていた。現状よりも格段に高性能な水上偵察機を爆装させて水上爆撃機隊を編成しようというのだ。そのような歪とも言える高い要求で性能諸元が定められた新鋭水上機は、25番爆弾を積んだ急降下爆撃が可能となるはずだった。
前線に投入される巡洋艦戦隊各艦の搭載機数からすれば、一度に出撃可能な水上爆撃機隊は一個航空隊程度の戦力にはなるはずだから、初撃で敵空母の飛行甲板を破壊する事は十分可能だったのではないか。その数は空母一隻分の急降下爆撃隊が追加されるのに等しかったからだ。
この水上爆撃機構想は母艦である巡洋艦単体で成り立つものではなかった。
日本海軍では空母部隊に随伴可能な高速水上機母艦が建造されていたのだが、航空攻撃後の水上戦闘に突入する巡洋艦部隊から発進した水上偵察機は、この水上機母艦に収容されて出撃した母艦が戦闘から帰還するのを待つことになっていたのだ。
対米比で劣勢にあった艦隊戦力を補うために、それだけ日本海軍は巡洋艦搭載の水上機を打撃力として転用するという破天荒な構想を本格的に考えていたということなのだろう。
だが、実際には時代の流れが水上爆撃機隊構想どころか、空気抵抗の塊である浮舟を手放すことが出来ない水上機そのものを急速に陳腐化させていた。性能面で太刀打ちできなくなった水上機は、前線から急速に姿を消していったのだ。
高速水上機母艦などは、戦時中から実質的には自衛戦闘が可能な使い勝手の良い高速輸送艦として運用されていたし、その搭載機も回転翼機に切り替わっていった。
他の巡洋艦も、八雲のように射出機を残していた艦は少なくなかったが、その上に載せられていた搭載機どころか、飛行科自体が削減された艦も多かったのだ。
砲兵装を主軸とする他の巡洋艦は元々航空艤装の比率は低かった。長距離の偵察手段は無くしたものの、視界内であれば強力な電探があれば水上機はもはや不要だった。艦隊の目であれば空母には専用の偵察機や電探哨戒機があるのだ。
ところが航空艤装に特化した利根型だけはそう割り切ることは容易に出来なかった。仮に射出機を撤去した所で、使いみちのない広大な艦載機繋止甲板自体が残されてしまうからだ。
第二次欧州大戦が終結して残存していた水上機部隊が解隊されていった一時期、利根型の搭載機に関しても水上機母艦に倣って回転翼機に刷新されていたのだが、試験的に搭載された回転翼機の運用実績は芳しく無かったらしい。
他の巡洋艦と違って前方に主砲を集中させた利根型は、主砲発砲による爆風が艦橋に遮られるために搭載機の取り回しは容易とされていたのだが、それ以前の問題があったのだ。
確かに飛行甲板に変更された後部甲板は回転翼機の運用は可能だったものの、水上機母艦や高速水上偵察機を収容するはずだった大淀型軽巡洋艦と違って利根型は艦内に搭載機を収容することは出来なかった。
実用化の域に達したとはいえ未だに発展途上の回転翼機を整備も満足にできないまま露天繋止し続けるには戦闘艦という前提がある利根型の環境は過酷だったと言えるだろう。
それ以前に艦隊側からは根本的な指摘がなされていた。開戦に前後して慌ただしく制式化された最新鋭の五一式回転翼機でさえ搭載能力不足などから単機では対潜哨戒と攻撃を同時にこなすことが出来ずに、最低でも2機1組の行動が前提となっていた。
利根型に試験的に搭載されていた観測直協機などでは目視での観測しか出来なかった筈だった。これでは昼間の対潜哨戒は可能でも、まともな対潜制圧には母艦や僚艦の援護が必要となっていたはずだが、大型軽巡洋艦である利根型の船体では小回りの効く潜水艦にまともな対潜戦闘は難しかっただろう。
主隊を援護する補助艦艇である水上機母艦ならばともかく、最前線に投入される戦闘艦に発展途上の回転翼機を搭載しても、積極的な使い方は出来なかったのだ。
回転翼機も引き上げられて、無用の長物となっていた利根型の飛行甲板だったが、八雲で行われていたある兵器の試験結果がこれまでとは全く異なる用途に転用させていた。
この新兵器こそが八雲を利根型2隻からなる第17戦隊に編入させていた理由だったのだ。
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