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1951フィリピン上陸戦11

 日本海軍が、電探や各種見張りからの情報を集約して指揮官に図示して提供する中央指揮所という概念を思いついたのは、それほど以前のことでは無かった。

 第二次欧州大戦海戦以後に慌ただしく編成されたことで、国際連盟軍の護送船団は雑多な民間商船や艦種の異なる護衛艦艇で構成されていたのだが、それは結果的に基本的に艦種毎に性能が揃えられた上に長期間の訓練によって編隊行動に習熟した正規の軍艦とは違って集団行動自体が難しかった。

 当初中央指揮所が設けられたのは、この錯綜しがちな護送船団の指揮を取るために設けられていたのだった。



 始めて中央指揮所が設けられたのは狭義の軍艦となる正規大型戦闘艦ではなかった。徴用された貨客船に最低限軍艦として機能するに足りる艤装品を施した特設巡洋艦だったのだ。

 というよりも、初期の中央指揮所は関係者が思いついた限りの機能を盛り込んでいった結果として必要以上に肥大化していたから、客船として使用されていた空間をいくらでも転用できる特設巡洋艦にしか詰め込めなかったのだ。


 第二次欧州大戦前に日本政府は有事の際に徴用されることと引き換えに一定以上の性能を有する商船の建造に補助金を交付する優秀船舶建造助成法を施行していた。

 これを利用して大阪商船が発注した報国丸型貨客船は建造時期が大戦勃発にまたがっていた。4隻が計画された報国丸型のうち開戦時に就役していたのは報国丸、愛国丸の2隻のみだった。

 この2隻は通常の特設巡洋艦として運用されていたのだが、4番船である興国丸は建造途上で徴用されたことからその内装を大きく改造して指揮艦機能に特化した特設巡洋艦として就役していたのだ。


 興国丸に設けられた大規模指揮所の機能は極めて高く、前線の艦隊司令部というよりも本土防空用の航空軍司令部や陸に上がって久しい連合艦隊司令部に相応しい規模だった。

 日本海軍が今でも機材の更新のみで興国丸を徴用から購入に切り替えて揚陸戦指揮を行う特務艦鳴門として運用しているのは、その大規模司令部機能が手放せなかったからなのだろう。



 だが、そのような大容積の中央指揮所を戦闘艦の艦内に新設するのは困難だった。

 理想的には司令塔のように主砲に耐えうる分厚い装甲の内側に艦長や各級指揮官を収容する中央指揮所を設けるべきなのだが、戦闘継続に必要な最低限の機能を覆った主装甲帯の内側には中央指揮所に転用できるような余剰空間は無かったのだ。

 先の第二次欧州大戦中に中央指揮所を追加された艦の多くは、装甲帯の外側に指揮所を増設していた。例えば損害復旧工事と共に指揮所を追加した高雄型重巡洋艦の鳥海などは、損傷した第3砲塔を撤去して増設した艦橋前の甲板室内に艦隊指揮用の中央指揮所を設けていたのだ。

 その一方で個艦戦闘用の中央指揮所は簡素化を続けていた。凝った駒で周辺の状況を示す巨大な海図盤の代わりに、周辺の状況を簡易に示す透明樹脂製の態勢表示盤が積み込まれていたし、電探表示面も新型になるほど軽量化と表示面の視認性を向上させていった。


 組織、人事面でも中央指揮所の配置が常用化したことで大きな変化が生じていた。

 当初は電探表示面などが配置されていたことなどから応急的に通信長が中央指揮所の指揮官を勤めていたのだが、場合によっては艦長や各級指揮官が陣取ることもある上に、情報が集約される中央指揮所に艦の指揮を委任する可能性などからより高位の指揮官が要求されていた。

 そこで日本海軍では、各科から独立した戦闘幹部として、艦長、副長に次ぐ戦術長という役職を新たに設けていた。この戦術長配置は八雲を皮切りに設けられていったのだが、最近では就役時から中央指揮所を設けた新造艦を中心に僅かな間に続々と戦術長が各艦の定員表に書き加えられていった。



 機材だけではなく人員配置においても実験艦として活用されていた八雲だったが、中央指揮所に関しては対米戦の開戦直前に更なる改装を受けたばかりだった。

 指揮所内の機材更新も同時に行われていたのだが、改装工事は中央指揮所の艦内配置を変更する大規模なものだった。


 この八雲の原型となったプリンツ・オイゲンが就役した当時には中央指揮所などドイツ海軍には概念すら無かった。だから当初の改装工事で新設された中央指揮所はその配置場所を探すところから始めなければならなかった。

 日本海軍艦がそうであるように、当初はプリンツ・オイゲンにも主装甲帯の内側には新たに指揮所を設けられるような余剰空間は見つからなかった。第一次改装工事で中央指揮所が増設されたのは、煙突と後部マスト間に設けられていた艦載機格納庫の跡地だった。


 アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦は、主砲発砲時の損傷を防ぐためか船体中央部に航空艤装を集中していた。搭載された射出機の数は中心線の1基のみだったが、その下方に設けられていた格納庫には2機分の水上偵察機を分解状態で収容することが可能だった。

 空母戦力を補うために水上爆撃機隊を編成する構想があった一時期の日本海軍巡洋艦と比べると航空艤装は貧弱だったが、3機の水上偵察機を搭載するという能力は必要十分と言ってよいだろう。


 だが、第二次欧州大戦中の急激な航空技術の発展は、どうしても巨大な抵抗源となる浮舟を抱えて飛ばざるを得ない水上機を置いて彼方へと飛び去ってしまっていた。

 一部ではジェットエンジンを搭載した水上機の開発を行っているというが、特定の機種ではなく水上機という機体の構造自体が時代に取り残されて陳腐化していると言っても過言ではなかった。


 既に水上機用の航空艤装に関する見直しは戦時中から始まっていた。例えば艦隊司令部用の指揮所を追加された鳥海では一部の兵装を改装工事の際に撤去していたが、開戦前に左右舷にそれぞれ装備していた射出機は右舷機のみが残されて搭載機も射出機上に固定される1機のみとされていた。

 鳥海に射出機が残されたのは艦隊司令部用の高速連絡機として三座の水上偵察機を運用するという想定があったからなのだろうが、既に日本海軍は戦時中には使い勝手の良い回転翼機の性能に注目していたから、連絡機としての寿命も長くはなかった。

 大型巡洋艦と共に水上機を搭載していた艦隊型の高速水上機母艦は、発着艦用の飛行甲板を増設して短距離の連絡や艦砲射撃時の弾着観測用に回転翼機を集中搭載する母艦に改装されていた程だった。


 勿論八雲の本来ドイツ軍機仕様の格納庫を残す意味も無かったから、早々に中身のない格納庫は倉庫代わりにしか使用されていなかった。

 射出機は撤去されずに残されていたが、単に上部に固定された搭載機分の重量を支えるために頑丈に作られた射出機基部を取り除いた場合は構造材から手を加えなければならなかったからではないか。

 中央指揮所に必要だったのは空間の他に各種電探や通信機と繋がった電路と電力だったから、どのみち改造工事で必要な電路の増設によって格納庫跡地は各種電子兵装が所狭しと並ぶ指揮所に生まれ変わっていたのだ。



 八雲に開戦前に行われた改装工事では、この中央指揮所自体の配置が再度変更されていた。この改装工事はそれまで試験的に行われていた四七式射撃指揮装置に全面対応するものだった。

 これまでの実験結果などを踏まえて、暫定的に搭載されていた四七式射撃指揮装置が主砲や高角砲など全ての火砲の射撃管制に使用される事となっていたのだ。

 今回の改装工事は、方位盤と射撃盤を搭載している従来艦への四七式射撃指揮装置の切り替え工事に関する試作を兼ねたものだと乗員達からは受け止められていた。


 従来の射撃管制は、目標と自艦との相対速度や方位を測距儀や電探を用いて観測して照準を行う方位盤と、そこから得られた観測値から射撃値を算出するために複雑な計算を行う射撃盤によって構成されていた。

 射撃管制という手法自体が始まった当初は、一部の高射装置などでは機械式計算機である射撃盤を方位盤と統合する機種もあったのだが、長距離砲撃の精度を向上させるために計算式が複雑、高速化が図られていく中で巨大化して射撃盤は別置きされるのが常態化していた。

 通常は各種方位盤は観測機材の関係から艦橋構造物の中でも最上部の安定した甲板に設けられていたのだが、歯車と操作把柄で構成された巨大な計算機械である射撃盤は、砲撃戦に欠かせない機材として艦内主装甲帯内側の発令所に収められていた。


 四七式射撃指揮装置が画期的であったのは、射撃照準で得られた数値を電気信号化することによって、機械式計算機ではなく電子計算機を使用することにあった。

 八雲などで行われた射撃試験の成果を反映して逐次改良された電子計算機は、照準から射撃値の算出まで高速で行う事が可能だった上に、機械式計算機と違って電力が続く限り操作員の疲労による計算速度の低下なども発生しなかった。

 それ以上に計算機の圧倒的な容積縮小が射撃盤と方位盤の再統合、というよりも設計当初から両者を一体化させた筐体構造の設計を可能としていたのだ。


 従来は方位盤は前後部艦橋や対空射撃用に複数機が搭載されていても、射撃盤は容積の制限から搭載数は少なかった。射撃指揮用、副砲用に一機づつの射撃盤と発令所が設けられているといった配置をとる艦が多かったのだ。

 ところが四七式の採用によって射撃管制機能は方位盤の数と同じだけ存在することになった。勿論機能はどこに配置されても同様だったから、従来は射撃盤の数で制限されていた複数砲塔による分火射撃も容易だった。理屈から言えば射撃指揮装置の数と同じだけの目標に射撃を行う事が可能となるのだ。


 同時に四七式射撃指揮装置の搭載によって従来の射撃盤は不要機材となっていた。これまでの限定的な改装工事では、比較実験の為に四七式と並行して従来から搭載されていた方位盤も使用されていたのだが、全ての方位盤が対空用も含めて四七式となれば射撃盤は収めていた発令所と共に不要となっていた。

 艦内奥深くの主装甲帯の内側に設けられた発令所跡地は、やや手狭であることを除けば中央指揮所に転用するには理想的な配置だった。そこで搭載機格納庫跡地から機材の更新を兼ねて中央指揮所の移動工事が行われていたのだ。



 ―――だが、実際にはこの指揮所移動は八雲改装工事の当初から艦政本部あたりでは計画されていたのかもしれない……

 機材の更新によって電探表示面などは小型化されたものの、態勢表示盤を収めた八雲の中央指揮所容積には余裕はなかった。配置についている将兵や態勢表示盤を確認しながら中央指揮所の指揮官席で八雲艦長の村松大佐はそう考えていた。


 本来、今のように全乗員が持ち場につく戦闘配備において中央指揮所の指揮官となるのは戦術長だった。だが、各科ではなくその艦の司令部を成す戦闘幹部の配置は厳密なものではなかった。特に艦長は戦闘の推移によって部署を移動する可能性があった。

 例えば自由な回避行動が可能な個艦での対空戦闘であれば、艦長は艦橋上部の対空指揮所で自ら敵機の機動を観測することもあるのだ。

 そして村松大佐は、ルソン島西岸を北上する米艦隊を夜間に迎撃するというこの局面において、自艦のみならず僚艦からの情報も集約される中央指揮所での戦闘指揮を決意していた。


 先の第二次欧州大戦では重巡洋艦の通信長や各級艦隊の通信参謀を歴任していた村松大佐は、砲術戦を主任務とする重巡洋艦の艦長でありながら生粋の通信科将校だった。

 元々自分の航海術にはさほどの自信はなかったが、八雲の指揮に関しては躊躇はなかった。前任艦長が戦時中の特例まで加味した停限年齢に達して八雲を降りるまで、村松大佐は副長兼戦術長として本艦に勤務していたからだ。

 この改装工事後の発令所を転用した中央指揮所の主として差配を振るったことはなかったが、改装工事と共に新たに赴任してきた戦術長よりも中央指揮所での艦指揮には慣れているつもりだった。


 村松大佐が指揮する八雲は急速に米海軍との予想交戦海域に向かっていたが、この艦を編入した当初の目論見とは異なり、八雲はルソン島上陸のために集結している全艦隊の先駆けとして最も南下した位置を航行していた。

 だが、その八雲の搭載機格納庫は、中央指揮所が去った後に当初は予想もしていなかった機材が満載されていたのだった。

特設巡洋艦興国丸の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/hskkoukokumaru.html

八雲型重巡洋艦の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cayakumo.html

高雄型重巡洋艦鳥海の設定は下記アドレスで公開中です。

http://rockwood.web.fc2.com/kasou/settei/cachokai1943.html


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