1951フィリピン上陸戦12
日本軍によるフィリピン上陸作戦は、再編成された第3航空軍による航空撃滅戦という形で幕を上げていた。
複数の飛行師団を束ねる大規模部隊である航空軍は、元々戦時編成という色が濃かった。陸上部隊と同じく本来は常設の飛行師団が戦略的な単位であったからだ。
複数の航空軍が第二次欧州大戦において編成されたのは、戦間期に大規模化した陸軍航空隊が複数の戦域に展開したことで、日本本土にあって全陸軍飛行部隊を指揮下に置く航空総軍と前線飛行師団の中間結節点となる司令部が必要となったからだ。
戦時中は本土防空を目的に編成された第1航空軍に続いて、英国本土に駐留する第2航空軍と、地中海戦線を担当する第3航空軍の3個航空軍司令部が編成されていた。
だが、第3航空軍は大戦終盤には解散していた。イタリア戦線が半島を駆け上がりその付け根に達し、さらにフランス本土が陥落する前にドイツが国際連盟軍と講和したことで、地中海戦線そのものが消滅していたからだ。以後は第2航空軍が欧州派遣部隊の全指揮を取っていたのだ。
陸軍航空隊と海軍航空隊の一部が統合されて誕生した空軍においても、平時編成においては航空総軍隷下には第1、第2航空軍司令部しか配置されなかった。
欧州駐留部隊をまとめて管理する在英の第2航空軍はともかく、本土防空用の第1航空軍などはむしろ大規模な防空司令部を管理する部隊として認識されていた程だった。
久々の外征部隊として再編成された第3航空軍は、航空軍直轄部隊を除いて最前線での戦闘を担当する第5飛行師団と、これを支援する輸送や偵察部隊などの独立飛行中隊を集約した第6飛行師団に再編成されていたのだが、戦場が大きく動けば更なる部隊の配属や再編成もあるはずだった。
航空撃滅戦に投入されたのは、この内第5飛行師団と第6飛行師団隷下の偵察部隊だったが、台湾沖から出撃した部隊は今のところ優位に戦闘を進めていた。
元々開戦直後に行われた海軍空母部隊による大規模な空襲による損害から、米陸軍航空隊の在フィリピン航空部隊は戦力を回復しきっていなかったからだろう。
だが、どうやら第3航空軍が優位に戦闘を進めていたのはそれだけが原因では無いようだった。というよりもマニラに司令部を置く在フィリピン米軍がその程度のことも計算の内に入れていなかったとは村松大佐には思えなかったのだ。
おそらくは米陸軍航空隊も日本軍の航空撃滅戦はある程度予想していたはずだった。同時にその限界も見極めていたのではないか。
フィリピン上陸作戦の前哨戦としてルソン島北部の島嶼部が占領されていたが、それらの小島は不時着地としては使用できても、本格的な航空戦の拠点としては活用できなかった。
つまりフィリピンに対する航空戦では、日本空軍の出撃拠点は再南端でも台湾南部に置くしか無かったのだ。
勿論海軍の空母部隊は自在に海上を機動できるのだが、日本海軍の主力部隊はフィリピンから二千キロ以上も離れたグアム方面の反抗作戦に投入されていたから、短期間で再編成してフィリピンに投入される可能性は低かった。
実際には上陸部隊の直掩には、船団護衛用の海防空母だけではなく海軍から正規空母も投入されていたのだが、その数は旧式空母や就役したばかりの新鋭艦をかき集めても僅か3隻しかないから、積極的な戦闘に投入するには不安のある数でしかなかった。
隠し玉として運用するならともかく、空母部隊は実質的に上陸部隊の直掩に使用するしか無かったから、在フィリピン米軍が相手にする部隊は緒戦の航空撃滅戦に限れば台湾から展開する第3航空軍のみといっても過言ではなかったのだ。
第3航空軍と相対する在フィリピン米軍の航空戦力はルソン島中部に集結していた。というよりも地上部隊や米海軍アジア艦隊も含めて、フィリピンにおける米国の拠点はマニラ周辺に集中していたようだった。
スペイン統治時代から整備された人口密集地であるマニラ周辺では第二次欧州大戦以前から大規模な築城工事も確認されていたから、攻略には相当の準備が必要となるだろう。
航空戦においては米国側に有利な点もあった。台湾とルソン島の距離だった。ルソン海峡に浮かぶ島々を占拠されて丸裸にされたとしても、ルソン島は決して小さな島ではなかった。
そのルソン島北端からマニラに至るまでの広大な地域に監視哨を設ければ、台湾から南下してくる日本軍機を早期に発見するのは難しくないはずだった。その一方で、日本軍機が監視哨を欺瞞するために迂回機動を行うのは航続距離の点から難しかったのだ。
日本本土を狙う米軍の戦略爆撃を迎撃する中で日本軍内部でもあらためて認識されていたのだが、航空戦の迎撃が成功するか否かは、どれだけ遠距離で敵機を発見しうるか、言い換えれば迎撃態勢を早期に構築できるかどうかにかかっていた。
いくら敵機群が強力であったとしても、早々に発見さえできれば余裕を持って出撃させた迎撃機に上昇させて有利な位置から攻撃をかけられたし、逆に迎撃機の展開が間に合わずに奇襲を受けることもあった。
そして早期警戒が成功するかどうかは、彼我の技術格差などに加えて、地形による影響も無視出来なかった。
北上してくる敵機から日本本土を防衛する場合、重要なのは小笠原諸島に点在する哨戒拠点を維持することにあった。グアム島を出撃して帝都東京周辺を狙う米重爆撃機は、北上する過程で南方の宇津帆島や硫黄島に設けられた監視哨で逐次確認されていたからだ。
点在する島嶼部の監視哨から送られてくる情報を受けて、帝都防衛を担う各防空戦闘機隊は前方に進出して待ち受けることが出来たのだが、これが更に北の伊豆諸島まで踏み込まれれば敵機の位置を把握できない空白の領域が大きくなるから、最終的な目的地を絞りきれずに遊兵化してしまうのではないか。
勿論現代では監視を行うのは目視だけではなかった。大規模な電源が確保出来るような島には、長距離対空捜索用の電探が設置されて電子の目で敵機を見張っていたのだ。
それに昨今では機上電探を搭載した哨戒機や防空巡洋艦並の対空電探を備えた特設哨戒艦の存在も無視できなかった。
地上据え付けの電探によって構築されている監視網には島嶼間に隙間が生じるのだが、この隙間を縫うように展開する哨戒機を加えることで、日本軍は細長くどこに敵機が来襲するか分からない日本本土を守りきろうとしていたのだ。
だが、日本軍の迎撃を受けていた米軍もそのことは戦訓から理解していたのではないか。
台湾から出撃した司令部偵察機の中には記録装置が連結された逆探を備えて密かにフィリピン上空を飛び回っていたものもあったようだが、ルソン島北部においてもいくつか電探を使用している痕跡が確認されていたらしい。
勿論、司令部偵察機による偵察内容、しかも電波情報など本来は航空軍司令部のような空軍の上級司令部しか触れられない情報のはずだが、前線部隊の間では知れ渡っていた。
航空軍によって行われた航空撃滅戦においては、新鋭の五一式爆撃機で構成された編隊がいくつかルソン島北部のこれまで見向きもされなかった箇所を爆撃していたからだろう。おそらくはそこが米軍が構築した電探哨戒基地であったはずだ。
ただし、米軍の広大なる相当に点在する哨戒網にどれだけの損害を与えたかは不明だったが、そのすべてを無力化するのは難しいだろう。哨戒網の主力は電探だったとして、目視による対空観測まで事前に探知するのは不可能だからだ。
哨戒網を除いたとしても米軍には地勢上有利な点があった。本州にも匹敵するほど長く南北に広がるフィリピン諸島そのものを縦深として活用出来るのだ。
標的となった米陸軍航空隊からすれば、いくら開戦前から時間を掛けて整備されていたとはいえルソン島中部の航空基地にとどまる理由はさほどなかった。日本軍の手の届かないルソン島南部か、更に後方の南方に位置するサマール島やミンダナオ島などに退避してしまえばいいのだ。
皮肉な事に昨今の主力機は噴進機関の採用で高速化、大出力化していたのだが、燃費が悪化して航続距離の面では従来機よりも悪化している面があるのも否めなかった。
もしかすると、従来のレシプロエンジンであれば航続距離を活かして空中退避から帰還する米軍機を吊り野伏の様に待ち受けて仕留めることも出来たかもしれなかったが、噴進機関搭載の最新鋭機にはその様な航続距離の余裕はなかった。
航空機は戦術的には噴進機関の搭載で進化したものの、戦略的な柔軟性は低下していたとも言えるのではないか。
戦略的というのであれば、本来であれば対米有事の際には、日本軍は委任統治領の島嶼部を短期間で造成して飛行場を構築することで日本本土から航空戦力を南太平洋に急速展開させる予定だった。
その為に戦術的機動力を与えられた機械化工兵部隊である飛行場設定隊を空軍は用意していたのだが、南太平洋戦略の要であったトラック諸島を失ったことでなし崩し的に孤立した委任統治領から撤退を続けていた。
仮にフィリピン東方のパラオあたりに無事航空基地を建設することが出来ていたのであればフィリピン南方が攻撃圏内に収まるから、米軍の戦略縦深を側面から突き崩すことも可能だったのではないか。
だが、ルソン島中部の空襲は空振りに終わるのではないかという航空撃滅戦が開始された当初の予想に反して、米航空戦力の少なくない数を短時間の間に地上で撃破することに成功していた。
日本軍の航空撃滅戦は、着火性の高い焼夷子弾を広い範囲に散布する収束爆弾など、機材面では前大戦の頃から航空基地攻撃に特化した機材を集中投入して効率を高めていた。
新鋭の五一式爆撃機や四五式爆撃機からなる空軍の高速のジェット爆撃隊は、その様な特殊機材を用いた反復攻撃によって大きな戦果を上げていたようだった。
戦果の誤認ではないかと村松大佐は疑ったのだが、実際には米軍は戦略縦深を活かすことが出来ずに、多くの部隊がルソン島中部の航空基地にとどまっていた状態であったらしい。
詳しくはわからないが、空軍は海南島や英領北ボルネオといった同盟国領を遥々と経由して、魔法の様な手口でフィリピン南西部に位置するスールー海を囲む島嶼部に戦力を送り込む事に成功していたらしい。
ルソン島南部からミンダナオ島を狙う位置に日本軍の航空戦力が進出した気配を見せたことで、米陸軍航空隊は後方に退避する余裕を無くしたまま熾烈な航空撃滅戦に巻き込まれて戦力を消耗していったようだった。
そして台湾からの航空援護を受けながら、満を持してルソン島北部に日本陸軍第5師団が上陸を敢行していた。広島に駐屯する第5師団は、近隣に陸軍船舶司令部を有する事もあって以前から上陸専用の機材を豊富に配備された上陸部隊に指定されていた。
第二次欧州大戦開戦前はその分他師団よりも重装備の比率が低かったのだが、大戦中盤以降、国際連盟軍が欧州に地盤を築いて最早大規模な上陸戦が想定されなくなった時点で、他師団との戦力均衡を図るために戦車隊や砲兵隊を増強されて機動歩兵師団に再編成されていた。
元々日本陸軍はシベリアーロシア帝国救援の為に、防衛戦において打たれ強く戦略的な柔軟性を維持するために部隊規模の大きい4単位師団を維持していたから、師団全力の上陸は時間がかかっていた。
ただし、第5師団の上陸に時間がかけられていたのは他の理由もあった。揚陸専用機材の多くはまだ台湾で方面軍主力を収容中だったからだ。第5師団はあくまでもフィリピン攻略のために編成された台湾方面軍の前哨部隊でしかなかったのだ。
そしてこの上陸岸を狙ってマニラから出撃した米海軍の艦隊がルソン島西岸を北上中との報を上陸岸近くで待機していた重巡洋艦八雲が受け取ったのは、夜を徹した上陸作業が始められようとしていた頃だった。
四五式司令部偵察機の設定は下記アドレスで公開中です。
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四五式爆撃機の設定は下記アドレスで公開中です。
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五一式爆撃機/イングリッシュ・エレクトリック キャンベラJ型の設定は下記アドレスで公開中です。
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八雲型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。
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