1951フィリピン上陸戦13
ルソン島に対する上陸作戦において、作戦計画が立案された当初は重巡洋艦八雲は、本来所属する第17戦隊を離れて作戦前に慌ただしく編成された第1特設戦隊に配属されていた。
第1特設戦隊は、本命の上陸作戦において艦砲射撃を行う為に急遽集められた臨時編成の部隊だった。マニラ島西岸のリンガエン湾を目標とした上陸作戦では強襲上陸が予想されるために、慌ただしく艤装工事が行われた特設砲艦や練習艦として運用されていた旧式艦が引っ張り出されて来たのだ。
特設戦隊だけではなく、その上級部隊として編成された第62分艦隊そのものが強襲上陸支援用の部隊だったのだ。
戦隊旗艦に指定されたのは戦艦比叡だった。金剛型巡洋戦艦として建造された比叡は、第一次欧州大戦では同型艦4隻が揃ってユトランド沖海戦などの激戦をくぐり抜け、近代化改装工事後に戦艦となった後の第二次欧州大戦でも最前線に投入され続けて活躍していた。
ただし、第二次欧州大戦で豊富な戦歴を加えられたのは、戦間期に改装工事が行われても旧式化が著しく、二線級の戦艦と紙一重である高速戦艦扱いを受けていたからでもあった。
いわば喪失しても惜しくない使い勝手の良い戦力として酷使されたとも言えるが、実際に戦果と引き換えに金剛型戦艦は激戦の中で同型艦を欠いていったのだ。
二度に渡る欧州大戦をしぶとく生き延びた比叡だったが、既に艦齢は限界に達していた。元々金剛型は何事もなければ幻で終わった磐城型の後期建造艦を代艦として十年も前に退役していたはずなのだ。
大戦で消耗した大型練習艦の不足で練習艦に転用されていなければ、歴戦の殊勲艦である比叡も大戦終結と共に解体されていてもおかしくはなかった筈だった。
だが、欧州派遣の激戦の中で摩耗して大戦中に交換されていた砲身の余寿命が比叡の運命を変えていた。そして練習艦として延命されている間に開戦を受けた上陸支援の艦砲射撃艦として実戦に再度投入されていたのだ。
尤も理由はそれだけではなかった。対米戦開戦時にトラック諸島に集結していた旧式戦艦群は揃って戦没していた。
本来は、最前線に投入すべき旧式戦艦群も核の炎に焼かれて一掃されていた。金剛型と主砲や弾薬が共通となる14インチ砲を搭載した伊勢型、扶桑型もその全てが喪失していたのだ。
裏を返せば日本本土に残された14インチ砲関係の資材は、比叡以外に使うものがいなくなっていたのだ。
練習艦として細々と運行していた時には後回しになっていた兵装周りの修理工事の予定が急遽差し込まれると、熟練下士官と新兵で構成された乗員を乗せた比叡は意気揚々と戦場に向かっていた。
ある意味で戦隊主力である特設砲艦隊は同型の戦時標準規格船と共に台湾に残されていたのだが、比叡と続行する2隻の巡洋艦はルソン島北端への上陸作戦にも艦砲射撃任務に駆り出されていた。
特設砲艦は再装填が難しく本命への上陸作戦に専念させる予定だったのだが、戦隊に配属された八雲と久慈の2隻には有力な砲兵装が備わっていたからだ。戦利艦を改修した八雲も新鋭巡洋艦からすれば相当に外れたものだったが、続航して射撃を行っていた久慈も異様な姿の艦だったのだ。
久慈は当初米代型軽巡洋艦の同型艦として計画されていた。
防空艦としては中途半端な存在になってしまった石狩型軽巡洋艦の教訓を受けて計画された米代型は、1万トン級の大型巡洋艦に長10センチ砲を満載した防空巡洋艦だった。
逐次欧州に送り込まれた米代型軽巡洋艦は、空母部隊の直援艦として幾度もドイツ空軍機の攻勢を跳ね返していたのだが、その最終番艦として計画されていた久慈のみは大戦終結によって当初とは違う形で就役していた。
大戦中にドイツ空軍機によってローマ沖で行われた英艦隊に対する誘導爆弾の投入がその切っ掛けだった。友軍機の乱入などで事なきを得たものの、それまでさほどの脅威ではなかった重爆撃機による高高度からの水平爆撃が飛躍的な命中精度の向上を見せていたのだ。
これまでの海軍艦艇に備えられた高角砲は、このような高高度への射撃を想定していなかった。高初速の新鋭高角砲であれば1万メートル程度の射高を有するのだが、諸元上の射高はあくまでも垂直近くまで砲身を傾けた時のものであり、そのような射撃姿勢で発砲すれば水平面の射程は極端に短くなっていた。
敵機が都合よく直上を通過してくれれば射高に収まるのだが、高高度からでは投弾から着弾まで時間がかかるから、投弾後も相当な距離を爆弾は水平移動していた。実際に射高に敵機を収める頃には、既に遥か手前で投弾された誘導爆弾は命中しているのではないか。
しかも、大戦終結後の調査によってドイツ空軍が使用した誘導爆弾がソ連を経由して米国に渡っていたことが確認されていた。当時の米陸軍航空隊の主力重爆撃機だったB-32から行われた誘導爆弾の投下実験が公表されたことで、想定は現実の脅威へと変化していたのだ。
高高度を飛来する重爆撃機という新たな脅威に対抗するために、当時の海陸軍は艦載高角砲や野戦高射砲と比べて格段に高い射高を有する大口径高角砲の開発を進めていた。
陸軍航空隊と海軍航空隊の一部が統合して空軍が発足した後にこの高射砲に関しては空軍の管轄に移管されていたことからも、拠点防空の要としてこの大口径砲を軍上層部がどのように評価しているかが伺えるのではないか。
制式化された15.5センチ高角砲は、帝都近郊など限られた要地に展開する空軍所属の高射師団に配備されていたのだが、この大口径高角砲を装備する艦艇として計画されたのが、米代型軽巡洋艦を原型とした久慈だった。
空軍配備の高角砲は一門ずつ砲台に据え付けられていたのだが、久慈に搭載された主砲塔は艦載砲としてまとめるにあたって連装砲塔化されていた。
ただし、同格の1万トン級重巡洋艦であれば8インチ級主砲を計8から10門程度は備えているのに対して、一回り小さい15.5センチ砲であるにも関わらず、久慈が装備する大口径高角砲は3基6門に過ぎなかった。
このクラスの大口径砲に、各種長距離観測機材や高角砲として必要な発射速度を保つための装填機構を備え付けた事で、砲塔や射撃管制装置が規模の割に恐ろしく大重量化してしまっていたのだ。
問題はそれだけではなかった。長距離射撃を行うには1万トン級の大型軽巡洋艦でも安定性が不足していた。比較対象が不動の大地に据え付けた空軍の重高射砲であるのがそもそもの間違いだったと言える筈だが、艦政本部は安定した射撃台を艦上に再現する為に異様な艦型を採用していた。
実際に久慈を初めて見た海軍軍人は、大半のものが首を傾げていた。米海軍でも採用されている電気駆動方式を採用した為に機関部には変更点が多いが、久慈の船体構造は原型である米代型を踏襲していたはずだった。
ところが、その主船体から左右に伸ばされた横桁の先には安定性を向上させる為に補助船体が展開していた。つまり久慈はいわゆる3胴船形態を採用した姿で就役していたのだ。
久慈の運用実績次第では、米代型の後継としてこの船型が防空艦の主力とされる可能性もあったらしいが、実際には久慈以降に建造された3胴船もなければ、大口径高角砲を主砲として採用した艦も続かなかった。
むしろ久慈は船体規模の割に補助船体などが大掛かりすぎて中途半端な口径の砲を持て余していた。艦砲射撃任務に投入されたのもそれが理由だったのだろう。
勿論高高度から誘導爆弾を投弾してくる重爆撃機の脅威が去っていたわけではなかった。ただ高高度の目標に対抗する対空兵装の主力が、大掛かりな専用の砲兵装から制限の少ない誘導噴進弾に切り替わっていったというだけのことだった。
大口径高角砲を安定して運用するには1万トン級の米代型を原型とした久慈が必要だったのだが、それよりも遥かに軽量級の石狩型が誘導弾搭載に特化した改装を受けて就役した姿を見ればその判断もおかしくはないだろう。
それに高度な計算能力を有する四七式射撃指揮装置を用いれば、戦艦や重巡洋艦主砲による長距離対空砲撃の管制も可能ではないかという声が上がると、専用の機材ばかりが必要で運用費の高い久慈を見る目はさらに厳しいものになっていったのだ。
長距離艦隊防空の要として期待されていた重高角砲を装備した久慈は、技術開発の狭間に迷い込んだ結果として海軍から見放されていたのだが、今回の上陸作戦で八雲と共に運用されていたのはその様な胡乱げな艦ばかりだったのだ。
本来であれば、第二次欧州大戦時と同様に上陸作戦においては戦艦群が事前の艦砲射撃に投入される筈だった。上陸岸周辺に設けられた敵防御施設を叩いて、内陸に進行する上陸部隊の援護を上空の友軍機に引き継ぐまで火力支援を行う為だ。
だが、日本海軍が艦砲射撃任務を与えることを想定していた旧式戦艦群は緒戦で失われていた。また残存する新鋭戦艦もフィリピン上陸作戦に先行して時間差を設けて行われていたグアム方面の反抗作戦で消耗していた。
幸いな事に同方面の作戦は米アジア艦隊主力に痛撃を加えることに成功したと判定されていた。これで米海軍主力はフィリピンにとって返す余裕を無くしていた筈だが、日本海軍の損害も小さくなかったし、損傷が少なかった艦も再編成の上で米残存艦隊の牽制に投入されていた。
戦艦群だけではなく、投入された空母部隊の場合は母艦自体よりも搭載機の損耗が大きく、相次ぐ空襲で使い果たした弾薬や燃料などの大規模な補給に加えて、予備の飛行隊と入れ替えなければ戦力を回復させることは出来なかったのだ。
だが、八雲は実際にルソン島北端への上陸作戦が始まってからしばらくして、原隊である第17戦隊に急遽復帰していた。今度は主砲による艦砲射撃ではなくではなく射出機上に搭載する兵装に期待されていたのだ。
八雲が朝令暮改のように配属を変更させられていた理由は、長距離偵察機によってマニラ湾に在泊していた米艦隊の中にアラスカ級大型巡洋艦が確認されたからだった。
今回の作戦が立案された当初、上陸作戦の決行は米アジア艦隊主力がマリアナ諸島攻略のためにグアム島周辺海域に集結し、我が主力艦隊でこれに打撃を与えた後に行うこととされていた。
サイパン島には志願した少数の偵察部隊を除いて日本軍の戦力は存在していなかったのだが、妙に米軍の動きは遅く米艦隊の主力はサイパン沖に集結し続けていた。
日本軍空母部隊の執拗な空襲と水上戦闘艦による夜襲によってサイパン沖の米艦隊主力は大きな損害を被っていたはずだったのだが、彼らはフィリピンの防衛をおざなりにしていたわけではなかったのだ。
アラスカ級大型巡洋艦の存在はそれほど重く日本軍にのしかかっていた。30センチ砲を搭載した同級は実質上に巡洋戦艦であると捉えられていたからだ。
米海軍は開戦時に6隻のアラスカ級大型巡洋艦を保有していた。そのうち2隻以上がサイパン沖で確認されていたから残りは米西海岸か大西洋方面に投入されていたと思われていたのだが、実際にはアラスカ級の全てがアジア艦隊に配属されていたのではないか。
勿論アラスカ級には正面から「戦艦」を相手にする戦闘能力はないはずだが、連合艦隊司令部がサイパン沖の戦闘に投入された第11分艦隊に残存する貴重な新鋭戦艦を回した結果、ルソン島上陸支援に投入された第12分艦隊に配属された戦艦は旧式化した比叡1隻のみだった。
第12分艦隊は配属された戦闘艦の多くをルソン島西岸を北上する米艦隊の迎撃に回していたのだが、その先鋒は特殊な兵装を有する第17戦隊が務めており、同時に戦隊司令官は大型軽巡洋艦である利根、筑摩の前に八雲を出していた。
八雲型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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