1951フィリピン上陸戦8
最初に会った時にアブドラーが予想した通り大友は日本軍の軍務経験者だったが、第二次欧州大戦後に退役していた。意外な事に大友は海軍の兵科士官だったのだが、報道されている退役中尉という肩書からすれば軍務に服していた期間はごく短いものでしかなかった筈だった。
アブドラーの目から見ても大友の軍人としての経歴は奇妙なものだった。彼の年齢からすれば、下士官兵から累進した特務士官という事はありえなかった。
その一方で海軍士官を育成する兵学校出身であれば、小、中尉など見習いのようなものだった。陣容の小さい小型艦や陸戦隊に配属されていたのでもない限り責任ある立場に任命されるほど経験のある階級ではなかったのだ。
例えば、開戦前の日本海軍の士官教育制度では、航空士官となった場合は士官任官後に飛行学生として操縦訓練を受けるから、戦場に出るのは中尉になってからとなるのだ。
それに報道の記述にも妙なところがあった。日本海軍は大友を退役中尉としていたのだが、実際には中尉の停限年齢にはまだ間があるから、本来であれば軍務を離れたとしても普通なら退役ではなく予備役中尉と呼ばれているはずだったのだ。
第二次欧州大戦後に急速に進められた軍縮で退役した士官も多いが、それらの多くは予備役編入とされて有事の際は再招集を受けるはずだった。
だが、調べ始めてすぐにアブドラーは大友の新聞報道の記述に不自然な点がある理由にたどり着いていた。大友は実質的に海軍を追われた人間だった。彼は国粋主義的な極右団体の一員だったからだ。
報道によれば、やはり大友の年齢はアブドラーと似たようなものだった。海軍兵学校を出て軍務に就いたのは欧州大戦時の僅かな期間に過ぎなかったのだろう。だが、その直後に大友は極右団体との繋がりが問題視されて除隊を勧告されていたのだ。
その極右団体の詳細は報道だけを追いかけていては不明なところも多かったが、以前は陸海軍内外で隠然たる勢力を保っていたらしい。ところがアジア主義を唱える極右団体は、財閥と結びついた政党政治を敵視してクーデターによる国家改造を計画するという危険な段階まで行き着いてしまっていた。
だが、第一次欧州大戦を契機として政財界が主導して始まった日本帝国の工業化は、過激な政策変更を良しとせずに現状維持を望む中間層を増大させていた。
そうした工場労働者を始めとする中間層の多くは、左右を問わずに政治団体の極端な主張に冷やかな視線を向けていた。軍内に潜んでいた極右団体の参加者は、杜撰なクーデター計画を事前に掴んだ憲兵隊などの手で早々と拘束されていたらしい。
勿論そのクーデター未遂はもう10年以上前のことだから、大友とは無関係だった。あるいは隊内で極右団体の主張を垂れ流していたのが問題視されたのかもしれない。
その一方で国内における勢力拡大に限界を感じた団体は、アジア主義を武器にして海外勢力との連携を視野に入れ始めていたのだろう。軍歴を持つ大友はその中でも現地に赴いて革命勢力の支援を担当していたようだった。
ただし、報道の傾向は極右団体の主張とは相容れないものだった。大友が逮捕されたのは、国粋主義の政治犯としてではなく、単に違法な武器輸出の片棒を担いだのが理由だったからだ。
おそらくは、これがアブドラー達に渡された火器のことだったのだろう。こちらはアブドラーが予想した通りに大友は使い走りに過ぎなかった。極右団体には大物の企業家も参加していたからだ。
日本国内では、この事件は大規模な違法兵器輸出、横流しとして報道されていた。大友の扱いは相対的には小さく、彼らの支援者だったある造船会社の社長の方が大きく報道されていたのだ。
アブドラーは脱力していた。大友の背後には日本政府の影など存在しなかった。結局彼らは大言壮語する夢想家に過ぎなかったのだ。むしろ、そんな輩の正体に気が付かずにいい気になっていた自分たちこそ愚かだったのかもしれなかった。
もしかするとアブドラーも内心では大友を大物だと思い込みたかったのかもしれない。自分たちが支援するに値するほどの存在であると信じたかったのだ。
失意のもとにアブドラーは日本を後にしようとしていた。もう二度と故郷には足を踏み入れまいと思ったのだが、宿を引き払おうとした時にふと違和感が浮かんでいた。
確かにフィリピンへの武器搬入は単なる違法輸出案件であったのかもしれないが、同時期に他のアジア諸国で発生していた事案とはどう違うというのか、それが気になりかけていた。
サラワク王国で起こった国境紛争では、あまりに都合よく力作車や輸出用の軽戦車などが運び込まれていた。それに仲間の傭兵達から聞いた話では、アチェ王国での戦闘でも密かに独立派を支援する動きがあったらしい。
それは航空機まで投入した本格的なものだったというのだが、大友達のような極右団体がその様な大規模な支援まで行えるとは思えなかった。
その行為だけ見ればアブドラー達に接触した大友達と変わらないように思えたが、実際には今回事件化された極右団体などと比べると介入は巧妙に行われていた。
大友は無造作に現地人に向けて日本製である事を隠そうともせずに各種小火器や装備を渡していた。むしろアブドラーの方が装甲艇の偽装などに気を使っていた程だった。
しかし、アチェやサラワクへの介入では、渡された武器類の種類を聞く限りではいずれも輸出品として中立国や民間企業などを経由していた。
アチェで独立派に渡された火器は雑多なものだったらしい。日英製の旧式装備も含まれていたが、大戦中に製造されたドイツ製のものも多かったというから、鹵獲品が密かに流用されたのではないか。
そのせいなのか日本製の武器が持ち込まれていた事実を国際問題化させたフィリピンの米軍と違って、オランダ軍などが独立過激派から武器を押収してもその先へは容易にたどり着けない様に工夫されていたようだった。
―――もしかすると、フィリピン以外の独立運動には本当に政府筋が関わっているのかも知れない……
更に調査を続けていたアブドラーは憮然としてそう考えていた。どんな組織が動いているのかは分からないが、アチェやサラワクとスールー海では状況が異なるらしいからだ。
そこまでは分かったのだがアブドラーは目的を見失っていた。大友に始末をつけさせようと思っていたのだが、実際には彼自身も逮捕されていたからだ。スールー海の虎と呼ばれた組織自体が目的を失ってしまっていたのだ。
しかも、その頃には既にアブドラーは後戻り出来ないところまで深入りしてしまっていた。切掛となったのは日米開戦だった。
日本海軍の根拠地として整備されていたトラック諸島に対する米陸軍航空隊によって行われた核攻撃は、戦略的な奇襲となっていた。しかし、開戦以前から日米の外交問題となっていたフィリピン独立運動に関しては日本国内の情報関係者も注視していたようだった。
そこに一般的な報道で得られるものに留まらずに情報をかき集めていたアブドラーが現れたものだから、日本国内に張り巡らされた情報網に引っかかっていたようだった。
開戦直後から日本国内でも防諜体制が急速に強化されていたのだが、それにも増して出入国管理が厳重になっていた。入国する時は容易に出来たのだが、出国時には旅券や出国先の照会などが厳重になされるようになっていたのだ。
当初は、出国の際には職探しとでも言ってマラヤ連邦か満州に渡ろうとしていた。最悪でも準国内扱いの関東州に渡ってしまえば、大連から地続きの満州への出国は難しくないと考えていたのだが、実際には日本国内に続いて隣国である満州共和国やシベリアーロシア帝国も戦時体制へと移行していた。
それどころか最終目的地であるサラワク王国やマラヤ連邦への渡航は物理的にも難しくなっていた。日本から両国に向かう航路には間に米領フィリピンが存在していたからだ。
日本軍がフィリピン西岸に熾烈な航空撃滅戦を仕掛けた後は、遠回りとなるが比較的安全な南中国沿岸を伝う航路が使用可能とされていたが、それでも南シナ海の航行は台湾からシンガポール間で護衛部隊がつけられた船団への同行が求められていた。
しかも第二次欧州大戦以後久々に編成される護送船団は貨物輸送が優先されていたから、定期便の貨客船の運航は不定期となっていたのだ。おそらくは東南アジア諸国からの資源調達などの用事がなければ貨客船に乗り込むことも出来ないだろう。
サラワク王国の仲間達と合流する手段を無くして途方に暮れていたアブドラーだったが、失意にあったのは僅かな間だった。何かを決断する前に自分自身が拘束されていたからだ。
それは鮮やかな手際だった。気がついた時には宿に侵入されていたからだ。
そこには官憲の制服を着たものは一人もいなかった。日雇い労働者相手の安宿に屯する品が無さそうな客にしか見えない男達は、アブドラーを有無を言わせず荷物ごと宿から移送していた。
いつの間にかアブドラーの宿賃を代わりに払っていた男達の様子は、傍目にはどこかの職場が仲間を連れ帰った風にしか見えなかっただろうが、男達の顔つきは格好に似合わない鋭さがあった。
アブドラーを拘束したのは統合憲兵隊だった。本来は軍内部の犯罪捜査、綱紀粛正に当たるはずの憲兵隊だったが、日本軍では防諜機関としての性質も持っていた。
民間企業のものにしか見えない自動車に押し込められたアブドラーは、文句を言う間もなく軍の施設に連れて行かれた。出入りの業者に見せかけて軍施設内に入り込んだようだが、看板のない建物の中では変装した男達に代わって軍衣に身を包んだ軍人たちが入れ代わり立ち代わり尋問を行っていた。
事情聴取は執拗だったが、それにもまして統合憲兵隊は驚くほどアブドラー自身のことを把握していた。日本人名やこれまでの経歴にとどまらず、スールー海での行動まで確認していたのだ。
腹立たしいことに、統合憲兵隊の尋問官の口から出なかったのはアブドラーというムスリムの名前だけだった。
だが、拘束されていたアブドラーには、暫くしてから取り引きが持ちかけられていた。その日に現れたのは軍人では無かった。名乗りもしなかった背広姿の男は、高位の官僚らしい強引さと強かさを併せ持った態度でアブドラーに取引条件を伝えていた。
アブドラーを拘束した件では無かった。サラワク王国に逃した組織に対して、スールー海沿岸の独立運動を戦時中の今でも続けるのであれば、正体の詮索さえなければ支援の用意があるというのだった。
アブドラーは官僚の申し出を受けるしかなかった。自分の拘束はともかく、サラワクに逃れた組織を再編成するには、新たな支援者が必要不可欠だったからだ。
同時にアブドラーは奇妙な感覚を覚えていた。極右団体の手のひらで大友に操られていたアブドラー達は、今度は支援者を日本政府に切り替えて再出発を開始していたからだ。
やはりフィリピン以外の独立運動に密かに支援を行っていたのは彼らだったのだろう。巧妙に証拠が残らないか、後から言い逃れが出来るような形で支援が行われていたからだ。
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